礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年12月20日
 
「王として生まれた方」
聖誕節に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
マタイの福音書 2章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  2   ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。
(マタイの福音書 2章2節)


 
聖書テキスト
 
 
1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同さまであった。4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
 
はじめに:不思議な名称
 
 
先日のニュースで、イギリスのウィリアム王子とキャサリン王女との間に生まれたシャーロットちゃんの写真が公表されました。本当に愛くるしい、かわいい赤ちゃんです。そのお兄さんの、ジョージ君が王位継承権を持っているようなのですが、彼は、「イギリスの王(たるべき赤ちゃん)」として誕生しました。それと同じような意味で、「ユダヤ人の王として生まれた」方がイエス様だったのでしょうか。
 
1.「ユダヤ人の王」は期待されていた
 
 
・博士たちの探求と期待:
東の方(ペルシャ地方と思われます)からイエスさまを拝みに来た博士たちは、「ユダヤ人の王として生まれた」方を尋ねてやって来ました。どうしてイエスさまは「日本人の王」ではないのか、「アメリカ人の王」ではないのか、と言わないで下さい。「ユダヤ人の王」という言い方は、一つのテクニカルタームでありまして、ユダヤ人の中から救い主(メシヤ)が起こるという旧約聖書の予言に基づいているからなのです。メシヤ予言の中でも、特に民数記の予言が東の博士たちを動かしたものと考えられます。「ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こる」(民数記24:17)と言うのがそれです。この予言から次のような伝説が生まれました。「神の子がイスラエルに生まれる。その子に世界の多くの人々が従う。その現れの印は不思議な星だ。その星はあなたを彼のいる場所へと導く。その星を見たら、黄金、乳香、没薬を携えて彼の所に行き、彼を礼拝し、そして帰って来なさい。」ですから、博士たちが、黄金、乳香、没薬をもって、この新しく生まれた王さまを拝みに来たわけです。黄金、乳香、没薬については、後で説明します。

・幼子の王様?:
小さな赤ちゃんであるイエスさまが王さまである、というのは不思議なことです。でも、このことは、イザヤという、イエスさまが生まれる7百年も前に生きていた預言者によって予言されていました。こう書かれています:

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は
『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
その王国を治め、正義によってこれを堅く立てる。」
(イザヤ9:6)

メシヤ(救い主)がおさなごとして現われること、そのおさなごの王さまが私達に平和な世界を与えることを予言しているのです。イザヤが住んでいたのは、戦争によって自分の国がめちゃくちゃになった暗い時代でした。そんな時、イザヤは、戦争は終わる、平和が支配する時代が来ると預言したのです。その平和は、幼子の誕生と支配によって実現します。幼子は、神が強力な武力によってではなく、平和の理念によって世界を治めなさるという平和主義のシンボルです。(おさなご王の下で)狼と子羊、豹と子やぎ、子牛と若獅子、雌牛と熊、乳飲み子とコブラ・・・が仲良くくらす:そのイザヤは「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。」(イザヤ11:8)とも言っています。子供の無邪気さ、無害性がコブラやまむしをも友達とする平和な国の光景が描かれています。メシヤは、強い力をもって国を治めるのではなく、平和な性格をもって国を治められます。絶対に仲が良くない動物たち、狼と子羊、豹は子やぎ、子牛と若獅子、雌牛と熊、乳飲み子とコブラ、乳離れした子とまむしの子が仲良く暮らすのです。その真ん中に、純粋な幼子が王さまとして支配するというのです。
 
2.「ユダヤ人の王」を尋ねる旅
 
 
・星の発見:
毎夜々々星を観察していた博士たちは、ある晩、特別に光り輝く新星を発見しました。そして、これこそ、聖書にしるされているメシヤの誕生を告げる干しに違いないと確信しました

・博士たちの旅支度:
博士たちはすぐに旅の支度をしました。恐らく持っている財産のほとんどを売り払ってお金に換え、それで駱駝、旅の必要品そして、王様に相応しい贈り物を買いました。

・博士たちの旅:
博士たちがペルシャにいたとすると、そこからユダヤまでは2千キロ近い旅です。一か月以上はかかる長い旅、そして、強盗や病気や怪我などの危険の伴う長い旅です。その犠牲をも惜しまずに、王様を拝むために彼らははるばるやって来ました。それも、明確な目的地、つまり、エルサレムの何処につけば幼子に会えるか、確かな情報も何もない旅でしたが、それを物ともせず、星を頼りに旅をつづけたのでした。これは信仰がなければできない芸当です。
 
3.「ユダヤ人の王」を拝む
 
 
・ヘロデ王に謁見:
ヘロデ大王に謁見し、祭司長・学者たちから、誕生地がベツレヘムであることを突き止めた博士たちは、すぐにベツレヘムに向かいました。星が導いたと記されていますから、この星はいわゆる惑星や恒星とは異なる、人工衛星のような星だったかもしれません。

・幼子の救い主を発見:
星に導かれてベツレヘムの一軒家(と私は思います。馬小屋からはもう離れていたと思われますから)に導かれた博士たちは、マリヤに抱かれた幼子イエスを発見します。彼らは、何の変哲もない普通の赤ちゃんであるイエスをメシヤと認め、礼拝を捧げます。

・宝物は象徴的:
そこで、彼らは用意してきた宝物の箱を丁寧に開けて、幼子イエスに捧げます。その宝物は三つでした。それぞれの思いを込めてのものです。
@「黄金」:
黄金は昔から最も価値高い金属でした。産出量が少ないこと、錆びないこと、独特の光沢があることがその理由でした。特に王さまに関する器具、装身具として用いられましたので、キリストを王として認めるのに相応しい贈り物でした。これは、王さまとして生まれる方への尊敬を表します。
A「乳香」:
その文字が示すように、乳頭に似た物体で、良い香りのするものです。乳香は、オリーブのような木の幹を傷つけて出てくる液体を固めたもので乳白色の半透明な樹脂です。それを焚くと物凄く良い匂いがする香料です。エジプトでは神に捧げる薫香として使われ、王にしか使用が許されていませんでした。ですから、乳香も、この王さまへの贈り物に相応しいものでした。
B「没薬」:
没薬も、その漢字が示しますように、人間の死後との関係が深い物体です。植物の汁から採った液体で、色々な病気を治したり、ばい菌を殺す薬として用いられていました。古代エジプトではミイラ作りのために欠かせない薬品で、胃薬、うがい薬、皮膚薬、麻酔薬、化粧品としても用いられていました。この王さまが人々の傷を癒すお仕事をすることの象徴でした。

・王として礼拝する:
宝物を捧げた博士たちは「ひれ伏して拝み」ました。この礼拝する(プロスキュネオー)という言葉はプロス(前に)キュオーン(犬)と言う言葉の合成語です。犬が主人の前に「伏せ」をするように彼らの顔を地に付けてひれ伏したのです。彼らは、理屈抜きで靴を脱ぎ、帽子を取り、額も、手も、胸も、足も、皆触れられる所は全部床に触れて礼拝しました。外見は全く普通の子供と変わらない幼子イエスに対して、何もかも打ち捨てて謙りをもって礼拝したのです。博士達はこの黄金、乳香、没薬を捧げたとき、自分自身を救い主に捧げました。
 
終わりに:イエスさまに全てをささげよう
 
 
神が求めておられる礼拝は、単なる儀式や集会としての礼拝ではなく、心を捧げることです。この博士達が幼子イエスに捧げた礼拝は、本当の礼拝のあり方を私達に示すものです。私達も礼拝において、「王の王、主の主」の前に出ています。礼拝の時には献金が捧げられますが、私達の神への貢ぎ物、私達の全身を捧げる象徴なのです。このような礼拝をささげた博士達は、喜びと満足をもって、この地を去りました。礼拝の前にも、「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」と記されていますから、礼拝を終えた博士たちの喜びはもっと大きなものだったことでしょう。私達も礼拝の営みを終えたとき、今日も主に出会った、主に自らをおささげしたと言う喜びと満足を持って立ち上がることができるのです。主を賛美しましょう。
 
お祈りを致します。