礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年3月15日
 
「地に落ちて死ぬ」
受難節の思い巡らし
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの福音書 12章20-26節
 
 
[中心聖句]
 
  24   まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます
(ヨハネの福音書 12章24節)


 
聖書テキスト
 
 
20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
 
始めに
 
 
受難週を2週間後に控えています。教会暦では、レント(四旬節)と呼ばれ、受難週のために心備えをする季節です。そのような思い巡らしのために、受難週に語られた主イエスの言葉の一つ「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(24節)という言葉を取り上げます。
 
A.この言葉の背景(20−23節)
 
 
「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシャ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、『先生。イエスにお目にかかりたいのですが。』と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」
 
1.時期:受難週の第一日目または二日目
 
 
この出来事は「棕櫚の聖日」に、群衆の大歓迎を受けながら、主がエルサレムに入られた記事(12−19節)の続きです。その日に起きた事か、翌日かは分かりません。色々な出来事を総合すると翌日つまり月曜日と思われます。
 
2.きっかけ:ギリシャ人の来訪
 
 
過越しの祭りには世界中からユダヤ人が礼拝の為に集まって来ました。エルサレムは普段の10倍の百万人もの人が集まって来たと言われています。その中にはユダヤ教に改宗した外国人も含まれていました。このギリシャ人のグループも「礼拝のために」上ってきたわけです。彼らがイエスと呼ばれる人の評判を聞いており、今そこに人々の注目を集めて、存在している訳ですから、ぜひこの人に会いたいと思ったのは自然でしょう。ただ、直接「こんにちは」と近づく訳には行きませんから、近付き易そうなピリポに近づきました。ピリポの出身地はデカポリスというギリシャ的雰囲気の町に近かったので、そんな匂いがしたのではと想像されます。そもそも、ピリポはユダヤ人でありながら、ギリシャ名を持っていましたので、近寄り易かったのでしょう。でも、ピリポは直接イエスにアプローチせず、イエスの面会受け付け専門の秘書の役をしているアンデレにそれを告げ、アンデレと一緒にイエスに近づきました。さて、ギリシャ人達の興味は「イエスがどんな人かを知りたい」という一般的なものではなく、その人となりを知るために面談をしたい(お目にかかりたい)ということだったのです。つまり、メシヤへの期待を含んだものでもありました。そこに主イエスは、世界大の救いが成就する「その時」の到来を感じられたのです。
 
3.「時」の到来を意識
 
 
イエスは彼らに答えて言われました、「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」と。これによって主はご自分の「時の」到来を悟ったのです。さて、「時」についてヨハネ伝は、とても注意深くイエスの「時意識」を述べています。主なものを拾って分類してみましょう。

・「時」が来ていない時のイエスの発言:
@母マリヤに対して:「わたしの時はまだ来ていません。」(2:4);A兄弟に対して:「わたしの時はまだ来ていません。・・・わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」(7:7−8)

・「時」が来ていない時、イエスは守られた:
@「人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。」(7:6,87:30);A「イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」(8:20)

・時の到来を感じた発言:
@「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、私はこの時に至ったのです。」(12:27):A「過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」(13:1);A「イエスは・・・目を天に向けて、言われた。『父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。』」(17:1)

つまり、主イエスにとって「時」とは、「その来臨の目的である贖いを成し遂げて、その苦難を通してご自分も栄光を受け、そして、み父の栄光を顕わす時」であったのです。それに続いて主は麦の譬えを語られました。
 
B.麦の譬え(24節)
 
 
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
 
1.麦とは主ご自身のこと
 
 
・同様な表現:
「羊のために命を捨てる羊飼い」(10:11)と「人に食べられるパン」(6:51)=この節は、主が力を込めて、一言一句しっかり受け止められるように話された言葉です。「まことに、まことに」との言葉がその重さを示します。この譬えで、「地に落ちて死ぬ麦」とは、勿論、主イエスご自身のことです。彼の死は、麦が地に蒔かれ分解する事、彼の復活は死んだ麦から新しい麦が育ち実を結ぶ事の譬えです。ヨハネ伝を通じて、主は、ご自分のことを、「羊のために命を捨てる羊飼い」(10:11)とか、「人に命を与えるために食べられるパン」(6:51)に譬えておられます。ここでは「死ぬべき麦」に譬えておられるのです。

・栄光を受ける(=贖いを成し遂げる)ために死なねばならない:
主は自分が栄光を受ける(=贖いを成し遂げる)ために死なねばならない事を語っておられます。そしてキリストが栄光を受ける事なしに教会の誕生と成長はあり得ないと語ります。
 
2.地に落ちても死ななければ・・・?
 
 
主がここで、「地に落ちて死ななければ」という、いわば否定的な仮定からお話しされたのは、私たちには、「地に落ちて死なない」という選択肢もあるし、むしろその傾向が根強いということを物語っています。主イエスご自身のことを考えてもそうです。十字架の苦しい死を避けて、人類の救いを成し遂げられれば、それに越したことはありません。ゲッセマネの園で「もし、可能ならば、この盃を取り去ってください。」と祈られたのは、人間としてのイエスの自然な思いです。しかし、主は、御心に従うという思いで、敢えて十字架の死を選択されました。ピリピ2章のことばは、主が十字架の死を敢えて選択し、ご自身の命を捨てなさったことを示しています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2:6−8)麦が死を拒むならば結実はなく、自分だけの存在として留まり続けます。私たちも、「死」を拒む自由はありますが、その場合、麦のままで留まる事になります。
 
3.地に落ちて死んだ結果
 
 
「もし死ねば、豊かな実を結びます。」という言葉で、24節は締め括られています。主は、敢えて十字架の死にご自分を意志的に明け渡しなさいました。麦が地中で完全に腐敗し、分解し尽してしまうようにです。キリストの自己放棄はその十字架でクライマックスに至りました。麦が死ぬ時は、ひと粒(たった独り)でありましたが、ユダヤ人異邦人を問わず、多くの人々の回心と言う形で報われました。その出来事の前にこう預言されたところに意味があります。神は世の贖いは彼の死を通してである事を予めお定めになっていました。それが、十字架によって成就されたのです。
 
C.私達への挑戦(25−26節)
 
 
「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」
 
1.主の模範に従うこと
 
 
主イエスは24節の言葉を、ご自分の歩むべき道としてだけ話されたのではなく、弟子たる者の歩むべき人生、心の在り方を示すものとして話されたのです。それが25、26節に表されています。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。」ということは、一粒の麦となったイエスの生き方が、弟子たるものの生き方として期待されていることを示します。麦が地に落ちて死ぬように、私達もまた自らに死に切ったものとなるべきなのです。

 
2.いのちを「憎む」生き方
 
 
・自分のアイデンティティを殺すことではない:
「麦が地に落ちて死ぬ」ことが、「この世でそのいのちを憎む」という言葉で言い換えられています。命を憎むとは「自分の人生を呪って自殺しなさい」ということではありません。また、自分のアイデンティティ(自分が自分である事)にまで死にきり、抜け殻の様になることでもありません。自分が自分であることに死に切る事がきよめの徹底した姿だという考えは、これはガラテヤ2:20の行き過ぎた神秘的な解釈から来たものと思います。神は私達の個性、好み、楽しみ、家庭人としてのありかた、良い意味でのプライド(これはパウロも持っていました)を全部棄てなさいとはおっしゃっておられません。それは神の創造のご目的への矛盾です。主イエスも「神と等しくある立場は」きれいさっぱり棄てられましたが、己の神たる性質は棄てなさいませんでした。

・自己中心を十字架に付けること:
自分を憎むことは、「自分のいのちを愛する」、つまり、自己の利益を最大の課題として追求する自己中心主義、自分の主張を神の御心よりも先に置こうとする傾向に死に切る事なのです。自分の在り方、立場、プライド、やり口、主義、利益、それら一切を含めたものとしての自分に対して死を宣告することです。はっきり言うと、自分を十字架に付けることなのです。私達が捨てるべき自分と言うものは、神のみ心はどうあっても、それより自分の願いと主義をと優先させる、その意味での自己中心主義です。それに対して死を宣告することがきよめの転機的経験と言われるものです。私達の信仰生活のどこかでこの事を告白し、意識的に明確にその立場に自らを置くべきであります。しかし、もっと大切な事は、自己への死を日々宣告し、その立場に自らを置き続ける事です。己を棄て、日々おのが十字架を負って主に従うと言う決断を実行し続ける事です。

・ヘンリ・ナウエンの例:
ヘンリ・ナウエン氏がハーバード大学の神学部教授の職務を棄てて、フランスの知恵おくれの人々との共生施設であるラルシュ共同体の一職員として入居するように勧誘された時、彼の心には葛藤がありました。その時彼は、マルコ10:21、22の富める若者の記事に触れます。彼の日記に彼の気持ちが表れていますので、引用します。

『この若者の生活は複雑過ぎた。心配事が多過ぎ、配慮すべき所有物が多過ぎ、つきあっている人が多過ぎた。自分の関心事を手放す事ができず、その結果、失望し、うなだれ、イエスの下を立ち去った。イエスは悲しまれた。若者も悲しんだ。そしてきょう私も、イエスに従えるほどの自由が彼にあったら、どんなに人生が変わっただろうかと思い、悲しみを覚えた。・・・私が今晩祈りたい事は、イエスが愛を持って私を見つめ、全てを棄てて従うようにと招かれたとき、「そうします」と言えるほど、私の生活が単純になりますように、と言う事だ。その時を逃す事は、イエスや私自身を悲しませるだけでなく、ある意味で、神の救いの働きの中で、私たちの本来いるべき場所を拒否する事にはなりはしまいか。・・・そして暫く後、ひとたび大学を去る決断をすると、この事をきめるのにこんなに長く掛かったことにむしろ驚いた。大学を去るや否や、私は、心の中に大きな自由、大きな喜び、新しいエネルギーを感じ・・・た。』
 
3.永遠のいのちに至る
 
 
自分を憎むことは、「永遠のいのちに至る」道であると約束されています。それは、何時までも変わらない喜びが内にあふれる生涯です。それだけでなく、キリストが死によって多くの実を結んだように、多くの魂を主に導くという実を結ぶことです。
 
終わりに:信仰によって死の宣告を行い、その生涯に生き続けよう
 
 
私たちは、どこかで自分に対する死を宣告しているでしょうか。信仰によってキリストと共に十字架についたと受け取り、その生涯を生き続けましょう。
 
お祈りを致します。