礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年9月20日
 
「祝福の老後」
愛老聖日に因み
 
竿代 照夫 牧師
 
ルツ記 4章11-17節
 
 
[中心聖句]
 
  15   その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。
(ルツ記 4章15節)


 
聖書テキスト
 
 
11 すると、門にいた人々と長老たちはみな言った。「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家にはいる女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい。12 また、主がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように。」13 こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところにはいったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。
14 女たちはナオミに言った。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。15 その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」16 ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。
17 近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた。」と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。
 
はじめに
 
1.愛老聖日の感謝
 
 
愛老会員の皆様そして多くの方々と共に愛老聖日礼拝を共に捧げる恵みを感謝いたします。昨年から愛老会の年齢を75歳以上と、5年引き上げさせていただきました。その主な理由は日本人の平均年齢の延びです。今年の会員名簿から75歳以上の方を拾いますと、合計80名です。昨年度の年齢引き上げで愛老会から外れた方も、今年再入会された方が5名おられ、改めて歓迎申し上げます。しかし、愛老会80名の内、その半数近くが今日の礼拝にご出席できないとお返事を頂いています。でも、普段なかなか礼拝に出席できない方で、今日のために体調を整え、頑張ってお出でくださった方々のお顔を見ることができて、嬉しく思います。
 
2.ルツ記概観
 
 
今日は、ルツ記から、幸せな老後を送ったナオミについて共に学びたいと思います。ルツ記第4章に入る前に、ルツ記全体を概観いたします。ルツ記は4章で成り立っていますが、各章は、それぞれが一つの画で描かれています。

・1章:
ルツの決断=1章は、モアブ人の寡婦ルツが、イスラエル人の寡婦であり、彼女の姑であるナオミを慕い、また、ナオミが信じている真の神を慕って、ナオミの故郷であるベツレヘムに戻ってくる画で、いわば物語の序章です。

・2章:
ルツの勤労=2章は、そのルツが生計を得るために必死に働く勤労の画です。落穂拾いで糧を得ようとしたるつが、図らずも、金持ちで、しかもナオミの親戚のボアズの畑に導かれ、ボアズの好意を得るこれも美しい画です。

・3章:
ボアズへの訴え=3章は、姑ナオミの知恵と示唆に従って、畑と身分を買い戻してくださいと、ボアズに直接訴えるルツの大胆な行動が描かれています。

・4章:
ボアズの決断と行動:4章は、ルツの信仰に応えて、ボアズが手順を踏んでナオミの財産とルツの身分を結婚という形で回復させる、これまた美しい画です。
 
A.ナオミの老後
 
 
さて、この第4章の物語で、老後のナオミが頂いた祝福を数えてみましょう。
 
1.贖い手が与えられたこと
 
 
・贖いの制度が備えられていたこと:
14−15節で、女たちが登場して「買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。」と神を讃美します。この人々は、ナオミとルツがベツレヘムに戻ったときに「まあ。ナオミではありませんか。(20年も見ない内に変わり果てており可哀想に。)」(1:19)と言ったあの女たちです。でも、ここでは主を讃美し、ナオミを祝福しています。世の人々は私達の行動、生活、奉仕などを良く見て、あれやこれやと言うものです。無責任と言えば無責任ですが、正鵠を射た批評家でもあるのです。彼女たち讃美の焦点は、贖い(買戻し)という制度と思想です。どんなに落ちぶれた人のためにも、イスラエルには、買戻しという制度が備えられていました。そのような制度を備えてくださった神の恵みは素晴らしいものです。

・ボアズという贖い手が与えられたこと:
彼女たちは、「その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった」と讃美しています。ナオミは外国で夫も二人の子供も失い、そのままだったならば、自分の名前も血統も、そして、自分の命さえも外国で失ったかも知れませんでした。ベツレヘムに帰ってからも、この落ちぶれた家族は親戚から見捨てられてもおかしくはない状況でした。その様な絶望的な状況にあって、贖い手(買い戻す者」として、誠実でしかも裕福なボアズを備えてくださった神の恵みの大きさは計り知れません。

・私たちにも贖い主が与えられていること:
私たちには、ボアズのような金持ちの親戚はいないかも知れません。でもボアズより数億倍も金持ちである父なる神様が私たちの贖い手となって下さっています。感謝しましょう。
 
2.継承者が与えられた恵み
 
 
・名前と信仰を受け継ぐオベデ:
女たちの讃美の第二の内容は、「主が・・・あなたの子孫を与える点でも失敗しなかった」ということでした。贖い手であるボアズからナオミの名前を受け継ぐ孫を生まれさせたのが主だと言っています。この贖い主を通して、「その名が伝えられる」(つまり、この子供オベデが大きくなって、ボアズの繁栄、ボアズの性格を受け継いで、その名前を残す)と言う予測です。ボアズやルツの信仰が継承されて、イスラエル全体の祝福となるということなのです。近所の女たちは、「『ナオミに男の子が生まれた。』と言って、その子に名をつけた。」のです。ナオミが生んだのではありませんが、嫁のルツの子は、法的にはナオミの子でした。彼女たちは、おせっかいにも名前を付けました。オベデ(「僕」または「彼は仕える、礼拝する」)です。神と人に仕える人間になることが期待されていました。オベデの人となりは記されていませんが、お母さんのルツの信仰を見、エッサイとその家庭の信仰を見ると、その中間にいるオベデも信仰深い人だったと考えられます。

・ナオミの老後の世話をするオベデ:
「その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。」オベデこそ、ナオミの喜びとなり、ナオミを助ける頼もしい孫となるべきでした。その楽しみこそ、ナオミを本当のナオミ(=楽しい)たらしめました。

・ナオミの喜びとなるオベデ:
通常、お祖母さんが孫を育てるというのは、余り推奨されていません。おばあさんの側からいえばかわいい孫を甘やかしすぎますし、孫の方でも、厳しいお母さんよりは、やさしいお祖母さんに逃れがちです。しかし、オベデは「ナオミの子」でしたから、責任をもってしっかり孫の面倒を見たことでしょう。その子をとり、胸に抱いて、養い育てた、と簡潔に記されていますが、ナオミの心によぎった感慨は如何ばかりだったことでしょう。彼女は主の慰め、主の憐れみ、主の祝福を、この幼い子供の中にしっかりと見ながら日々を過ごしたのではないかと思われます。
 
3.すばらしい嫁が与えられたこと
 
 
・「7人の息子に勝る嫁」:
「あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁」とは、何と素晴らしい表現でしょう。ナオミを真実に愛し、その愛の故に、故郷を捨て、自分の幸せを擲って、見も知らない異郷に何の当てもなくやってきた嫁、生活を支えるために朝から夜まで骨身惜しまず働く嫁、正にルツは「7人の息子に勝る嫁」でした。

・苦い前半生が、楽しい後半生に変えられた:
ナオミの半生を顧みてみましょう。彼女はその名前<楽しい>のように、快活で楽しい少女時代を過ごしました。しかし、エリメレクと結婚してからの半生は大変でした。ベツレヘムに飢饉が訪れ、育ち盛りの子供達を養おうと必死に苦闘したこと、ベツレヘムに見切りをつけて、言葉も習慣も宗教も違うモアブの地に引っ越しをしたこと、そこで外国人として色々な差別を受けながら必死に生活を立て直そうとしたこと、その戦いの最中に杖とも柱とも頼む夫に先立たれたこと、涙を拭う間もなく息子のマフロンとキルヨンも失ったこと、これだけ並べても、涙の乾く暇のなかった半生だったことでしょう。彼女はその悲しみを自分の呼び名を変えることで表しました。自分はナオミ(快い、楽しい)ではない、マラ<苦い>だ、と。それに比べて何と言う平和な多くの愛に包まれた老後が描かれている事でしょう。7人の息子に勝る忠実な嫁、その嫁を愛し守っているボアズ、可愛い孫、そして楽しい女友達に囲まれている今、昔の苦労をすっかり忘れてしまうような幸いを噛みしめていた事でしょう。「いや、ルツはそうだったかも知れないが、ウチの嫁は百年の不作だ。」などとけちを付けないで下さい。「7人の息子に勝る嫁」と誉めますと、本当にそうなる世界なのですから。
 
B.顧み給う主の事実
 
 
さて、全ての信仰者はこのような平安な老後が保証されている、と言う事がこの物語の教訓でしょうか。そう取っては余りにも皮相的と言えましょう。そうではなくて、主が彼女の人生を導いておられるという確かな事実、否主ご自身に目を留めたいのです。では、ここに描かれた主はどんなお方でしょうか。
 
1.助け無き者を顧み給う主
 
 
主は貧しい者、身よりのない者に格別な顧みを与えなさる神です。「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。神は孤独な者を家に住まわせ、捕われ人を導き出して栄えさせられる。」(詩篇68:4−6)神はすべての人に目を留め、その、恵みを施されますが、格別な顧みが約束されているのは、貧しい者、身よりのないものです。もう一つ詩篇を引用します。「主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。主は正しい者を愛し、主は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。」(詩篇146:9、10)この会衆の中に、私ほど見捨てられた人間はない、と思っておられる方はないでしょうか。覚えて下さい。私達の神は、その様な者たちを格別に愛し、顧みて下さるお方だと言うことを。
 
2.人生を最後まで背負い給う主
 
 
主は私達を最後まで背負って下さる神です。イザヤ書46:4には「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」高齢化社会に入り、老後をどう過ごすかは大きな社会全体の問題です。個人的にも不安を抱えた方が多いことでしょう。でも、ナオミを最後まで顧み給うた主は、私たちを最後まで背負い給う主です。
 
3.苦労に報い給う主
 
 
主は私達の経験した悲しみや苦労をご存知で、それに倍する祝福をもって労って下さる神です。「(主は・・・)シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに讃美の外套を着けさせる」(イザヤ61:1,3)方です。人間には一生の間苦労する総量が定まっていて、それが若いときに来れば、老後には平安が、若いときに苦労が足らないとその付けが老後の人生に来る、と語った人が居ます。100%の真理とは言えないまでも、経験則では、かなり真理に近いと思います。モーセも、「あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。」(詩篇90:15)と祈っています。神は私たちの苦労の総量を秤に掛けて、記録して下さいます。それを地上か天国かどちらかで必ず埋め合わせして下さいます。
 
終わりに
 
 
・恵みを数えよう:
私達も、かくも長きに渡って助け続けてくださった主に心から感謝を捧げましょう。「ここまで主が私たちを助けてくださった。」(1サムエル7:12)と記念の塚を立てましょう。

・終わりまで担い給う主を讃美しよう:
現実的には、体の衰えを感じ、年金は保証されるのか、住まいはどうなるのか、私を支える家族は大丈夫か、など不安を抱えている方も少なくないと思います。そんな不安材料があったとしても、私たちは「日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。」(詩篇68:19)の事実の故に、主を讃美しましょう。
 
お祈りを致します。