礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年4月5日
 
「墓を捜すな」
イースターに因み
 
竿代 照夫 牧師
 
ルカの福音書 24章1-12節
 
 
[中心聖句]
 
  5,6   あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。
(ルカの福音書 24章5,6節)


 
聖書テキスト
 
 
1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。3 入って見ると、主イエスのからだはなかった。
4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
8 女たちはイエスのみことばを思い出した。9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。10 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。11 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。12 〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕
 
はじめに
 
 
イースターおめでとうございます。全世界の主にある民と共に、復活して、今も生き給う主を心から賛美いたしましょう。今日は、その復活の知らせを告げた天使の物語をルカの福音書からお話しします。
 
1.見当違いの捜し方(1-3節)
 
 
「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。」
 
・週の初めの日の明け方:
十字架から三日後、と言いましても正確には聖金曜日の夕方から一日半経った日曜日の朝のことです。「週の初めの日の明け方早く」、(文字通りには、「深い明け方」という言葉で、「空が白むよりもずっと早く」と言う意味です)数人の女性弟子たちが、アリマタヤのヨセフが所有する墓への道を急いでいました。

・墓に急ぐ女性たち:
その女性たちとは、10節によると「マグダラのマリヤ(7つの悪鬼を追い出されて、イエスに献身的に仕えるようになった女性)とヨハンナ(ヘロデの執事クーザの妻)とヤコブの母マリヤ(このヤコブは、小ヤコブとも呼ばれていた12弟子の一人)」でした。更に「ほかの女たち」もいました。マルコ16:1を見ると、「サロメ」(ヨハネとヤコブの母)もその一人であることが分かります。

・目的は、香料を塗るため(「復活」は念頭にない):
ともかくこれら女性たちが香料を携えてお墓に行ったのです。この女性たちの目的は、復活の主にお会いするためではなくて、亡くなって冷たくなったイエス様、十字架で傷つき、その傷も十分清浄されないまま慌ただしく葬られたイエス様のお体を丁寧に拭いて、香料を塗るためでした。というのは、十字架の金曜日の夕方から安息日が始まったので、香料を塗ったり、購入したりという「仕事」からは一切離れねばならなかったのです。それで、安息日が終わった夕方(土曜日の夕刻)香料を買ったのですが(マルコ16:1)夜間行動する訳に行かず、翌朝できるだけ早く起きて、香料を塗りに墓までやってきたという訳です。ですから、女性たちの行動は、自然と言えば自然でした。しかし、彼女たちが忘れていたことがあります。それは、主イエスが活きておられる間、何度も、「私は死んだ後に三日後に甦る」と予告されていたことです(ルカ9:22、18:33)。丁度その日が十字架から数えて三日目でした。もしかしたら、イエス様の生きたお姿に会えるかも、という微かな期待すら持ち合わせず、ただただ、おかわいそうな主イエス様のお体を何とかきれいにしたいという思いだけで一杯だったのです。

・空虚な墓の発見:
墓に来た女性たちは、大きな地震が(既に)起きて、墓を塞いでいた石が転がされていることを発見しました。女性たちは驚き、さらに途方にくれます。
 
2.主の使いの使信(4−7節)
 
 
「そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。』」
 
・輝く御使いの登場:
その時、女性たちは「まばゆいばかりの衣を着たふたりの人」が近づいてくるのを見ました。マタイによると「その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった」のです。着物が光り輝いていたのですから、只者ではありません。女性たちが驚き、恐れたのは当然です。

・その使信
@「墓を捜す愚かを止めよ」:
その二人のメッセージは、彼女たちの心の中を見透かすようなものでした。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」正に彼女たちが見当違いの捜し方をしていると指摘します。主イエスが繰り返し、死んでから三日目に甦ることを予告しておられたにも拘わらず、それを忘れ、あるいは信じないで、「墓の中のイエス」を捜していました。それは間違いだ、イエスはご自分が予告されたように、死から甦った、ということを天使は宣言しました。「墓を探す」、つまり、亡くなった偉人の思い出に生きることを戒められたのです。この墓にはおられない、という天使の言葉には、偉いけれども死んでしまったお方の思い出に生きようとする女性たちに対して、「お墓には何の希望も救いも与えられないよ」というメッセージがこめられているように思います。
A「主の予告を思い出せ」:
「まだガリラヤにおられたころ、イエスがお話しになったことを思い出しなさい。」と語りました。「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない」というのがその内容です。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」(ルカ9:22)「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」(ルカ18:32−33)理解しなさい、とは言わず、思い出しなさいと御使いは語りました。イエスご自身の言葉を御使いが語って思い出させたという記事は、マタイもマルコも記していません。ルカの強調は、イエスの生存中のお約束を思い出させることでした。
B主は甦られた:
そして御使いは宣言します、主は予告されたように甦られたのだ、と。
 
3.女性たちの反応と結果(8−12節)
 
 
「女たちはイエスのみことばを思い出した。そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕」
 
・女性たち:
喜びをもって復活を信じ、弟子たちに報告した=幸い、女性たちは、主イエスのみ言葉を思い出しました。そうだ、イエス様は何度も、自分は生き返るとおっしゃっていた、何で私たちはそれに気づかなかったのだろうと、感謝をもって御使いの使信を受け留めたのです。そうと分かったら、早速この出来事を知らせなければなりません。彼女たちは、いつもの場所で寄留していた十一弟たちとその他の人たちにこの出来事を報告しました。しかも、「一部始終を」とありますように、詳しく報告したのです。

・弟子たち:
「冗談!」としてあしらった=弟子たちはこの出来事に驚くどころか、それは冗談(レーロス)だろうと言い放ったのです。レーロスというルカの表現は大変きついもので、「ばかげた話、無意味」と訳せる言葉です。彼らがこう言った理由の一つは、それが女性たちの報告だったからです。一般に女性は信用されていませんでした。ですから、復活の知らせも、狂った女のヒステリー程度にしか受け取らなかったのです。悲しいことです。

・ペテロ:
墓を捜したが分からなかった=ペテロだけは違いました。もしかしたらという気持ちから、墓に急ぎました。自分の目で確かめたかったからです。ヨハネ福音書では、ペテロと共にヨハネも行ったと記されています。ただ座っていて、女は信用できないと馬鹿にした弟子たちよりはずっと実証的な態度です。でも、空の墓を見て感動する訳でなく、ただ、驚いて帰ってきただけです。
 
終わりに:常識では理解できなくても、復活の事実を信仰で受け取ろう
 
 
弟子たちの態度から私たちが学ぶことができるのは何でしょうか。それは、復活という出来事は、実に信じがたく、受け入れ難かったと言うことです。私は、このようなルカの書き方に、より真実性を感じるのです。みんなが復活を待っていた、その通り起きたという記述でしたら、却って眉唾ではないかと疑います。しかし、女性たちは、イエスの預言をすっかり忘れて、復活を期待していなかったのです。また、復活したという女性たちの報告を聞いた弟子たちも、復活の出来事を冗談と受け取って信じなかったのです。彼らも預言を忘れていたか、或いは、覚えていたとしても精神的復活程度にしか考えていませんでした。しかし私は、このような女性たちや弟子たちの反応を正直に記しているところに聖書記録の写実性と言うか、信ぴょう性を感じます。

人間の理解と想像を超えたのが復活の事実です。彼らの常識はそれを受け取れませんでした。しかし、復活の主の圧倒的事実の前に、彼らは平伏すようになるのです。この方がよほど信頼性のある記録と言えないでしょうか。私たちも「ここにはおられません。よみがえられたのです。」という人間理解の範囲を超えた出来事に、ただただ平伏し、感謝し、主を讃美しようではありませんか。
 
お祈りを致します。