礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年5月10日
 
「『だれのせい?』から『何のために?』へ」
CSデー・スペシャル
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの福音書 8章59節-9章7節
 
 
[中心聖句]
 
  3   イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」
(ヨハネの福音書 9章3節)


 
聖書テキスト
 
 
8:59 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
 
はじめに
 
 
今日は、イエス様の素晴らしさがよく分かった盲人のお話しをします。「盲人」というだけではお話ししにくいので、名前を付けることにします。シモンさんとしましょう。
 
1.盲人を見つめるイエス様(イラスト@)
 
 
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。」(1節)9章に入る前の8:59を見ると、イエス様は人々に石打ちに遭いそうになって「身を隠して逃れた」のです。人間は、命の危険に遭って逃げねばならない時には、他人のことなど構っていられなくなります。しかし、イエス様が、こんな危険な時でも、自分にとって何の価値もなさそうな物乞いの盲人に心をかけなさった、というのは驚くべきことです。イエス様は、本当にやさしい方でしたね。

 
2.弟子たちの質問:「この人が盲人となったのは誰のせい?」(イラストA)
 
 
イエス様がシモンさんをじっと見ておられることに気付いた弟子たちは、何か言わなければと感じたのでしょうか、この盲人についてイエス様に質問して言いました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」この質問を言い換えるとこうなります。「この盲人はとても不幸ですね。この人の不幸は誰のせいですか。自分が何か悪いことをしたからですか。それとも、お父さんお母さんが何か悪い事をしたからですか。」お弟子さんたちはそっと小さな声でお話ししたつもりでしたが、シモンさんには全部聞こえていました。だって、盲人の方は大体とても耳が良いからです。シモンさんは、なんて無神経な人々なんだろうと腹を立てたことでしょうね。

私たちも、時々こんな質問を他の人にしてしまうことがあります。「誰のせいであの人は可哀そうな生活をしているんだろう。自分か両親か、先祖様か、誰かが悪いことをしたから罰が当たっているに違いない。」或いは、自分に対しても同じ質問をしてしまうことが良くあります。「ボクが不幸せな人生を歩いているのは誰が悪いからなんだろう。ボクが何か悪いことをしたからかな。それともご先祖様が悪いことをしたからなんだろうか。」「ワタシがつらい目に遭っているのは、誰のせいなんだろう。ワタシが悪いことをして神様がばちを当てているんだろうか。」

一つだけ言えることがあります。「だれのせい?」っていう質問は、多分誰も答えられないし、答えられたとしても、それではどうすればよいかという次の質問を生んでしまいます。とても、グルグル回りで終わりが見えない質問です。さて、この質問にイエス様は何て答えなさったでしょうか。
 
3.イエス様の答え:「神のわざがこの人に現われるためです。」(イラストB)
 
 
弟子たちの質問に、イエス様はこんな風に答えられました、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」弟子たちは、「エエーッ、そんなことあり?」ってびっくりしました。それよりも驚いたのは、シモンさんです。「私が盲目に生まれたのは、誰かのせいではない、自分が悪いんでもない、お父さんお母さんの責任でもない、神様の素晴らしさが現われるためなんだって。こんな明るい、前向きな人生を教えてくれたのは、みんなから先生って呼ばれている、この優しそうな人だけだ。こんな人に出会ったことは一度もなかった。感激だなあ。」って思いました。

 
4.伊沢記念男先生の話
 
 
ちょっとここで、井沢記念男という先生のお話をします。一度だけですが、私が大学生の頃、伊沢先生のメッセージを聞きました。先生は、体が不自由で、お話しする時も、口が私たちのようには動かないで、聞き取るのが難しかったのですが、とても大声で、熱心にお話ししておられました。

伊沢先生は身体障害者として生まれ、育ちました。自分が障害者であることがとても辛くて、あるお坊さんのところに行って、どうしたらいいですかと相談しました。そのお坊さんは、「それは運命だから仕方がない、諦めなさい。」と言われました。そうはいっても伊沢少年は諦めきれません。

18歳の伊沢少年は、他の人が秋祭りで騒いでいる夜、とても悲しくて悲しくて、鉄道の線路に横になって自殺しようとしました。その時遠くの方から歌が聞こえてきました。「彷徨(さまよ)う人々立ち返りて天つ故郷の父を見よや、罪とがを悔やむ心こそは、父より与うる賜物なれ」誰が歌っているんだろうと不思議に思って、這うように歌の方に近づいたところ、それは教会の路傍伝道グループでした。

伊沢少年はその晩教会に導かれ、牧師の説教を聞きました。その説教が何と「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」というヨハネ9章のお話しでした。伊沢少年は、イエス様を信じて救われ、そして伝道者となり、89歳まで生きて伝道を続けられました。実を言いますと、この先生は、私たちの教会の牧師である山口民雄先生の伯父さんに当たる方なのです。
 
5.目をあけなさるイエス様(イラストC)
 
 
さて、シモンさんとイエス様のお話しに戻ります。イエス様は地面につばきをして、そのつばきで泥を作りました。ちょっと気持ちが悪いですね。そしてその泥をシモンさんの目に塗って言われました。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」

シモンさんはシロアムの池に行きました。エルサレムの中心から南へ1kmぐらいの坂道を下ったところにある池です。目の不自由なシモンさんにとって簡単な道ではありませんでしたが、ともかくたどり着きました。その池で目についた泥を洗いました。何と、生まれてからずっと見えなかった目が見えるようになったのです。踊るようにして、元いた町の中心に戻って行きました。

なんでシロアムの池で治ったのでしょう。分かりませんが、シロアムという名前が大切だったのかも知れません。「シロアム」という意味は、「遣わされた者」です。これは、神様から遣わされたイエス様ご自身を表していたからだと言われます。

このように、イエス様は、多くの盲人の目を開け、病を癒し、死人を甦らせてくださいました。その「最高のイエス様」は、昨日も今日もいつまでも変わらないお方として、私たちに必要な力と恵みと癒しを与えてくださいます。
 
6.イエス様は、「何のために生きるか」を教えてくださる
 
 
それ以上に大切なことは、イエス様は私たちに「何のために生きるか」という人生の目的を教えてくださるお方だということです。「あなたは神に造られた。あなたは神様の目から見ると、とても素晴らしい人なんだ。あなたが生きているのは、神様の素晴らしさを多くの人々に伝えるためなんだ。」ということを教えてくださいます。イザヤ43:4に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と書かれています。そして、同じ章の7節には、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」とも書かれています。そうです。私たちは、神様に造られ、神様に愛されています。

私たちの人生にはスバラシイ目的があります。私たちには色々な弱点がありますし、苦しい所を通ることもあります。でも、神様は私たちの良いこと悪いことの全部を使って、神様ってすばらしいということを世界全体に知らせるのです。それをイエス様は教えてくださいました。CSの歌にこんな讃美がありますね。

 「君だから素晴らしい」
 人と自分を比べてばかり 今の自分に自信なくとも
 主は君をどんなときも 必要とされている
 イエスを愛する仲間として どんな時でも思い出そう
 主の御名で励ましあえる友達がいることを
 ともに主の愛を分かち合う為に イエスは君を選ばれた
 君にしか届けられない 人が待っている
 ともに主の愛を分かち合うために イエスは君を愛された
 主が命を注がれた 君だから素晴らしい
 
おわりに:自分はダメと落ち込んでいる人!イエス様の<金言>を思い出そう
 
 
私は何でこんな弱いんだろう、なんでこんな不幸な家に育ったんだろう、なんでいじわるな人々に取り囲まれているんだろうと落ち込んだ気持ちの人はいませんか。その人は、自分が弱さと思えるところも含めて私たち一人一人を大切なものと考えて、神様が造って下さったということを覚えましょう。

茨城県のある町にKという牧師さんがいます。魚屋さんの末っ子に生まれ、魚屋の仕事や農業も手伝いながら高校の入試準備をしていました。「自分はどうしてこんなに大変な家に生まれてきたんだろう。何のために勉強し、生きていくのだろうか。死んだらどうなるのだろう。」と考えて悩んでいたときにキリスト教のキャンプに導かれました。そのキャンプで神様がKさんを愛しているということが分かった時、その一つ一つの悩みに答えが与えられました。「私が神様が造られたから生きている。私は神様の栄光を顕わし、神様を喜ぶために生きている。死んでおしまいではなく、復活があり、希望がある。」と分かった時に人生が変えられました。今は牧師として、特に少年院の教戒師として多くの少年の指導に当たっています。私達の人生も変わりうるのです。

今日の金言をもう一度読んで、お祈りしましょう。「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』」(ヨハネ9:3)
 
お祈りを致します。