礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年11月29日
 
「待つ人のように」
アドベント第一聖日に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
ルカの福音書 12章35-40節
 
 
[中心聖句]
 
  36   主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。
(ルカの福音書 12章36節)


 
聖書テキスト
 
 
35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。 36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。 37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。 38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。 39 このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。 40 あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。
 
はじめに:待降節(アドベント=到着、到来)の意義
 
 
「待降節」ということばは、アドベント(ラテン語の到着とか到来)から来ています。キリストの降臨、そしてそれを待ち望むおよそ4週間の期間のことです。アドベント・カレンダーなどは、クリスマスまであと何日と日めくりをしながら楽しみに待ち望みます。私たちの少年時代には、「もういくつ寝るとお正月・・・」と、正月を楽しみに待っていましたが、あの気分です。同時にアドベントは、主が再び世に来られる再臨のことでもあります。クリスマスの日の到来を指折り数えて待ち望むと同じ心をもって再臨を待ち望むべきであることを示します。いわば、アドベントは、再臨待望の予行練習のようなものです。
 
1.主人の帰りを待つしもべ(僕)
 
 
・婚礼から帰る主人を待つしもべの姿:
今日の主題聖書個所は、婚礼(の後のご馳走)に出た主人の帰りを今か今かと待ち望み、そしてそのために備えをしている僕を通して、主イエスの再臨を待ち望む私たちの姿を教えている所です。この譬え話に出てくる主人は、花婿ではなく、客人として参列しているようです。当時の婚礼は真夜中まで続き、何時果てるとも分からないのが通例でした。ですから、その帰りが真夜中(夜9−12時)か、はたまた夜明け(0−3時)になるか皆目分かりません。今でしたならば、式場を出発する時にケータイをかけて、「あと20分で着くよ、ゲートを開けて置きなさい。」などというのでしょうが、ケータイのない当時のことです。しもべは、主人の帰りがいつでもよいように目を覚まして準備しているべきなのでした。

・主の再臨に備える信仰者:
この譬えの主人は「人の子」と呼ばれる主イエスです。その主イエスがこの世に再び来られる「再臨」の時を、信仰者たちが、良き心備えをもって待ち望むべきことを教えているのです(40節)。
 
2.クリスマスを待っていた人々
 
 
・メシヤ来臨を待っていた人々:
キリストが人の姿をもって世に来られたことを、再臨の前の現れという意味で「第一の降臨」とも呼びますが、その第一降臨(つまり、クリスマス)の時も、多くの人々が長い間メシヤの来臨を待ちわびていました。しかし、来臨の日時が何年、何月、何日、何時何分と指定されていなかったために心の備えをしていた人は少数でした。しかし、少数はありましたが、主の来臨を心から待ち望んで、心の備えをしていた者もおりました。その一人が老シメオンであり、もう一人が老婦人アンナという老婦人です。今日はアンナについてお話ししましょう。ルカ2:36−38を読みます。「また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、その後やもめになり、84歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。」

・政治的メシヤ待望の強かった時代:
紀元前1世紀のイスラエルは、ローマ帝国による鉄の支配が行われており、その艱難の深さに比例してメシヤ待望は強いものとなっていました。この人々は、メシヤ待望を過激なテロ活動に結びつけ、ローマからの独立を勝ち取ろうと戦った人々です。

・霊的メシヤを待望する少数の人々:
その一方、霊的な救いを齎すメシヤを待望して、祈り求めるグループもいました。アンナとその友達のシメオンが属していたのは霊的「メシヤ待望」グループでした。彼らは「イスラエルの慰められること」(25節)を待ち望み、「エルサレムの贖いを待ち望んで」(38節)いました。シメオンは特別に、「主のキリストを見るまでは、決して死なない」と、聖霊のお告げを受けていました(26節)。因みに、キリストという言葉とメシヤとは同じ意味です。

・アンナ=メシヤ待望祈祷会のリーダー:
アンナは、メシヤ待望祈祷会のリーダーでした。因みに、アンナとは、「恵み」(grace)という意味です。教会にも「めぐみ」さんという名前が多くおられますが、そのような一般的名前だったのでしょう。さて、アンナは、7年間の結婚生活を送りましたが、主人を早く亡くし、その後の長いやもめの生活を送るようになりました。辛いことも沢山あったことでしょうが、それによって人生に苦さを感じるのではなく、むしろ、祈りへの専念の道を選びました。宮を離れないで、と記されていますが、神殿の一角で寝泊まりしたわけではなく、宮で住んでいるかのように毎日通ったのです。そこでおしゃべりしたり、他の活動というものに打ち込んだのではなく、ただひたすら、祈りと断食に身を委ねました。

・女預言者アンナ:
アンナは預言者だったと記されています。その祈りと断食の中に、神の霊に満たされ、神からの啓示を受け、それを周りに人々に語るようになりました。その大切な啓示が、メシヤ来臨でした。シメオンが、キリストの来臨は近い、それは彼の生きている間に起きると確信したのは、アンナへのみ告げのゆえだったかもしれません。そのみ告げが明らかになって以来、それまで以上に、祈りに打ち込む生活に入りました。彼女は祈りのグループにもその啓示を分かち合い、期待に胸膨らませながら祈り続けました。

・待つ人の心:
アンナの姿勢から学ぶことは、「待つ人の心」です。
@一点集中:
アンナは、他のもの、他の事柄に目を向けず、メシヤの来臨という一点に目を向け、それに世界とイスラエルと自分の期待を集中して祈り続けました。詩篇の中にも数多く「待ち望む」という言葉がありますが、アンナは正にメシヤを待ち望んでいました。それだけが、彼女自身の希望であり、イスラエル全体の希望であったからです。
Aグループ祈祷:
彼女は、一人で待ち望んでいたのではなく、同じ希望を持つ同志と共に祈り続けました。祈りを通して心が通い、祈りを通して希望が燃え上がっていったのです。
B常在戦場:
さらに、何時メシヤがお出でになるかわからないので、いつでも備えして待っていました。そのために、彼女もそのグループも、「昼も夜も」祈り続けていました。

・答えられた祈り:
そしてその祈りは見事にこたえられました。イエス誕生から40日後後、子供の祝福のためにエルサレムに上ってきたヨセフとマリヤを見たとたん、シメオンはその時が来たことを直感して幼子イエスを抱いて、「私の人生は目的を果たした、私はいつでも死ねる!」とばかりに神の憐みを心から感謝します。それを見たアンナは、祈りのグループと共に神を賛美しました。
 
3.再臨の主を待ち望む
 
 
・再臨、それは喜ばしい希望:
クリスマスの祝いを待ち望む期間は、この世に再び来たり給うキリストを待ち望む心を新たにする機会でもあります。アンナとシメオンがメシヤをひたすら待ち望んだように、私達も再臨の主をひたすら待ち望んでいます。そのときこそ、汚れたこの世を大掃除してくださり、永遠の平和と至福が世をおおうでありましょう。聖書は、アーメン、主イエスよ、来たり給え、と再臨待望で締めくくられています。私たちも主を待ち望む心をもって、「御国の来る」ことを祈り続けましょう。

・待ち望むしもべ:
ルカ12章のたとえ話は、再臨を待ち望むキリスト者たちのあるべき姿を描いています。「35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。 36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。 37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。 38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。 39 このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。 40 あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」
@目を覚ましていること:
待つ人とは、目を覚まして、つまり、居眠りをしないでまっているひとのことです(37節)。しもべは、主人の帰りがどんなに遅くても眠らずに待ち受けました。聖書では目を覚ますことと祈ることが結び付けられています。目を覚ましつつ祈るのです。
A準備を整えること;
待つ人とは準備を整えている人のことです(35―36節)。主人のお帰りが何時になっても良いように、衣を絡げて働く姿勢を取り続け、灯りをともし、ドアをいつでも開けられるようにして待つのです。主人の気持ちになって、主人がどうすれば喜ぶかを想像しながら、あらゆる手筈を整えることです。豊臣秀吉が織田信長に喜ばれたのは、信長の気持ちになって、その期待を行ったからです。私達の場合で言えば、多くの魂を主に導くことです。また、多くの弱い立場にある人々を助けることです。
B主人の喜ばないことを行わないこと:
主人の喜ばないことを行わないことです(45−47節)。自分が待つ人であることを忘れ、しもべであることを忘れ、恰も(下僕たちの)主人になってしまったかのようにわがままな振る舞いをしたり、飲めや歌えの肉欲的な生活に生きるのは、「待つ人」とは正反対の生き方です。「待つ人のように」とは、私達の日常生活、心のあり方を貫く生き様となります。主に喜ばれることは何だろうと想像を巡らしながら、それにふさわしい生き方をすることです。
C大きな期待を持って待つこと:
大きな期待を持って主を待ち望みましょう。37節は不思議です。私達が待つ人のように待ち構えていると、「帰って来た主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。」主人が、私達しもべを友達扱いにしてくださるのです。何という光栄でしょうか。驚きでしょうか。天国とはそのような驚きの場所です。期待が大きくなりますね。
 
おわりに:再臨の主に対する大きな期待をもって備えよう
 
 
クリスマスにおいて、私達は主の御降誕を過去的に祝うだけではなく、これが再臨の雛形であることを覚えながら、待ち受ける人のようにクリスマスを迎えたいのです。「待つ人」とは、幸せな人です。丁度、婚約時代のカップルのような感じでしょう。私たち信仰者の一生は、キリストと婚約時代を過ごしているようなものです。そのワクワク感、期待感がキリスト者生涯の花なのです。クリスマスを待ち受けるその期待感をもって、再び来たり給う主を待ち望みましょう。
 
お祈りを致します。