礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年6月14日
 
「恐れるな、語れ、黙すな」
使徒の働き連講(53)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 18章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  9,10   恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。
(使徒の働き 18章9-10節)


 
聖書テキスト
 
 
1 その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。2 ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、3 自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。
4 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。5 そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。6 しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く。」と言った。7 そして、そこを去って、神を敬うテテオ・ユストという人の家に行った。その家は会堂の隣であった8 会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。
9 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。10 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。11 そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。
 
はじめに:
 
 
前回は、アテネにおけるパウロの演説を学びました。万民に対して開かれた福音、どんな人でも悔い改める恵み、悔い改める時にどんな罪でも赦される恵みを語りました。さて、今日はその続きです。
 
1.コリントに到着(1節、地図@参照)
 
 
「1 その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。」
 
・アテネ→コリントへの道:
アテネの西、直線距離にして60kmほど旅です。

・コリント

・コリント湾レカイオン港とエーゲ海ケンクレア港を繋ぐ地峡(8km)の西側で、商業の中心地(地図Aコリント周辺、写真@コリント運河参照):
コリントは、コリント湾のレカイオン港とエーゲ海側のケンクレア港の間の地峡の西側に位置しています(地図Aコリント周辺参照)。今は、コリント運河(写真@コリント運河参照)で繋がれていますが、当時は、敷石の上を台車が船を運ぶという仕組みになっていました。ともかくここが流通の要となっており、コリントは商業の中心地となっていました。レカイオン港に至る大きな道路がその町の大きさを物語っています(写真Aコリント遺跡参照)。

・アカヤ州の州都で、ローマ総督の居住地:
コリントは、アカヤ州の州都で、政治的にもローマ総督が住んでいたほど重要な町でした。

・性的不品行で「有名」(写真Aアポロ神殿跡、地図Bコリント略図参照):
ただ、その俗悪さは、「コリント風に振舞う」という言葉で表されるほど性的不品行が横行していることで有名でした。愛と美の女神アフロディテ(ビーナス)の神殿が海抜600mの丘の上にあり、別な丘の上にはアポロの神殿が立っていました(写真Bアポロ神殿跡参照)。町の中央にはアゴラがあり、その北西には劇場がありました(地図Bコリント略図参照)。アゴラの近くにはユダヤ人会堂もあり、その遺跡も発見されています。

 
2.アクラ夫妻との出会いと共労(2―3節)
 
 
「2 ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、3 自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。」
 
・アクラとプリスキラ:
ポント→ローマ→コリント=小アジヤのポント出身でローマに住んでいましたが、この時コリントに移ってきました。恐らくローマで信仰を持ち、クリスチャンとしてやってきたものと思われます。

・ローマから追放される:
アクラ夫妻はローマから追放された、と記されています。これは、49年クラウデオ皇帝の反ユダヤ政策によったものでした。歴史家スエトニウスは「ユダヤ人が、その一人のクレストゥスという扇動者に唆されて絶えず騒ぎを起こしていたので、ローマから追放された」と記しています。この「クレストゥス」が誰を指すか、諸説ありますが、私は「キリスト」を指すと思います。クリスチャンはこの頃ローマに存在しており、クリスチャンを巡る反対運動がユダヤ人に起き、その騒ぎに嫌気をさした皇帝が、一刀両断で、クリスチャンであるユダヤ人も、そうでないユダヤ人も一気に追放したものと思われます。でも、その追放は徹底したものではなかったようですが。

・パウロとの出会い:
同業のよしみ、キリストへの信仰=さてアクラ夫妻は、天幕作りという同業のよしみでパウロと意気投合し、一緒に仕事をしながら生計を立て、一緒に福音を宣べ伝えるようになりました。

・天幕づくり:
テイラーのような仕事=天幕作りというのは、私たちがイメージするようなテントの製造・修理に限定されたものではなく、山羊の毛や皮を使って着物を作る幅広い職人だったようです。いずれにせよ、ユダヤ人、特に、ラビと呼ばれる人にとって、手に職を持つことは、しゃべるだけで生きているのではないという証しのためにも必要とされていることでした。
 
3.会堂での説教(4−5節)
 
 
「4 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。5 そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。」
 
・会堂における論争:
ユダヤ人(神を畏れる)とギリシャ人に対して=コリントのアゴラでパウロが行った路傍説教に関心を持ったギリシャ人が会堂にも出席しました。パウロは、前から会堂に出席していたユダヤ人に対しても、後から加わったギリシャ人に対しても、キリストの福音を伝えました。

・シラスとテモテの合流:
パウロがマケドニヤを去る時残してきたシラスとテモテがコリントにいるパウロの所に合流しました。そしてテサロニケでの良き報告と共に、ピリピ教会から預かった金銭的援助も齎したようです。パウロは、心励まされると共に、副業の必要もなくなりましたので、益々力を得て伝道に専念しました。
 
4.人々の反抗とパウロの宣言(6―8節)
 
 
「6 しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、『あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く。』と言った。7 そして、そこを去って、神を敬うテテオ・ユストという人の家に行った。その家は会堂の隣であった。8 会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。」
 
・人々の反抗:
多くのユダヤ人がパウロの福音説教に反対しました。そして、あらゆる罵詈雑言を用いて暴言を吐いたのです。それは、パウロ個人に対してだけではなく、パウロの宣べ伝えた主イエスに対する暴言でもありました。これは、予想されたこととはいえ、大変残念なことです。

・着物の塵を払うパウロ:
この暴言を聞いたパウロは、個人的な怒りという感情ではなく、聖なる怒りと悲しみを感じ、この町を去ることにしました。その象徴的表現が、「着物の塵を払う」という仕草でした。これは、靴に着いた塵を払うのと同じ意味を持ち、聞くものがその反抗の故に起きる裁きの責任を負う、語るものはその責任から逃れるということを示す行為だったのです。エゼキエル33章にも、預言者として警告を発した後にそれを受け入れない人々は、その責任を自分で負わねばならぬことが記されています。パウロの行動は厳粛なものでした。

・信じた人々:
このような拒絶反応の人々の只中にも、信じる人々が起こされました。
・テテオ・ユスト(多分ローマ人):
その一人は、テテオ・ユストというローマ人でした。会堂の近くにいたユストの家には個人伝道のためだったようです。
・会堂司クリスポと家族:
クリスポという会堂司がその家族とともに信じたことも、コリント伝道の大収穫の一つでした。彼は、会堂でなされたパウロの説教をじっくりと聞き、素直な心をもって福音を受け入れました。
・多くのコリント人:
さらに、多くのコリント人が信じました。コリントにおける初期の働きは決して虚しいものではありませんでした。
 
5.主の権限と励まし(9―11節)
 
 
「9 ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。10 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。』と言われた。11 そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」
 
・パウロの落ち込み:
「弱く、恐れおののいていた」(1コリント2:3)=初期の働きの収穫にも拘らず、パウロは落ち込んでいました。1コリント2:3には、その時の回想として「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。」と記されています。ユダヤ人たちの暴言が、相当重くパウロの心に残っていたのでしょう。

・主の顕現と励まし:
このような危機ぶつかったパウロに、主ははっきりした形で表れてくださいました。危機において主ご自身が顕われなさったことはこの後も幾度となくありました(例えば27:23−26)。このコリントでの権限もその一つです。
・伝道継続を命令:
「恐れないで、語り続けよ。黙すな」=主のご命令は「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」です。奉仕を続行するように、恐れないで語り続けなさい、黙っていてはいけない、という積極的なものでした。
・臨在の約束:
「わたしがあなたとともにいる」:さらに臨在の約束が伴います。「わたしがあなたとともにいるのだ。」
・安全保証:
「だれもあなたを襲って、危害を加える者はない」=更に安全の保証が続きます。「だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。」この保証は力強いものでした。テサロニケでもベレヤでも、パウロはそのユダヤ人の迫害によって、その土地を去らねばなりませんでした。このコリントでも、迫害は繰り返されていました。しかし、主は、「大丈夫、だれもあなたを襲って、危害を加える者はない」と確証を与えなさいました。この確証がパウロを踏みとどまらせました。
・収穫の約束:
「この町には、わたしの民がたくさんいる」=最後に、もっと素晴らしい約束が与えられました。それは、大いなる収穫の約束です。「この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と。英訳は、“I have many people in this city.”です。コリントの町には、潜在的に多くの信徒がいる、それを掘り起こしなさい、と言われたのです。日本の宣教も本当に厳しい現実にぶつかっています。先週、私はメノナイト・ブレズレン教団の教職者研修会で、参加した30名ほどの牧師、神学生に「福音派の宣教のこれから」について語りました。日本のクリスチャン人口は1%以下を長い間低迷しています。その原因を探ると共に、展望について語り合いました。私は信じます。「日本には多くの主の民がいる」と。

・パウロの長期的伝道:
パウロは、この言葉に励まされてコリントに留まる決心をしました。もし、パウロがコリントからすぐに去ったとすれば、コリント教会という、1世紀における鍵となる教会は誕生しなかったことになります。実際は、パウロの18か月に亘るコリント滞在により、素晴らしい教会が誕生しました。主を讃美しましょう。
 
終わりに:日本にも、「主は多くの民を持っておられる」ことを信じよう
 
 
私たちも恐れないで、語り続けましょう。黙ってはなりません。なぜなら、主は多くの民を私たちの周りに持っておられるからです。
 
お祈りを致します。