礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年11月1日
 
「パウロ、議会を分断する」
使徒の働き連講(66)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 23章1-24節
 
 
[中心聖句]
 
  6   兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。
(使徒の働き 23章6節)


 
1.大祭司とのやり取り(1〜5節)
 
 
「パウロは議会を見つめて、こう言った。『兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。』すると大祭司アナニヤは、パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打てと命じた。その時、パウロはアナニヤに向かってこう言った。『ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。』するとそばに立っている者たちが、『あなたは神の大祭司をののしるのか。』と言ったので、パウロが言った。『兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、「あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。」と書いてあります。』」
 
・議会で弁明の機会が与えられる:
前回は22章から、「パウロ、市民権を主張」という題で、お話ししました。群衆の騒動に巻き込まれ、全くいわれのない理由で鞭打ちにされそうになったパウロが、ユダヤ人としては珍しい特権であったローマ市民権を主張した出来事でした。知らなかったとはいえ、人権を無視した行動に出ようとしていた千人隊長は、驚天動地の思いで、ことを正しい軌道に乗せるためにユダヤ人の議会(サンヒドリン議会)を急遽開催します。鎖を解かれたパウロが議会で弁明の機会が与えられたのです。

・パウロの冒頭証言:
パウロは冒頭に「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」と自らの潔白さを主張します。彼の証言は、キリストに出会う以前の生活も含めてのことと理解されます。というのは、教会の迫害さえも、彼の主観においては「清い良心」をもって神への熱心の故に行ったとの自負心があったからです。この主張は、24:16の発言からも支持されています。「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」勿論パウロは、その熱心さが救いの手段であるとは言いません。

・大祭司の不当な仕打ち:
パウロの証言を聞いた大祭司は、今の言葉で言えば「むかついて」、生意気なパウロの口を打ち叩けと側近に命じます。パウロを丁重に扱うようになった千人隊長とは、対照的な鈍感さです。

・パウロの反駁:
すかさずパウロも反論します、「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。」正に、律法は、有罪の確定がないのに刑罰を与えることを禁じていました。

・大祭司アナニヤ(47〜58):
悪名高い貪欲さ因みに、この時の大祭司は、アナニヤという男で、ヘロデ・アグリッパの弟の推薦によって47年に大祭司職を得、11〜12年その地位にありました。非常に欲張りな男で、平の祭司が受けるべき十分の一献品を横取りした、と歴史家ヨセフスが皮肉っています。この出来事の5年ほど前、ユダヤ人とサマリヤ人との争いを抑えきれずに、ローマ皇帝クラウデオに召喚された時にも、アグリッパの弟の執成しでその地位を保つことができたというエピソードがあります。多くの悪にまみれた大祭司の中でも一番悪名高かったのがアナニヤでした。彼の富とローマびいきの姿勢はユダヤ同胞からの恨みを買い、66年の反ローマ戦争の時には、同胞から惨殺されたと記録されています。

・パウロの反省:
さて、本題に戻ります。パウロのそばに立っている者たちが、「あなたは神の大祭司をののしるのか。」と言いましたので、パウロは、言い過ぎであったことを反省します、「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。』と書いてあります。」ペロッと舌を出して、頭を掻いたというようなユーモアが感じられるシーンです。本当に大祭司と知らなかったのでしょうか。パウロは彼が自分を裁く座についているということは知っていたのですが、余りにも世俗的な振る舞いであったので大祭司とは認識できなかった、という皮肉も込めていたのかもしれません。
 
2.パウロの証言が波紋を起こす(6〜10節)
 
 
「しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。『兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。』彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。騒ぎがいよいよ大きくなり、パリサイ派のある律法学者たちが立ち上がって激しく論じて、『私たちは、この人に何の悪い点も見いださない。もしかしたら、霊か御使いかが、彼に語りかけたのかも知れない。』と言った。論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵隊に、下に降りて行って、パウロを彼らの中から力ずくで引き出し、兵営に連れて来るように命じた。」
 
・議会の構成員:
パウロは、この大祭司の不規則発言によって、彼の作戦を変えます。自分の証しを淡々と述べて、議会の理解を求めるという正攻法ではなく、複合的な議会の構成に目をつけて、それを利用しようとするのです。

・サドカイ人:
議会の多数派はサドカイ人で、政治的には親ローマ派で、大祭司を中心とした指導層の人々です。宗教的には進歩派、悪く言えば世俗的な人々でした。

・パリサイ人:
少数ではあるが議会の一部)がパリサイ人でした。パリサイ人は、宗教的には聖書と伝道を固く守る保守派で、一般民衆の支持を得ていた人々でした。主イエスの裁判の時から25年を経て、サドカイ人の割合は増加していました。ローマ政府と協力してパレスチナを治めようという現実主義者が大勢を占めるようになってきたからです。

・パウロの証言:
さてパウロは、自分の弁明を行う振りをして、この対立する二派の分断を図ります。@最初に自分がパリサイ人であることを明確にします。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」パウロは、少数ではあるが頑固なパリサイ人と自分を同列に置くことで、論争を起こさせようとするのです。勿論、クリスチャンとなったパリサイ人と、ならなかったパリサイ人の間には大きな隔たりがありましたが、共通点もありました。Aそれは復活信仰です。勿論一般のパリサイ人が言う復活とクリスチャンが言う復活との間には大きな隔たりがありましたが、死後のいのちへの信仰という点では共通でした。そこにパウロは目をつけて、自分はその復活信仰のゆえに裁かれている、と主張して議会の分裂を図るのです。これを狡猾さというか、天の知恵というか、皆さんの判断に任せますが、ともかくこの分断は成功しました。

・パリサイ人がパウロを擁護に廻る:
案の定、さっそく対立が始まりました。「パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。」のです。モーセ五書しか信じないサドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからです。これは、神学的な違いだけではなく、親ローマ、反ローマという政治的対立も含んでいましたから、双方にとって引くに引けない対立でした。騒ぎはいよいよ大きくなり、パリサイ派のある律法学者たちが立ち上がって激しく論じて、「私たちは、この人に何の悪い点も見いださない。もしかしたら、霊か御使いかが、彼に語りかけたのかも知れない。」とまで言いました。

・サドカイ人は対抗し、議会は紛糾する:
大祭司を含むサドカイ人たちは、これに反駁したものですから論争がますます激しくなりました。あの安保法案を審議した委員会のような状況です。千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、「兵隊に、下に降りて行って、パウロを彼らの中から力ずくで引き出し、兵営に連れて来るように命じた。」のです。
 
3.主イエスの励まし(11節)
 
 
「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。』と言われた。」
 
・主イエスの現れ:
議会の対立によってもみくちゃにされたパウロでしたが、一応審理が終わり、床につこうとしたパウロに主イエスが現れます。使徒の働きの中で、このような明らかな主の現れは使徒の働きの中で5回記されています。いずれも、パウロが危機に立たされた時、転機を迎えた時です。最初はダマスコ途上、次はエルサレムにおいて、次はコリント伝道の挫折において、そしてこの23章、最後には27章の嵐の中においてです。主はこのような危機事態において聖徒を放置なさらず、明確な導きと励ましを与えなさるお方です。

・主イエスの力づけ:
この場合には、主の励ましはローマ行きに関することでした。パウロが今大騒ぎの群衆の中で主の証しをしているように、ローマでも証しの機会が与えられるという確かな保証が与えられたのです。ローマ行きの願いを持ちながら、しかし、その前段階としてエルサレムでの証しのために戻ってきたパウロは、エルサレム教会で温かく迎えられはしたものの、彼らがローマ伝道を支えてくれるという保証もなく、逆にユダヤ人の迫害の嵐に遭ってその望みが絶えそうになっていました。そんな時に、主ご自身が「あなたはローマでも証しをする」と保証してくださったことは大きな励ましです。この出来事の後にカイザリヤでの囚われが二年間続くのですが、この主イエスの現れが、どんなに大きな励ましとなったことでしょうか。
 
4.パウロ暗殺の企み(12〜15節)
 
 
「夜が明けると、ユダヤ人たちは徒党を組み、パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないと誓い合った。この陰謀に加わった者は、四十人以上であった。彼らは、祭司長たち、長老たちのところに行って、こう言った。『私たちは、パウロを殺すまでは何も食べない、と堅く誓い合いました。そこで、今あなたがたは議会と組んで、パウロのことをもっと詳しく調べるふりをして、彼をあなたがたのところに連れて来るように千人隊長に願い出てください。私たちのほうでは、彼がそこに近づく前に殺す手はずにしています。』」
 
・暗殺同盟の結成:
40名前後の過激派がパウロを殺すまでは何も飲み食いしないという約束をしました。まあ、何と非生産的な、愚かな同盟でありましょうか。当時、ユダヤ人過激派の中では、シカリという暗殺集団が沢山あり、ある時は反ローマ的な動き、時には親ローマ的な働きをしていました。この同盟もその一つでした。

・同盟の作戦:
そして、その同盟者たちが祭司長・長老たちへ、パウロを再度議会に召喚するように要請するのです。呼び出されたパウロを、その道中で暗殺するという、卑劣極まりない、しかも意図が見え見えの計画です。何とも知性と道徳性が疑われる行動です。
 
5.パウロの甥の進言(16〜24節)
 
 
「ところが、パウロの姉妹の子が、この待ち伏せのことを耳にし、兵営にはいってパウロにそれを知らせた。そこでパウロは、百人隊長のひとりを呼んで、『この青年を千人隊長のところに連れて行ってください。お伝えすることがありますから。』と言った。百人隊長は、彼を連れて千人隊長のもとに行き、『囚人のパウロが私を呼んで、この青年があなたにお話しすることがあるので、あなたのところに連れて行くようにと頼みました。』と言った。千人隊長は彼の手を取り、だれもいない所に連れて行って、『私に伝えたいことというのは何か。』と尋ねた。すると彼はこう言った。『ユダヤ人たちは、パウロについてもっと詳しく調べようとしているかに見せかけて、あす、議会にパウロを連れて来てくださるように、あなたにお願いすることを申し合わせました。どうか、彼らの願いを聞き入れないでください。四十人以上の者が、パウロを殺すまでは飲み食いしない、と誓い合って、彼を待ち伏せしているのです。今、彼らは手はずを整えて、あなたの承諾を待っています。』そこで千人隊長は、『このことを私に知らせたことは、だれにも漏らすな。』と命じて、その青年を帰らせた。そしてふたりの百人隊長を呼び、『今夜九時、カイザリヤに向けて出発できるように、歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵二百人を整えよ。』と言いつけた。また、パウロを乗せて無事に総督ペリクスのもとに送り届けるように、馬の用意もさせた。」
 
・パウロの甥が陰謀を密告:
パウロに甥がいたこと、その甥がパウロを支援していたことはここで始めて紹介されます。何とも心強い味方です。かれは、ユダヤ人たちが企んでいることを千人隊長に報告します。

・千人隊長の果断な処置:
千人隊長は、事態の重大さを察知して果断な処置を行います。その夜のうちに部隊を結成して、ユダヤ人過激派の手が届きにくいカイザリヤに送ってしまおうとしたのです。ユダヤ人過激派の先手を打ってしまおうという作戦で、見事というほかはありません。このカイザリヤ移送が、ローマ行きの第一歩となるのです。しかも、その旅費はパウロの個人負担ではなく、ローマ政府もちであったのですから神の御業は不思議です。

・(全体を通して)神の摂理の巧みさ:
エルサレム到着後の出来事が、このように生き生きと描かれていることには意味があると思います。使徒の働きの記者であるルカが、この出来事をまぢかに見て、その中に働き給う神の助けと摂理の業を強調したかったからであると思います。
 
終わりに
 
 
・摂理の御手を信じよう:
私たちの人生で日常的に起きる様々な戦いの中で、その時は気づかなかったとしても、神の深い摂理と助けを感じることは多いと思います。

・助けの御手を感じつつ行動しよう:
また、私たちが必要な折に必要な言葉と行動を行うことができるように、主が助けてくださることを感じることも多いと思います。ユダヤ人の反対と過激派の騒動の中を守られた主は、私たちの小さな騒ぎの中にも干渉してくださる主です。主を恐れつつ、信頼しつつ今週の歩みを全うしましょう。
 
お祈りを致します。