礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年4月12日
 
「いつまでも共におられる主」
イースターを越えて
 
竿代 照夫 牧師
 
マタイの福音書 28章16-20節
 
 
[中心聖句]
 
  20   見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
(マタイの福音書 28章20節)


 
聖書テキスト
 
 
16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
 
はじめに
 
 
イースター後最初の聖日です。主イエスは、ご復活の日に数回弟子たちに顕れ、その後も数回異なった場所で、異なったグループ・個人に顕われなさったのですが、その中の顕著な一つを取り上げ、主がいつも私たちと一緒にいてくださるという真理を捉えたいと思います。
 
A.ガリラヤ山上の集い
 
 
1.時期:復活ののち4週間前後
 
 
イースターの後、弟子達は少なくとも1週間はエルサレムに留まり、その後、主のご命令に従ってガリラヤに戻り主の現れを待ちました。ヨハネ21章に記されている大漁の出来事がそこに挿入され、その後の最大のイベントが、このマタイ28章の集会でした。主のご昇天は、復活後5週間半(今年のカレンダーでは、5月14日)で、エルサレムに近いオリーブ山での出来事です。従って、マタイ28章の集会は、復活後4週間位と考えられます。今年のカレンダーでは、5月初旬となるでしょう。季節的には春酣という頃です。
 
2.集会の場所
 
 
・山上の垂訓の山(?):
16節にはガリラヤ地方の「イエスの指示された山」と記されています。恐らく、山上の垂訓のなされたハッティン山と考えられますが、確かなことは分かりません。主イエスと弟子達の間にはガリラヤの山と言えばあそこだ、という暗黙の了解があったことでしょう。

・ガリラヤにこだわる:
どうしてガリラヤなのでしょうか。それはマタイ26:32に主イエスが「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」と約束し、更に28:7では、御使いが「お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。」と伝え、28:10では、主イエスが再び、「行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」という風に、マタイ福音書だけでも三回、ガリラヤでのアポイントメントを強調しているからなのです。

・何故ガリラヤに?:
それでは、ガリラヤで集まることにどんな意味があったのでしょうか。ガリラヤは、いうまでもなく、イエスの地上生涯でのホーム・グラウンドだったからでした。表面的には、アウェイであるエルサレムで一敗地にまみれる、しかし、ホーム・グラウンドのガリラヤで体勢を立て直そう、と言うわけです。主が再会の場所として選ばれたのは、権謀術数が渦巻き、敵意と嫉妬に満ちていて、イエスを十字架につけたエルサレム、腐敗した形式宗教が支配している澱んだエルサレムではなくて、明るい太陽と緑の山々、鳥が囀り、花が咲き乱れるガリラヤ、主イエスの福音の言葉と力ある恵みの業で満たされていたガリラヤ、純朴な信仰者に満ちているガリラヤでした。そのガリラヤで、復活の主と信仰者たちが再会を果たし、信仰を回復し、新たな信仰運動の進発を語り合おうと主は計画しておられました。ですから、このマタイ28章の集会は、復活後の主イエスの顕れのクライマックスでありました。
 
3.集まった人々:11弟子と500人
 
 
16節には「11人の弟子」と記されていますが、1コリント15:6の「キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」という記事と並行するものと考えると(そして、この考えは多くの聖書学者に支持されていますが・・・)広い意味での弟子達が大勢加わっていた者と思われます。これらの人々に同時に現れるのが主のご目的であったからです。
 
4.疑うものもいた
 
 
さらに、ここで「疑う者があった」という表現があります。誰が疑ったのでしょうか。11弟子の中の誰かでしょうか。トマスが、もう一回疑いに陥ったのでしょうか。ペテロでしょうか。ヨハネでしょうか。私は今までの物語の流れから見てその誰でもなく、周辺の弟子達の中の誰かであると思います。(「疑った」のは11弟子の何人かが、現れたお方がイエスかどうかと疑った、と解釈する人もいますが、私はその可能性は低いと思っています。)
 
B.宣教の命令
 
 
1.全権を与えられた主
 
 
・全権は始めからあった:
「私は天でも地でも、つまり被造物の世界の中で、全ての権限を与えられている」という宣言は重大なものです。それでは、主イエスは始め全権を持っておられなかったのでしょうか。確かに持っておられました。神の御子としてこの世に現れた救い主ですから、「主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、・・・ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。」(イザヤ書9:6,7)と記されているように、最初から全権をお持ちです。

・救い主としての全権は、贖いを通して:
ただ、真の意味での救い主としての立場は、十字架の苦しみと復活の栄光を経験すること無しには与えられませんでした。ヘブル5:8−10には「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」と苦難を通して従順の学課を学び、それによって完全な救い主となられたと記されています。ですから、天においては、聖霊を下して信仰者を活かし、栄光を与える権限を、地に於いては、罪人を回心させ、清め、守り、その教会を完成させる権限を確立されました。全ての国々を彼の下に跪かせ、最終的には全ての人類を裁く権限を確立されました。そのお方が、今私達に命令を与えておられるのです。
 
2.命令の内容
 
 
・行くこと:
求心的宣教(旧約)から遠心的宣教(新約)へ=旧約における宣教は求心的であったが、新約の宣教は遠心的であると宣教学者である、とヨハネス・ブラウという人が指摘しました。礼拝の中心であったエルサレムにやって来なさい、ユダヤ教に帰依しなさい、割礼を受けて(宗教的には)ユダヤ人になりなさい、これが旧約における宣教観でありました。しかし、新約の宣教は異なります。全世界に出ていきなさい、人々のいるその場所に福音を携えて行きなさい、宗教的にユダヤ人になる必要はない、そのままの姿でイエスを主と受け入れれば救われるのですよ、という積極的な姿勢です。

・弟子作り:
キリストに倣うものを作る=行く、弟子とする、バプテスマを施す、教えるという四つの命令の中で、「弟子とする」(マテテウオー)だけが命令形で、他の三つは分詞なのです。「行きながら、弟子作りをしなさい。バプテスマを授け、教えをしながら・・・」と言うことなのです。弟子化は中心です。弟子とするとは、教えと人格的な感化を通して他の人々がキリストの弟子となるように訓練しなさい、ということです。その前提は私達がキリストに倣うものとなることです。

・バプテスマ:
弟子作りの一歩=信仰の告白としてのバプテスマです。弟子作りの最初の一歩と言えましょう。入学式の様なものです。キリストと一つとなりますよ、という信仰の告白としてのバプテスマです。今年も、多くの方々がバプテスマをとおして主への信仰を告白するように祈ろうではありませんか。

・教え:
弟子作りの過程=キリストが命じられた全てのこと、これを教えるのも弟子訓練の一つです。主イエス様の命じられたことはみな聖書に記されています。従って、それを教えると言うことは聖書を教えることです。聖書に直付けに食らいつき、その中から主の教えを学び取りましょう。他の人々にも教えうる力を養いましょう。
 
C.臨在の約束
 
 
「見よ。私は世の終わりまでいつでもあなた方と共にいる」と主は約束されました。今日は、このお約束に焦点を当てます。一言で言いますならば、主のご臨在の約束と恵みです。
 
1.キリストご自身の臨在
 
 
「見よ。私は・・・ある」(イドゥ・エゴー・・・エイミ)と仰ったとき、私はという言葉は強調的です。他でもない私がという意味です。出エジプトの記事で、主が重ね重ねのイスラエルの不服従の故にご自分は一緒に行かない、御使いを遣わすと語られました。モーセは、何とか主ご自身のご同行をと願ったとき、主は、「そうか、それならば私自身が一緒に行こう(私の顔を共にしよう)」と語られました(出エジプト33:14)
 
2.聖霊による臨在
 
 
では、主は見える形で臨在されるのでしょうか。ヨハネ14章を見ると、主は、聖霊という第三位の神を通して私達の心に臨在されます。14:16―20「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。・・・その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。その日には、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」 目には見えませんが、こんなに確かな喜びはありません。
 
3.変わらない臨在
 
 
「どんなときにも」という句の直訳は「すべての日に」です。どんな時にも、悲しいときにも、嬉しいときにも、日が輝く様な順境でも、嵐のような逆境でも、いつでも、共にいて下さいます。感謝しましょう。
 
4.終わりまでの臨在
 
 
「世の終わりまで・・・」と主は語られました。キリストの再臨で締め括られる現在の世界の終わりまで、いつまでも主は共にいて下さいます。この時代が続く限り、福音は世界中に宣べ伝えられるべきなのです。その福音宣教の終わりが、主の来たり給う時です(マタイ24:14)。
 
5.宣教活動に伴う臨在
 
 
それは、主の命令に従っているもののために特別に約束された臨在です。これと並行しているマルコ16:20を見て下さい。「彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」
 
6.大きな助けとなる臨在
 
 
それは、大きな力と助けと守りとを約束する同行です。主のご同行は、それに伴う徴をもって確かなものと確証されます。私達の働きを助け、落胆したときには慰め、欠乏しているときには豊かな供給を与え、敵の攻撃と悪の誘惑から守ってくださいます。主は、私達と共におり、ともに働き(マタイ11:1)、ともに苦しみを荷ってくださるお方です(イザヤ63:9)。
 
7.臨在が福音書の鍵
 
 
マタイ福音書は、インマヌエル(神が私たちと共におられる)であるキリスト誕生から始まります(1:23)。そして、その終わりは、私が共に居るとおっしゃるキリストの約束で締めくくられます。臨在こそ、私たちの信仰の鍵です。
 
終わりに:臨在を信じて一週間の歩みを!
 
 
今、プレイズワーシップでは、ヨセフの物語をシリーズで取り上げています。共通タイトルは、臨在信仰です。ヨセフは、誰もが経験しなかったような、激しい人生の浮き沈みを経験しました。そんな中で彼を支えたのは、主が共にあったからです。同じ主が、私たちのこの一週間の歩みにも共にあってくださいます。それを単純に信じ、より頼みつつ、一週の歩みを始めましょう。
 
お祈りを致します。