礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年2月8日
 
「全家族の救い」
使徒の働き連講(48)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 16章25-40節
 
 
[中心聖句]
 
  33,34   彼(看守)とその家の者全部がバプテスマを受けた。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。
(使徒の働き 16章33-34節)


 
聖書テキスト
 
 
25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。
29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。
35 夜が明けると、長官たちは警吏たちを送って、「あの人たちを釈放せよ」と言わせた。36 そこで看守は、この命令をパウロに伝えて、「長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。どうぞ、ここを出て、ご無事に行ってください」と言った。37 ところが、パウロは、警吏たちにこう言った。「彼らは、ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、ひそかに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて来て、私たちを連れ出すべきです。」38 警吏たちは、このことばを長官たちに報告した。すると長官たちは、ふたりがローマ人であると聞いて恐れ、39 自分で出向いて来て、わびを言い、ふたりを外に出して、町から立ち去ってくれるように頼んだ。40 牢を出たふたりは、ルデヤの家に行った。そして兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出て行った。
 
先週の復習:「獄中の讃美」(25節)
 
 
昨週は、25節を中心に「獄中の讃美」と題して、最悪の牢獄環境にあって尚、心から主を讃美し、祈りを捧げたパウロとシラスの姿を学びました。締め括りに「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」というテサロニケへの第一の手紙を引用しました。一つお詫びして訂正いたします。この手紙は、ピリピでの牢獄体験の数か月後の執筆であります。私は、その1、2年前と言ってしまいましたが、全くの勘違いでした。ただ、パウロは自ら実践したことと、人に勧めていることは同じである、という趣旨は汲み取って頂けるものと思います。さて、今日はその続きです。
 
A.大地震(25−28節)
 
 
「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。そこでパウロは大声で、『自害してはいけない。私たちはみなここにいる。』と叫んだ。」
 
1.大地震
 
 
・地震地帯:
地震大国である日本から見ると、聖書に見る地震の記事は、さほど驚くべきことではありません。当時のギリシャ・ローマ世界でも、地震は折々ありました。日本ほどではなかったと思いますが・・・。AD70年のフィラデルフィヤ地震もその一例です。しかし、ピリピにおいて大地震が、しかもこのタイミングで起きたのは、奇跡としか説明できません。

・牢獄の被害:
ピリピの町全体がどのような被害を受けたかは分かりませんが、この牢獄は、もろにその被害を受けました。「獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった」のです。
 
2.看守の驚愕
 
 
地震によって揺れ動いたのは、獄舎だけではありません。一番動揺したのは牢屋の番人、つまり看守です。

・居眠りという大失態:
ローマの兵制では、見張り中の居眠りは死刑に価する重罪でした。地震は避けがたいことでしたが、看守がそこで目を覚ましたというのが大失態でした。相当深く眠っていたのでしょう。ハッと気がつくと扉という扉が、震動のために皆開いています。しまった、と思って牢獄を見ると誰も居ません。眠っていたという失敗、囚人を逃がしてしまった(らしい)という失敗に打ちのめされて、看守が選んだ道は自殺でした。

・自殺の決意:
ローマの法律では、職務怠慢で一人の捕虜を逃したものは、自分の命をもって償わねばならなかったからです。看守は剣の鞘を抜き、自分の喉に当てようとしました。月光に煌く白刃の輝き!(というと講談の一節みたいですね)。
 
3.逃げなかった囚人たち
 
 
その刹那、牢屋の奥から声がかかりました。「待て!死ぬのは早い。我々は皆ここに居る。」驚いた看守は、灯りをつけて声のほうに行くと、何と、例の二人の周りに、荒くれた囚人たちが小羊のように大人しく座って話を聞いているのです。これは、地震以上の奇跡です。これを齎したのは、パウロたちの祈りと讃美でした。25節に「ほかの囚人たちも聞き入っていた。」とありますが、二人は囚人たちの心に大きな影響を与えておりました。ですから囚人たちは、地震のどさくさに紛れてが脱走しようとは考えず、二人の語る福音に聞き入っていたのです。自分の人生の全てが揺すぶられた看守は、揺すぶられないものを持っている二人の中に不思議な力を発見しました。「この二人はやっぱり只者ではない。この二人が持っているものを私も持ちたいものだ。」と思いました。
 
B.看守とその家族の救い(29−34節)
 
 
「看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。』と言った。ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。」
 
1.看守の質問
 
 
・遜った看守:
彼は二人の前に平伏しました。そして、「先生方!」(ギリシャ語ではキュリオイ=ご主人様方、英訳ではSirs!)と叫んだのです。しかも震えながら・・・。40年も前のことですが、仙台教会にY兄という方がいました。高校までは教会に通っていましたが、大学に入り、グライダー部に入ってからは、日曜日はグライダー三昧の日々となりました。ある日、グライダーが突風を受けて墜落しそうになり、やっとの思いで不時着ができたのですが、文字通り彼は腰を抜かしてしまいました。命が助かったという思いよりも、神から離れていた日々の記憶に打ちのめされるようになって教会に戻り、主イエスに対する信仰を新たに告白しました。

・看守の質問:
「先生方、私もあなたのもっている救いを得たいのです。救われるためにはどうしたらいいのですか。」と叫びました。およそ、聖書の素養のない看守が「救い」という言葉を発したことは驚きでもあります。二人が牢屋につかまる前、占いの霊に憑かれた女が「この人々は神の僕たちで、救いの道を伝える人たちです。」と叫んでいたのを聞いていましたから、そこで「救い」という言葉は知っていたと思われます。いずれにせよ、救いを求めるというのは、人間としての根源的な問いであり、求めです。特に、自分は失敗をしない人間だという自負心を持っている人ほど、一回の失敗で崩壊してしまうものです。その時、動揺しない人を見て、その動かないものを救いと呼ぶならば、私も欲しいものだという求道の心を顕わしたのです。
 
2.パウロとシラスの答え
 
 
・単純な道:
パウロの答えは単純明快でした。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われる。」と。「主イエスと言う人が神の子であり、すべての人の罪を負って十字架にかかった。その身代わりの救いを自分のものと信じる信仰だけがあなたを救うのだ。」ということです。この説明は、彼らが傷を洗ってもらった後で、看守と家族にやや詳しく説明したものと思います。

・家族の救いの約束:
二人は、「あなたは救われる。そして、あなたの家族も。」と約束しました。実は、この出来事の一部始終を二階に居た奥さんや子どもたちはずっと見ていました(と私は思います)。父さんが自殺をしかけたときも止める暇も無く、ただおろおろするばかりでした。その家族も救われるよ、とパウロはいったのです。

・「信じる」ことの意味:
ここで、信じると言うことを少し説明します。
1)自然のわざ:
信じるとは、誰でもしている、易しい事です。これは人間自然の行為です。私たちは何かを信じなければ生きていけません。電車に乗るのも、この電車は壊れないで目的に着くと信じているから乗るのです。その他、私たちの行動は無数の信じる営みで成り立っています。
2)信仰の対象をイエスに向ける:
その自然な営みを、主イエスに向けることが救いを齎す信仰です。主イエスは信じるに値するお方です。この世に歴史的に存在し、その生涯と教えを通して神の素晴しさを私達に示されました。その生涯の最後に十字架にかかって私たちの罪を負われました。そして、復活して今も主であって下さいます。つまり、信じる事によって救われる為の一切の備えをして下さったお方です。
3)他のものを頼らない:
私たちは多かれ少なかれ、自分の力を信じています。自分の正しさを信じていることが救いを妨げます。自分は正しいことができる、自分の力で救いを勝ち取ることができる、この自負心が救いの信仰を妨げます。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8、9)
4)信じ続けること:
一時的に信じると告白し、そのように思うことがあっても、次の瞬間に、別なものに頼ることがあり得ます。しかし、本当の信仰とは自分のみを委ねること、委ねきることです。
 
3.看守の介抱と接待
 
 
さて、この看守は単純に信じました。すぐさま、二人を二階にある家に引き取り、傷を洗い、手当てを行いました。34節の「その家に案内して」という動詞(アナゴー)の文字通りの意味は「引き上げて」です。恐らく、獄舎の二階部分が看守の家だったのでしょう。
 
4.家族の信仰告白
 
 
そして、余り議論もなく学習期間もなく、その場で家族と共に洗礼を受けました。この真夜中に、パウロとシラスを囲んで、家族全体が大きな喜びと感謝をささげました。考えても見てください。看守の家族は、深夜の地震とそれに続く騒動で、大黒柱を自殺によって失うところだったのです。それを目撃して、絶望のどん底にあった奥さんも子どもたちも、お父さんを取り戻しただけでなく、新しい人間と変えられたお父さんを見て喜びました。そして、自分たちも、お父さんを造り変えたイエス様を信じようと自然に決心したのです。その決心をしたときに、家族が一つになりました。パウロとシラスの喜びが伝染したのです。「全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。」とは、何と素晴しい表現でしょう。今家庭崩壊が至る所で見られますが、クリスチャンホームがこのようでありたいと思います。
 
C.二人の平和的出発(35−40節)
 
 
「夜が明けると、長官たちは警吏たちを送って、『あの人たちを釈放せよ。』と言わせた。そこで看守は、この命令をパウロに伝えて」『長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。どうぞ、ここを出て、ご無事に行ってください。』と言った。ところが、パウロは、警吏たちにこう言った。『彼らは、ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、ひそかに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて来て、私たちを連れ出すべきです。』警吏たちは、このことばを長官たちに報告した。すると長官たちは、ふたりがローマ人であると聞いて恐れ、自分で出向いて来て、わびを言い、ふたりを外に出して、町から立ち去ってくれるように頼んだ。牢を出たふたりは、ルデヤの家に行った。そして兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出て行った。」
 
1.長官たちの伝言:「二人を釈放せよ」
 
 
この出来事の報告を聞いた長官たちは、翌朝、警吏たちを遣わし、「あの二人を釈放せよ。」と伝言を送ります。まずいことをしたな、という思いが滲み出ています。
 
2.パウロたちの主張:「礼儀を尽くせ」
 
 
これに対してパウロたちは、啖呵を切ります。カッコいいですね。「彼ら(長官たち)は、ローマ人(市民)である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、ひそかに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて来て、私たちを連れ出すべきです。」クリスチャンが、喧嘩好きではなく、右の頬を打たれたら左の頬を向ける優しい一面を持ちながら、不義不正に対してはしっかりと反論する厳しい一面を持たねばならぬということ教えられます。私も、ある事柄を巡って行政とのやりとりを行い、似たような行動をとったことがあります。牧師らしくなかったかなとも思いますが、後悔はしていません。閑話休題。
 
3.長官たちの謝罪
 
 
長官は、ビビりました。この不始末がローマに知られたならば、長官の首が飛ぶような失敗だったからです。それをパウロが突きつけたという胸のすくようなエピソードです。「すると長官たちは、ふたりがローマ人であると聞いて恐れ、自分で出向いて来て、わびを言い、ふたりを外に出して、町から立ち去ってくれるように頼んだ。」町から立ち去らないで、残って伝道してくれと言えば、尚良かったと思うのですが、まあ、已むを得ません。
 
4.ピリピからの出発
 
 
「牢を出たふたりは、ルデヤの家に行った。そして兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出て行った。」ルデヤの家で持たれていたピリピ教会のメンバーに会い、信仰に留まるように励ました後に、次の町に向かって行きました。ピリピ4:15を読みますと、「マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。」とありますように、パウロたちは感謝を込めた送別会で送り出され、その後も支援を受け続けました。つまり、ピリピ教会は、主を愛する教会として成長して行ったのです。
 
おわりに:「あなたも、あなたの家族も」との約束を捉えよう
 
 
今日は、看守とその家族に焦点を当てました。私たちが主をしっかりと信じる時、私たち個人だけでなく、家族をもお救い下さいます。まだ、この約束が成就していない方もあると思いますが、失望することなく祈り続けましょう。
 
お祈りを致します。