礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年6月7日
 
「救いは万民に開かれた」
使徒の働き連講(52)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 17章26-34節
 
 
[中心聖句]
 
  30   神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
(使徒の働き 17章30節)


 
聖書テキスト
 
 
26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。29 そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。31 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中から甦らせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。34 しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。
 
はじめに:前回の復習
 
 
・アテネへの到着(地図@参照):
ピリピ→テサロニケ→アテネ=使徒の働き連講は、今年の3月初めからずっと中断しておりました。主のご受難、復活、ペンテコステなど特別な行事が続いたからです。それらが一段落しましたので、また、地味な聖書の連続講解に戻ります。前回は、パウロの第二次伝道旅行の真ん中辺の出来事であるアテネ伝道を取り上げました。地図@をご参照下さい。パウロはヨーロッパに渡り、ピリピで教会を建て上げ、テサロニケでも教会の基礎を築き、さらに南下してアテネに着きました。

・アゴラ(市場)での論争:
偶像の町アテネを攻撃(地図A参照)=ギリシャの政治、文化、宗教の中心であるアテネを初めて訪問したパウロに取って、見るもの聞くものは珍しかったと思います。でも、パウロの観察眼は、普通のツーリストとは違っていました。彼は、「町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。」のです。(16−17節)広場というのはアテネの中心地の市場(アゴラ)のことです。地図を参照下さい。

・アレオパゴス(評議所)での講演(写真参照):
その論争の結果、町の代表的な人々は、パウロの言い分を聞こうと正式な場を設けました。それは、小高い丘の上にあるアレオパゴス(軍神アレスの大岩)という評議所でした。(写真参照)

 
A.パウロの講演
 
1.創造神を提示(22―29節):汎神論なギリシャ人に創造神を提示
 
 
パウロは「みなさんが『知られざる神』として拝んでいる方こそ本当の神である」という切り口で、真の神を提示します。人々の中にある「真の神」への渇望を捉え、実はその神こそ「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」なのだと宣言するのです。賢いアプローチであると思います。ギリシャ人は、一般に、すべての中に神がいるという汎神論考え方をもっていました。パウロは、それを知りながら、敢えて創造神を強調します。そして、真の神について5つのポイントを挙げます。

@場所や建物を超越:
神が創造神であるならば、人間の作った神殿に縛られる筈がありません。神は人の手で作った建物に住むような小さな方ではない、偶像を拝むための神殿は、どんなにきらびやかさを誇ったとしても、それは虚しいことではないか、とアテネ人に挑戦しています。

A人間に支えられない:
神が人間を支えていてくださるのであって、人間が必死になって神を支えるのではない、神はそんな小さなお方ではありません。

B神は万民の神:
アテネ人は、自分たちだけがギリシャ固有の民族だという誇りを持っていました。パウロは、「ひとりの人からすべての国の人々を造り出した」と言って、神がすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになった、と人間の平等を説きます。

C神を見出すことは可能:
神は人が真実に求めるならば、見出すことができるお方です。「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。」神は、人間が捉え得ないような神秘的存在ではなく、ご自身を現わしなさるお方です。

D神は身近な存在:
「私たちは、神の中に生き、動き、また存在している」=神は遠くにおられる方ではなく、私たちの近くにおられます。「確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」と強調して、私たちの命は神に全く依存しており、神のみ力によってのみ動くことができ、神の恵みの中に存在しているという福音信仰を表しています。何と力強い、慰めに満ちた神の圧倒的存在でしょうか。前回はここまでお話しました。
 
2.新しい時代の始まり(30節)
 
 
「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」
 
・無知の時代が終わった:
真の神の渇望しつつも、真の神を捉え得なかった時代を、パウロは「無知の時代」と言い表しました。その時代を「見過ごしておられた」とは、異邦人における偶像崇拝の罪を、そのことの故に罰することを控えておられたとの意味です。使徒14:16にも似た表現があります「過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。」。さらに、ローマ3:25には「今まで犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られた」とも記されています。

・新しい時代が「今」始まった:
神のお扱いが変わった=「今は」ということばは強調的です。ローマ3:21にも、「しかし、今や」という言葉が使われています。キリストが来り給うたことにより、人類に対する神のお扱いが変わったことが示唆されているのです。キリストによって真の神がはっきりと示された、そんな素晴らしい時代が「今」来たのだとパウロは、興奮を込めて語ります。

・悔い改め(方向転換)が勧められる:
それまで無知のゆえに偶像を拝んでいた異邦人が、真の神に立ち返る道が示されました。「悔い改め」とは方向転換のことです。アテネ滞在の直前、パウロはテサロニケで伝道しましたが、テサロニケの人々は、喜んで正に偶像を捨てて活ける真の神に立ち帰りました。「悔い改めを命じる」という言葉は、神様がより厳しくなった、というニュアンスを与えますが、そうではありません。自転車の乗用の規則を厳しくする交通法規が定められたので、これからは、スマホをかけながら自転車に乗っていても捕まらなかったのに、これからは捕まえますよという厳しい規則があてはまるという転換ではありません。

・万民への福音:
良きおとずれがすべての人に=この悔い改めが「どこででも、すべての人に」勧められていることが素晴らしいですね。それは、喜びを齎す良きおとずれが、より広く伝えられたという点での革命なのです。「(良き訪れを伝える)その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てに届いた」(ローマ10:18)のです。罪の赦しの道がすべての人に開かれました。悔い改めることができる心も、恵みとしてすべての人に備えられています。
 
3.裁き主としての主イエス(31節)
 
 
「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
 
・終わりの日が来る:
終末はある=そもそも、ギリシャ哲学の中には終末思想はありませんでした。彼らは、この世界は始まりなく終わりもない、永久に継続するものであると考えていました。パウロは、この世界には終わりがあると宣言します。

・終わりの日は審判によって締め括られる:
「義をもってこの世界をさばく」とは、一面から言えば厳しい、しかし、他面から言えば慰めに満ちた思想です。この世界は善悪が混在していて、多くの矛盾があり、フラストレーションに満ち満ちています。しかし、すべてのものが正しく評価され、それによって賞罰がある、そのような終末観を示すのが聖書です。

・復活したイエスは裁き主:
パウロは、その裁き主こそ、一人の人であり、死者の中から甦ったイエスなのだと締め括ります。復活と審判を結び付ける聖書の言及はあまりありませんが、パウロはイエスの復活こそ、最後の審判の確証だというのです。を示しているのです。先ほど述べたテサロニケ人クリスチャンは、悔い改めて神に立ち返った後、「神が死者の中から甦らせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むように」(1テサロニケ1:10)なりました。復活の主は審判から逃れさせてくださるお方として示されました。反対に、こんな素晴らしい福音を聞きながらそれを意識的に拒む場合は、キリストは審判者として厳しく臨みなさいます。マタイ26:64「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」との言葉がそれを示唆しています。ヨハネ5:27にも、「父(なる神)はさばきを行う権を子(キリスト)に与えられました。」とも記されています。
 
B.聴衆の反応(32-34節)
 
 
「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう。』と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った。しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。」
 
1.復活を嘲笑した人々
 
 
パウロの講演の前半は、学問好きなアテネ人の理性でも受け入れられたようです。しかし、イエスとその復活に話題が移るや否や、彼らは全く拒否する方向に転じました。彼らにとって復活などは愚かなおとぎ話でしかなかったのであす。特に、復活をあざ笑ったのは、エピクロス派であったと思われます。
 
2.態度保留の人々
 
 
態度を保留した人々もいました。「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」保留には二通りあって、慎重に考えて肯けたら前に進もうという人と、拒絶の意志を婉曲に表す人とです。これらは、ストア派の人々であったと思われます。
 
3.信じた人々
 
 
「しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた」ということは、大きな慰めです。

・デオヌシオ:
アレオパゴスの裁判官(後のアテネ教会監督)=その中で、アレオパゴスの裁判官デオヌシオが真っ先に記録されています。高い地位と評判を得た人が先ず信じました。12人で構成されていた裁判官の一人です。裁判官は、知的で、公正であることが期待されていました。アレオパゴスは、大事な問題を決定する権威ある機関でした。その一人がクリスチャンになったとは、驚くべきことです。後の教会指導者エウセビウスは、この人がアテネ教会の最初の監督になったと記しています。さらに、殉教者になったとも言われています。

・ダマリスなど:
アテネ教会が生まれる=ダマリスと言う女性その他の人々も信仰に入りました。女性ですから、この講演を、正面から聞くことは出来ませんでしたが、回廊の外で聞いていたのでしょう。熱心に耳を傾け、心動かされて信じたことが伺われます。アテネ教会がどのように確立されたかは不明ですが、デオヌシオを中心に交わりが始まったことは容易に想像されます。正に、神の言葉は空しくは帰りません(イザヤ55:11)。
 
終わりに:神の大きな恵みを信じ、その懐に飛び込もう
 
 
パウロが、大きな興奮と感動を持って、「しかし今や」と語ったように、神の大きな恵みを信じ、その恵みを開かれた心で受け取りましょう。
 
お祈りを致します。