礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年5月24日
 
「聖霊による認罪」
ペンテコステを迎えて
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの福音書 16章7-11節 及び 使徒の働き 2章22-24,33-39節
 
 
[中心聖句]
 
  8   その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
(ヨハネの福音書 16章8節)


 
聖書テキスト
 
 
ヨハネ 16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。10 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
使徒 2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。 23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
使徒 33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 34 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。 35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』 36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。 38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。 39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
 
はじめに:聖霊に関する主イエスのお約束(ヨハネ14〜16章)
 
 
ペンテコステの朝を迎えました。この日は、主イエスが繰り返し約束された聖霊の注ぎが弟子たちに与えられ、新しい力を与えられた弟子たちの伝道によって3千人の人々が救われ、バプテスマを受け、教会が誕生した日であります。

中目黒教会に於いては、ペンテコステに向けて、主イエスの告別説教(ヨハネ14〜16章)から、聖霊に関する主イエスのお約束を学びました。

・「助け主」としての聖霊:第一回は「助け主」としての聖霊

・「真理を示す方」としての聖霊:第二回は「真理を示すお方としての聖霊」でした。

・「罪を示す方」としての聖霊:そして今日は、「罪を示すお方としての聖霊」に焦点を当てます。
 
A.聖霊の役割への期待(ヨハネ16:8−11)
 
1.世の人の誤りを責める(叱責する)こと(8節)
 
 
16:7で主イエスは、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」と聖霊の降臨を予告し、その聖霊の大切なお働きについてこう述べておられます。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」つまり、聖霊は、世の人々が抱いている罪と義と審判に関する誤った考え方を正す、と予告されたのです。「認めさせる」<エレンケイ>という動詞は、叱責する、有罪にする、暴くというきつい言葉です。世の人々が抱いている誤りについて、疑いの余地がひとつも残らない迄に明確に示しなさる事を意味します。それも、聖霊が弟子達に来られる時、と限定されています。分かりやすく言いますと、聖霊は弟子達の宣教を通して世に、その誤りを認めさせなさるのです。ペンテコステの日、聖霊が弟子たちの説教を通して、聴衆の間に深刻な認罪を与えたことは後に触れます。
 
2.罪の誤認識を正す(9節)
 
 
9節では、「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないから」、つまり、イエスを信じない罪のことを語っております。

・誤解=罪とは律法に背くこと(それだけ):
罪というと、普通私たちは、刑法的な罪、犯罪を思い浮かべます。ユダヤ人から考えると、人を殺した、盗んだ、偽証をした、姦淫をした、という十戒の一つを破ったことが罪です。確かにそうした明らかな犯罪も罪ではあります。

・正解=神の愛と真理の体現したイエスを拒むことが罪:
しかし、主は、「わたしを信じないこと」が罪だとおっしゃいます。何か不思議です。もっと言えば、尊大な言い方にも聞こえます。しかし、これは大切な問題です。当時のユダヤ人は、主イエスの優しい人格に触れました。どんな卑しい人も無視なさらず、疎外された人も疎外せず、多くの奇跡を行ったイエスを見ていたのです。その奇跡も、人々のニーズに答えるような憐れみに満ちた奇跡でした。互いを愛するように説き、それを実践されました。ヨハネは、イエスこそ「すべての人を照らすそのまことの光」(1:9)であり、受肉した(永遠者なる)言葉であり、「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」を持ち、「恵みとまことに満ちておられた」(1:14)である、と語っています。素直な心をもって接した人々は、彼を神の子として受け入れたのです。ヨハネは言います。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(1:10−11)と。イエスご自身も「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(8:24)と語られました。具体的な行動としては、イエスが自らを「神の子」と語られた説教、安息日を守らない(と彼らが考えた)行動をことごとく断罪し、最終的には、冒涜の罪を着せて十字架に付けてしまいました。
 
3.義の誤認識を正す(10節)
 
 
「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」(10節)

・誤解=イエスは律法を守らないから不義である:
ユダヤ人はイエスが律法を守らないから不義である、罪人の友であると言う非難を浴びせました。そして自分たちが主導権を持ってイエスを十字架に付けながら、十字架にかかった人間は最悪の人間であった証拠だと主張しました。

・正解=イエスは義(正しさ)を実行し、復活によってそれを証明される:
「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」とは、何かなぞなぞのような言葉です。ここで主イエスが「義について」と仰っておられるのはイエス個人の義の事です。主イエスは、どこから見ても非難すべき点がない方でした。「あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。」(8:46)と挑戦されました。イエスが死から甦り、み父の下に帰られることイエスが正しかったことの証明になる、と主は預言されたのです。
 
4.裁きの誤認識を正す(11節)
 
 
「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(11節)

・誤解=イエスは、その「悪」の故に裁かれた:
人々はイエスが冒涜の罪を犯し、それによって裁きを受けるべきだと考えました。その考え方の背後には世の悪を支配するサタンがいました。それをイエスは断罪して「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。」(8:44)と言われました。

・正解=十字架を陰で操っていたサタンが裁かれる:
十字架に続く復活と言う逆転劇は、そのサタンのシナリオを見事に打ち砕くものでした。イエスが裁かれるのではなく、イエスを偽りの言い分で裁こうとしたサタンが裁かれるはずだ、と言うのが、主の論理です。「この世を支配する者はわたしに対して何もすることはできません。」(14:30)と主は言われます。
 
B.ペテロの説教とその結果(使徒2章)
 
1.ペンテコステにおけるペテロの説教
 
 
ヨハネ16章で、聖霊は罪を示すことを大切な役割としておられること、そしてそれは、弟子たちの宣教を通してなされる、とイェスは示唆されました。何とそれが、聖霊の注がれたペンテコステの朝に起きたのです。それ日なされたペテロの説教の一部を拾い読みします。

・イエスの力強いわざ(22節):
「神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。」とペテロは宣言します。

・十字架(23節):
「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」ユダヤ人達が、ナザレのイエスをローマ人の手によって十字架につけたことをペテロは非難しています。しかし同時に、それが神の摂理に基づくものであると語ります。人間の悪意に基づく邪悪な行動でさえも、神の大きなご計画の中に組み込まれるという不思議な神の支配を示唆しています。

・復活という逆転劇(24節):
「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、甦らせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」ユダヤ人たちは、イエスを十字架に付けて、これで一件落着と思いました。しかし、そのイエスが死から復活されました。復活は、イエスの弟子たちの思い込みではなく、彼を信じない者たちにも明らかな事実として迫ってきたのです。

・聖霊の派遣(33節):
「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」キリストの復活と昇天はキリストの正しさの充分な証明と考えられますが、更にそれを補強する証明として、聖霊を御父から受けて地上に遣わされました。それがこのペンテコステの日に実現し、聖霊に満たされたことが誰にでもわかるような変化が弟子たちに顕れたのです。

・ペテロの結論(36節):
ペテロは、これらの論述を次の言葉で締めくくります。「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」つまり、「あなたがたは最大限の意地悪を行ってナザレのイエスを十字架につけた、しかし、歴史のすべてを握っておられる神は、あなたがたの意地悪をも救いの手段として用い、それどころか、大きな栄光を現わされた。」とペテロは結論付けました。これは、いにしえ、ヨセフが兄貴達の意地悪に虐められながらも、その苦難を信仰によって乗り越え、エジプトの総理大臣になった出来事を思い出させます。ヨセフは最後にこういいました。「あなたがた(兄貴達)は、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それは今日のようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50:20)と。
 
2.聴衆の認罪
 
 
・心を刺された:
聴衆は、ペテロが語るこの断罪によって、自分たちが本当に悪かったという深い悔い改めに導かれました。「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。』と言った。」(使徒2:36)というのが彼らの切実な悔い改めであり、質問でありました。聖霊が働いて罪について誤った考えを持っていたことが正され、真実な悔い改めが生じたのです。「心を刺され」とありますが、文字通りには、針や剣の鋭い切っ先で刺されるという意味です。聴衆の中には、50日前に「十字架につけよ!」と叫んだ人々も交じっていたことでしょう。「自分を救えない救い主、悔しかったら十字架から降りて来い」とあざ笑った人々もいいたことでしょう。その人々にとって、自分たちが十字架につけたナザレのイエスが、実は、神に遣わされたメシヤであり、今や救いを成し遂げて神の右の座におられる栄光の主であるという宣言は、正に驚天動地でありました。

・どうすべきかを尋ねた:
「何という申し訳ない、やってはいけない過ちを犯してしまったのだろう」という深い悔恨が人々の中から溢れてきました。「こんな赦し難い罪を犯してしまった私たちですから、赦していただくためにはどんなことでも致します。救いの君を殺してしまったのですから、救いの望みは全くありませんが、一縷の希望でも下さいませんか。」と叫んだのです。
 
3.ペテロの勧め(38−40節)
 
 
「38 そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。 39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』 40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい。』と言って彼らに勧めた。」
 
・悔い改めなさい(方向転換の勧め):
ペテロは先ず「悔い改めなさい」と勧めます。悔い改めとは方向転換のことで、自己中心と神への反逆という罪から神に従う道へ方向転換しなければなりません。人々は、神から遣わされたイエスを十字架につけた反逆の罪をお詫びし、神に従う決意をする必要がありました。

・キリストの名によってバプテスマを受けなさい(信仰を公に告白すべきこと):
その方向転換的な信仰を公に告白するために、バプテスマを受けるべきでした。バプテスマの結果として、彼らは賜物として聖霊を受けることが約束されました。聖霊という賜物です。丁度、弟子達が今しがた聖霊の注ぎを頂いたように、信じる者には聖霊が降る、とペテロは言うのです。
 
おわりに:聖霊に示された罪について、柔らかい心をもって悔い改めよう
 
 
聖霊は、今でもなお、人間が罪人であり、贖いの恵みを必要とする人間だと自覚させます。聖霊は私達の罪深さ、性格の腐敗性、不信仰の罪、人の心の邪悪さ、それらがどんなに深く広く拡がっているかを具体的な光を持って指し示しなさいます。特に、神の最大の愛の表われとしてのイエスを信じないことは何たる大きな罪でしょうか。よく私は不信仰なもので、と謙遜の積もりで言う人がおられます。とんでもありません。会話をしながら、私はあなたを信じませんが、と言いながら会話を続けるほど、相手を馬鹿にする言葉は無いでしょう。その失礼さが本当に分からせるのは聖霊のお働きです。

聖霊の語り掛けに対して、柔らかい心をもって応答しましょう。悔い改めるべき点を具体的に示されたら悔い改めましょう。
 
お祈りを致します。