礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年8月9日
 
「ご自身の血をもって買い取られた神の教会」
使徒の働き連講(59)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 20章17-38節
 
 
[中心聖句]
 
  28   聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
(使徒の働き 20章28節)


 
聖書テキスト
 
 
17 パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。18 彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。19 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。20 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、21 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。
22 いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。23 ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。25 皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。26 ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。27 私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。
28 あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。29 私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。31 ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。
33 私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。34 あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、「受けるよりも与えるほうが幸いである。」と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。
36 こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った。37 みなは声をあげて泣き、パウロの首を抱いて幾度も口づけし、38 彼が、「もう二度と私の顔を見ることがないでしょう。」と言ったことばによって、特に心を痛めた。それから、彼らはパウロを船まで見送った。
 
1.告別説教の背景(17―18節a)<前回>
 
 
「17 パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。18 彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。」
 
・ミレトでの会合(地図参照):
パウロは、第三次伝道旅行の帰途ミレトに立ち寄ります(地図参照)。ミレトとエペソの距離は、直線で50kmです。さまざまな事情で、パウロは三年間伝道したエペソには立ち寄らず、その代わりにエペソの長老たちをミレトに招集しました。ここで行われた「告別説教」は、パウロが自分の奉仕を回顧し、その働きの実として救われた信徒たちに、大切な教えを残しているものです。

 
2.エペソ伝道の回顧(18節b−21節)<前回>
 
 
「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。19 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。20 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、21 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」
 
・エペソでの伝道姿勢(謙遜と涙、明確さ):
パウロは先ず、自分がエペソに足を踏み入れたその時の伝道姿勢を証しします。彼は、「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えた」とエペソでの3年間が、心血を注いだ伝道期間であったことを率直に述べています。そして「益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。」と、率直な説教の在り方を振り返ります。

・公的説教と個人的教え:
「人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え」たとは、会堂とツラノの講堂で公に講義を続けた事、家々を訪問して、じっくり人々と語りあったことを回顧します。

・福音の中心(神への悔い改めとキリストへの信仰)を強調:
パウロは「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張しました。悔い改めとははっきりとした方向転換のことです。神を畏れない今までの生き方を改め、神を畏れる人生に方向転換することです。これは、形の上では神を畏れて従っていながら、その実、神の愛を拒みそれに逆らうユダヤ人にも、自然神を拝む多神教的な行き方をしていたギリシャ人にも必要でした。信仰とは、私たちの罪のために十字架にかかり、死んで甦り、今も生きて執成してくださるキリストへの単純な信仰のことです。
 
3.危険に臨む覚悟(22−27節)
 
 
「22 いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。23 ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。25 皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。26 ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。27 私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」
 
・エルサレムで待っている危険を認識:
パウロは、エルサレムへの道が危険の伴うものであること、そして、それがおそらくそれが彼の命取りとなる可能性を重々承知していました。それは、パウロが三回の伝道旅行を通して異邦人教会を次々生んだことに対するユダヤ人の反感が沸騰していたこと知っていたからです。それは、「聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて」という言い方に現れるように、聖霊に示された確信でもありました。

・生命を捨てる覚悟:
それでも尚、パウロはエルサレム行きを諦めることをしませんでした。それは、エルサレムにおいて異邦人伝道の成果を示すことで、福音の普遍性を証明するという大切な使命があったからです。「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」というパウロの言葉は、殉教に向かっていく英雄的な悲壮感からのものではありません。福音の普遍性を証明するという使命は、走るべき道程だったのです。その使命感が「心が縛られて」という22節の言葉のニュアンスです。それが命の危険を意味しようとも、それに向かっていくことが彼の生き方でした。

・ラッパを吹いた「見張り人」のように(エゼキエル33:3−6):
この時パウロは、二度とエペソには戻らないだろうと感じていました。実際の歴史を見ますと、パウロは数年後再訪が可能となったようです。しかし、この時には、二度とエペソに戻らないだろうと信じていました。そこでパウロは宣言します。「私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。・・・私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」と。つまり、福音の基本的な部分だけではなく、救いに関する「神のご計画の全体を、余すところなく」伝える責任を果たしたと。こんなことが言える伝道者は幸いと思います。「さばきについて責任がない」という言い方は、預言者エゼキエルが、城を見張る見張り人としての責任を果たせと主に語られた所から来ています。「剣がその国に来るのを見たなら、彼は角笛を吹き鳴らし、民に警告を与えなければならない。だれかが、角笛の音を聞いても警告を受けないなら、剣が来て、その者を打ち取るとき、その血の責任はその者の頭上に帰する。角笛の音を聞きながら、警告を受けなければ、その血の責任は彼自身に帰する。しかし、警告を受けていれば、彼は自分のいのちを救う。しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。」(エゼキエル33:3−6)パウロは、自分が「見張り人」としての責任を果たしたと良心的に宣言することができました。
 
4.エペソ長老への指示(28−32節)
 
 
「28 あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。29 私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。31 ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」
 
告別の言葉を述べた後、エペソの長老たちに、教会における大切な責務について言及します。

・自分自身に気を付ける:
エペソの長老たちは、群れを配慮する前に「自分自身に気を付けること」を怠ってはならないと命じます。長老は、どんな奉仕をするかの前に、自分の魂の在り方に気をつけねばならないことを警告されるのです。個人的デボーション、自己規律、聖化の追求とその歩みが何よりも大切というのがパウロの勧めです。

・「神がご自身の血をもって買い取られた教会」を配慮する:
その次に配慮すべきは、群れ、つまり神の教会です。「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」という言い方で、教会の尊さを語ります。「血」をもってとは、当然キリストの血潮のことです。「買い取る」(ペリポイエオー)とは、スーパーでちょっとした買い物をするというような軽いものではなく、価値のある骨董品を高い値段で買い取って自分の秘蔵の宝とするというような重い意味です。教会とは、「良いわざに熱心なご自分の聖い民」(テトス2:14)として神が買い取って下さった民です。

・「神の教会」としての聖なる恐れをもって:
現実の教会とは、分派闘争があったり、異なる教えが入り込んで来たり、不道徳の要素が残っていたりとか、正に人間の集まりなのですが、神の目から見るならばキリストの命を代価として買い取りなさった尊い、聖い存在なのです。私たちが現実の教会を見る時、確かにそこに欠点や問題点を目にします。それに目をつぶってはいけませんが、同時に、教会だってどろどろした政治的なものだと簡単に片づけてはいけません。恐れと戦きをもって神の教会を眺めるという別な視点を失ってはなりません。例えは悪いかもしれませんが、殿様の御曹司を預かった乳母のようなものです。現実には、駄々をこねたりする赤子に過ぎませんが、乳母はこれが御世継であるという恭しさをもって赤子を扱います。そのように、現実の教会には沢山問題があるのですが、でも、神の聖なる所有物なのです。私たちも、聖なる恐れをもって教会の諸問題に当るべきと思います。

・牧者として、監督としてケアする:
パウロは、エペソの長老たちを牧者とも監督とも呼んでいます。神の教会を牧するために監督に立てた、という言葉で、長老たちの務めが、羊飼いとしてのケアと養いが主であることを強調します。監督(エピスコポス)とは、この時代は未だ立場や職名を意味するものではありませんでした。エピスコポスは、上に立って広い角度から物を見るというエピスケプトマイという動詞から来てきます。上からの目線という意味ではありません。広く高い視野をもって良く群れを見張り、病気の人、困っている人がいないか、いるとすればいつでも助けましょうというスピリットを持った人のことです。

・外からの危険に対する警戒:
パウロは、彼が去った後で「狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回る」危険を予見しています。具体的には、異邦人教会の入り込んでくるユダヤ主義の危険を指していると思われます。実際、この説教の6、7年後にエペソ教会の牧師に任じられたテモテに向かって、教会を惑わしている禁欲主義という間違った教えが入り込んでいることが警告されています(1テモテ4:1−6)。

・内から起きる異端への警戒:
危険は外からだけではなく、内にも存在します。「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」先ほど引用した第一テモテ書の数年後に、矢張りエペソに居るテモテに向かって似た警告をしています。「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4:3−4)とその危険を警告しています(2テモテ3:1−13)。

・神の言葉(旧約聖書・イエスの言葉・使徒伝承)は成長と継承の鍵:
ここまで語ったパウロは、細々した注意を続ける代わりに、後のことは「神とその恵みのみことば」とにゆだねます。これ以上頼りがいのある私たちのよりどころはありません。神に委ねるとは、全能で、全知で、憐れみに満ちた神の御手に委ねることです。具体的には、神のみことばに委ねることです。神は目に見えませんが、神によって霊感されたみことばこそ、人々を「育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができる」からなのです。パウロが「み言葉」と言って意味したのは第一義的に旧約聖書です。それとともに、伝承として伝えられてきていた主イエスの教えです。更に、霊感された御言葉としての位置づけを持ち始めていたパウロ、ペテロらの使徒の言葉です。このみ言葉は、人々を育て、御国への相続を確かなものとしてくださいます。私たちが自分の成長と御国の相続のために必要なのは、神のみ言葉です。他の方々の成長と御国の相続のために期待しうるのも、神のみ言葉です。
 
5.パウロ自身の潔白さの弁明(33−35節)<次週>
 
 
「33 私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。34 あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
 
・自分の潔白さの証し
・労働の証し(パウロ自身だけでなく一行の生活費も支える)
・与える幸いの強調
 
6.告別(36−38節)<次週>
 
 
「36 こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った。37 みなは声をあげて泣き、パウロの首を抱いて幾度も口づけし、38 彼が、『もう二度と私の顔を見ることがないでしょう。』と言ったことばによって、特に心を痛めた。それから、彼らはパウロを船まで見送った。」
 
・祈り
・口づけ
・見送り
 
おわりに:教会の価値高さを再認識しよう
 
 
「神がご自身の血をもって買い取って下さった神の教会」という教会の大切さ、価値高さを再認識させていただきたいと思います。どの分野の責任であれ、私たちが与えられている責任は、血をもって教会を買い取って下さった「神ご自身に対して」であることを覚えたいと思います。それがどんなに小さなものであれ、祈りつつ、聖なる恐れをもって、その責任を全うさせていただきましょう。
 
お祈りを致します。