礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年5月3日
 
「パラクレートス(助け主)」
ペンテコステに向かう(1)
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの福音書 14章16-20節
 
 
[中心聖句]
 
  16   わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
(ヨハネの福音書 14章16節)


 
聖書テキスト
 
 
16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。19 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。20 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
 
はじめに
 
 
・主の告別説教(ヨハネ14〜16章)の背景:
あと3週間でペンテコステを迎えます。主が復活後ご自分をあらわしなさったのは40日間で、その最後の顕現はエルサレム郊外のオリブ山においてでした。それが昇天記念日で、今年のカレンダーでは5月14日です。その後10日間の祈祷会がエルサレム市内の(多分マルコの家の)二階屋で始まり、5月24日のペンテコステに至る訳です。ペンテコステに向かうこの節期、主イエスが十字架にかかる前夜、聖霊について語られたヨハネ14〜16章を取り上げて学びたいと思います。14〜16章は、イエスの告別説教です。最後の晩餐が終わって、主イエスは「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。」(13:33)と語られたことが弟子たちに大きな衝撃を与えます。ペテロは「主よ。どこにおいでになるのですか。」(13:36)と質問し、トマスも「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。」(14:5)と心の不安を告白します。

・説教の内容:
こうした不安の中にある弟子たちに主は、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」とその不安を鎮め、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」と、もう一度戻ってくるという約束をなさいます(14:1〜3)。主の再来と共に約束されたのが、「もう一人の助け主」である聖霊の賦与です。イエスが去る事によって生じる一時的な悲しみ、寂しさ、助けなさ、弱さは、聖霊の到来による恒久的な喜びによって補われて余りある、というのがこの説教の骨子です。この中から聖霊の人格と働きについて記されていることを学びます。14章からは、聖霊のご臨在について、15章からは、教師としての聖霊について、16章からは裁き主としての聖霊について学びます。
 
1.聖霊のお名前
 
 
この16〜20節において、聖霊について紹介されている言葉は2つです。

@助け主(16節):
パラクレートスというギリシャ語です。パラとは、「傍らに」という前置詞です。クレートスとは「呼ばれたもの」という意味です。この二つが合成されると、「同じ側に立って、弁護をし、慰め、執成し、助けるために呼ばれたもの」という意味となります。弁護士、助け手、執成し手、助言者、慰め主という意味で広く使われるようになりました。いつもそばにあって、困っている時は助け、糾弾されている時は糾弾者に対して弁護し、落ち込んでいる時は慰め、迷っている時は助言を与えるという助力者的な存在一般を含む言葉です。

A真理の御霊(17節):
真理を示す御霊、という意味で紹介されます。これは次回、14章後半と15章で明確に示されますので、今日は内容に踏み込みません。ただ「御霊」という言葉に注目します。ギリシャ語では単に「霊」(プニュウマ)です。共同訳では、「(真理の)霊」とだけ示されています。ただ、興味深いことには、ギリシャ語でプニュウマは中性名詞なのに、それを受け継ぐ代名詞は男性形なのです。つまり、ここで主イエスは、エネルギーとか火とか水のような非人格的な霊を指しておられるのではなく、人格を持つ方としての聖霊を指しておられるということなのです。
 
2.聖霊とみ父・御子との関係
 
 
@み父との関係:
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。」(16節)と語られました。主イエスがみ父に願い、み父が与えて下さるお方が聖霊です。ただ、この「願う」という動詞(エロータオー)は、下の者から上の者に「懇願する」という動詞(アイテオー)ではなく、友達関係を示す言葉であることが興味深いことです。結論から言えば、み父、御子、御霊は同列の関係にあるのです。

A御子との関係:
聖霊については「イエスが父のもとから遣わす」方(15:26)とも紹介されています。言い方を変えると、聖霊は、「イエスの霊」でもあるのです。この表現は新約聖書にしばしば見られます。例を挙げると、ルカが「こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」(使徒16:7)と記したところがあります。また、パウロも「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8:9)と言っています。更にペテロも、「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき・・・」(1ペテロ1:11)と言っています。つまり、聖霊は主イエスと別な方ではなく、み父も含めて一体として働きなさる方なのです。それが20節で語られます。「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」
 
3.もう一人の「助け主」(パラクレートス)
 
 
・「もう一人」とは、代理ではなく「一体的」:
主が御霊を紹介する時、「もう一人の助け主」と言われました。イエスがいなくなる「代わりに」、という意味ではありません。ギリシャ語では「もう一人の」(アロン=another)と言う言葉が使われていて、他の「全く別な」(ヘテロン=different)という言葉ではありません。つまり、それはイエスご自身が完全に引退して、全く別な人格を次の指導者にバトンタッチするという意味ではなく、「キリストご自身と同様なもう一人の」という意味です。

・主イエスは助け主:
「もう一人の助け主」という言葉の前提は、主イエスが「良い助け主」であられたということです。つまり、自分も助け主であったように、御霊も助け主である、という意味です。主イエスはこの世におられる時、弟子達に対してパラクレートスであられました。幾つかの事例を考えてみましょう。弟子達がガリラヤ湖を船で横断している時嵐にあいました。殆ど船が沈みかけた時、主は海の上を歩いて彼等に近付きなさいました。そして「わたしだ。恐れることはない。」(ヨハネ6:21)と語られ、船に乗り込み、嵐を鎮めなさいました。癲癇もちの子供を持て余しておろおろしていた時も、「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。」(マルコ9:19)と慨嘆しながらも、その子を癒して下さいました。そんな力強い先生が目の前から居なくなってしまうということは、小さな子供が親を失う以上の寂寞と当惑を齎す事でしょう。ですからこそ、主は「私はあなた方を捨てて孤児とはしない」と語られたのです(18節)。

・主イエスの臨在を確かにする聖霊:
聖霊は、肉体を持った人間的な存在としてのキリストではなく、目に見えない、しかし、いと近くにおられるキリストを示します。このことは、18節、19節の言葉でも明らかです。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」孤児とは不安定との暗きのなかに放置された存在を意味します。ユダヤでは、ある教師の下にある弟子団はその師を父と呼びました。キリストもまた弟子達を子供達と呼びました。ですからキリストが去ったならばかれらは「孤児となる」訳です。しかし、実際からいうと、キリストは死の中から甦り、彼等の所に聖霊を通して帰ってこられました。「戻ってくる」とか「あなた方は私を見る」とは、第一復活によって実現しました。十字架の死の三日後、主は甦られて弟子達にご自身を示されましたが、これは弟子たちに驚くべき励ましと力を与えました。でも、復活の主は、見える形においてはその後の40日間だけ彼等と共におり、そして昇天されました。かれらは又孤児になったのでしょうか。そうではありません。10日後のペンテコステにおいて注がれた聖霊において、キリストの臨在がより深く、より確かに、そして永遠的なものになったのです。
 
4.共に、そばに、内に
 
 
御霊が近しいお方として与えられることが、三つの前置詞で示されています。一つはメタ(16節)、もう二つはパラとエン(17節)です。

@「ともに」(メタ):
16節に「ともにおられるため」と言われました。この「ともに」にメタという前置詞が使われています。友達的な感覚を示す言葉です。御霊は交わり手として、友として、「何時までも」おられます。主イエスの地上での存在は30数年に限定されていましたが、御霊は何時までも居られます。主イエスは一箇所にしかおられなかったのですが、御霊は「いつも」、「どんな所にも」ともにおられます。復活後のイエスが二人の弟子と共にエマオへの道を歩みなさったことは、御霊がいつも共におられるという真理を例証するものです。復活節後の礼拝で、「見よ、私はいつまでもあなたがたと共に(メタ)居る」(マタイ28:20)という言葉を取り上げました。正に主は聖霊を通して私たちと共におられるのです。

A「傍らに、共に」(パラ):
御霊は、私たちと同じ側に立って、弁護をし、慰め、助けて下さいます。先ほど説明しましたように、御霊は「パラクレートス」(傍らに立つために呼ばれたもの)です。2テモテ4:16―18でパウロが孤独な状態で弁護士もなく被告席に立たされた時、主イエスは、目に見えない形で、しかも御霊による臨在を持って、パウロを弁護して下さいました。

B「内に」(エン):
御霊は、内側に住んで下さいます。どんなに淋しく、みなしごと感じるような事があるかもしれないが、このお方によってイエスの内住が確保されるのです。20節に「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」とありますように、父と子とは一体であり、その一体関係の中に私達も入れられます。ただ、内に居ます、という点について、サムエル・チャドイックの書いた「聖霊体験への道」という本の79頁に、こう記されていますので、理解の為に付け加えます。「新約聖書は内在するものについて、ある時には御霊といい、他の場合にはキリストというので、混乱を招くことがあります。使徒パウロは『キリストがわたしのうちに生きておられる』と強調していますが、この内在こそ栄光の望みです。しかもわたしたちが聖霊の宮であることも同じく強調されています。それでは、わたしたちの内に住むのは、復活の主なのでしょうか、それともキリストの霊なのでしょうか。この混乱は、わたしたちの三位一体の神の人格に関する認識不足からきます。・・・三位一体の神の人格は、排他的なものではなく包括的、分裂ではなく固有のものです。・・・御子の内住は、御霊の内住において啓示され実現されます。」つまり、御霊を持つということは御子を持つことなのです。」
 
おわりに:パラクレートスである聖霊に心を開こう
 
 
私達の中に、孤児としての寂しさと心細さを感じている人はいないでしょうか。パラクレートスである聖霊を仰ぎましょう。このお方に心を開く時、心に満ちて下さいます。
 
お祈りを致します。