礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年12月6日
 
「神の自己放棄」
アドベント第二聖日
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピ人への手紙 2章4-11節
 
 
[中心聖句]
 
  6,7   キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
(ピリピ人への手紙 2章6-7節)


 
聖書テキスト
 
 
4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。6 キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
9 それゆえ、神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
 
はじめに:クリスマスのメッセージ
 
 
今、パリでCOP21が行われています。同時多発テロもサブテーマですが、最大のテーマは地球温暖化です。20年以上も前から温暖化の危機が叫ばれ続けていながら、国々のエゴがぶつかって合意が得られない状況が続いています。今回は、国連加盟のほとんどの国が代表者を送ってきたことが危機感の表れですが、さて、どのような合意がなされるのか祈りつつ見守りたいと思います。ここで問われているのは、国だけでなく、個人のエゴです。自分のライフスタイルは変えないで、他の人と国のそれを変えさせるというむき出しのエゴが問題なのです。

この時期がクリスマスに重なったことはとても意味のあることと思います。なぜかと言いますと、クリスマスこそ、神であるキリストが神のあり方を捨てなさった出来事だったからです。そのことが示されている6節を中心に、クリスマスが私たちに語り掛けるメッセージをくみ取りたいと思います。
 
1.ピリピ2章の背景
 
 
・一致の欠如:
ピリピ2章の背景には、ピリピ教会内の対立がありました。2節でパウロは「一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」と勧めています。3節では更に「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」と自己中心を戒めています。裏を返せば、ピリピ教会に分派闘争があったことを示唆しています。

・指導者の対立:
4章では、名指しで二人の指導者の対立を止めなさいと勧告しています。「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。」(2節)この二人はピリピ教会創立の頃、福音を広める働きの為にパウロに協力した中心的な人物でしたが、教会指導者となってから、対立が芽生えてきました。教会のメンバーは二人の和解に努めるよりも、対立を助長する行動を取りました。パウロは、こうした教会内の対立・不一致を徒に叱るのではなく、キリストの思いがどんなものであったかを彼らに思い出させることによって、問題を氷解しようとしたのです。知恵深いですね。問題に目を留めて、それを掘り起こすことで解決するのは稀です。夫婦関係でも、性格の違いを分析したり、それによって対応を考えることも大切ですが、それだけでは関係が改善できません。それよりも、私達の目を、一旦お互いから離して、キリストに向けることが大切です。
 
2.キリストの思いとは
 
 
・キリストのように考えること:
パウロは、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」と 言っています。「心構え」というと、何となく身構えたようなニュアンスが伝わってきますが、元の言葉はもっと平らです。直訳すると「このことをあなた方の中でも思いなさい。それはキリスト・イエスの中にもあったものです。」となります。キリストの思いが私達の思いとなるようにと言う勧めなのです。キリストの行動というよりも、彼の思いを私たちの思いとするという内側の模倣が期待されているのです。文語訳では、「キリストの心を心とせよ。」です。何と簡潔な言い方でしょうか。

・自己中心から脱却:
デニス・キンロ−博士が「キリストの心で」という本を書かれましたが、彼の論点は、キリストのように思うことこそ「きよめ」なのだ、ということ、そして、私達が持っている生まれながらの性質は、キリストの思いとはかけ離れた自己中心的なもので、それを十字架につけることが聖化が始まりであると言っています。
 
3.受肉における自己放棄(6−7節)
 
 
さて、ここで強調されているキリストの思いとはどんなものだったでしょう。それは、自己放棄です。それが二つのステージで現われます。第一は神が人となり給うたこと、これを受肉と言います。第二は、そのキリストが十字架につけられたことです。第一ステージである6−7節を読みましょう。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」

・「神としてのあり方」の放棄:
キリストは何を捨て、何を留めなさったのでしょうか。「神としてのあり方」を捨てなさいました。キリストが神であるというその「本質」を放棄なさったのではありません。それは不可能なことです。彼が放棄なさったのは、神と「等しくある」という特権と栄光です。神であるとの本質は変わりようがないが、その栄光を捨去りなさったのです。

・さらりと捨てる:
その放棄の姿勢は、敢然と潔く行動なさったことに現れています。6節の「神のあり方を捨てることができないとは考えないで」という言葉は英語では“He did not consider equality with God something to be grasped”となっています。直訳すると、「神と平等であるという立場をしがみつべきものと考えないで」となります。「しがみつくもの」(ギリシャ語のハルパグモスとは、イメージ的には「野生動物が捕まえた獲物」という感じです。私がケニアで飼っていた猫は、普段はおとなしい美人猫ですが、一旦獲物を捕まえると、何が何でも決して放さない頑固な猫に変身しました。主キリストはそれと全く対照的です。神と等しいと言う光栄と特権をさらりと脱ぎ捨てたのです。私達は何かの物を手放せないものと考えがちです。例えば社会的地位、名誉、安定した生活、などなど。それを放せと言われると、反発してしまいます。しかし、より大きな目的の為にそれを手放すべき時もあります。それを喜んで手放した最高の模範がイエス・キリストです。ヘンリ・ナウエンは、ハーバード大学教授という、誰もが羨やむ職をさらりと捨てて、知恵遅れの子供たちと共に生活する施設に入りました。その結果、大学教授では知ることの出来ない、素晴らしい主の恵みを経験しました。

・徹底した自己放棄:
「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・・。」「仕える者」とは字義通りには奴隷のことです。最後の晩餐の折に、奴隷の仕事である洗足をする人がいないときに、主賓席に坐っておられた主イエスは、すっと立ち上がり、タオルとたらいを取って弟子たちの足を洗い始められました。この出来事は正に、仕える姿を取られた主の象徴的出来事です。
 
4.十字架に至るまでの自己放棄(8節)
 
 
「ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

・自己放棄の継続:
キリストの自己放棄は受肉の事実で終わらないで、十字架の死に至るまで続きました。徹底した謙りです。彼はこの自己放棄を、歯を食いしばってなさったのではなく、喜びをもってなさったのです。勿論、主イエスが、笑顔を持って十字架を担いなさったわけではありません。できれば、それを避けて他の救いの道はないかと願いなさいました。これは当然です。しかし、主は、父の御心に従うことを何よりの生き甲斐とされたのです。皆さんのうちに、この道は自分の願いではないが、従わねばという義務感から従っておられる方はないでしょうか。喜んで従った主に倣いたいと思います。

・私たちの救いのために:
キリストの自己放棄は私たちと同じレベルに立つためであり、さらに、私たちを罪の重荷から解放する為でした。屈辱の死以外の何物でもなかった十字架こそが、救いのための唯一の道であることを悟られた主イエスは、十字架にまで従われました。
 
5.自己放棄の結果(9−11節)
 
 
・救いの完成:
「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」これは救い主としてのお名前のことです。

・神の右の座につく栄光:
「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」とあります。これは、何たる栄光、何たる勝利でありましょうか。神の右の座につくと言う栄光でした。主は、それを取引き条件にして我慢して謙ったのではありません。彼の驚くべき栄光はあくまでも結果であり、謙遜の目的ではありません。私達にも義の冠が待っていますが、それを取引き条件にして我慢して謙るのではありません。
 
6.私達へのメッセージ
 
 
主イエスの模範を学ぶ時に、私達はこう言って諦めてしまうことが多いのではないでしょうか。「イエス様は特別なお方だ。彼の謙遜や自己放棄は、本当に素晴らしいものだ。しかし、私は凡人だ。とてもあんな生き方はできっこない。理想像としてのイエス様は素晴らしいが、それを自分に当てはめるなんて出来ない芸当だ。」しかし、パウロは、人間のそんな弱さを百も承知で、キリストの思いを自分の思いとしなさいと挑戦しているのです。それは主の恵みによって可能です。さて、主の模範から、三つのメッセージを汲み取りたいと思います。

・今のライフスタイルに固執しない:
このイエスの私達に語るメッセージは、私達が今持っているライフスタイルに固執しないということです。それをいきなり全否定しなさいという意味ではありません。主が命じなさった時には、それがどんなに自分にとって大切なものであったとしても、それをさらりと捨てる心の準備を言い表すことが大切です。近代人は、シャワーのない生活は耐えられないと思います。ですから不便な場所での宣教師生活には人気がありません。しかし、主のみ心ならばすベての便利ささえも喜んで捨てる用意はあるでしょうか。イエス様でさえも神との等しい位置に固執されなかったとすれば、まして私達が何物かに固執する事があるでしょうか。

・他の利益を優先:
3−4節でパウロは「謙遜をもって互いを勝れたものと思い、更に、他の人の利益を先に考えなさい」と勧めます。この部分の直訳は、「自分のことではなく、他人のことを顧みなさい」なのです。聖書は、私達に不可能なことをしなさいと求めているのでしょうか。しかし、それを実践なさった主が、私たちのそばにあってそれを可能にしてくださいます。

・キリストと共に十字架に(ガラテヤ2:20):
この自己放棄は、キリストと共に自己に死んだという明確な信仰告白とそれに伴う聖めの経験によってのみ可能です。「イエス様、私はあなたと共に自分自身を十字架につけます。自分は死にました。生きているのはキリストご自身です。あなたを信じ、より頼むことで、私は本当の意味で生きています。」とどこかで決断し、告白し、その信仰に立ち続けましょう。
 
お祈りを致します。