礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2015年12月27日
 
「神の憐れみが示される」
年末感謝礼拝に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
ネヘミヤ記 9章9-21節
 
 
[中心聖句]
 
  21   四十年の間、あなたは彼らを荒野で養われたので、彼らは何も不足することなく、彼らの着物もすり切れず、足もはれませんでした。
(ネヘミヤ記 9章21節)


 
聖書テキスト
 
 
9 あなたはエジプトで私たちの先祖が受けた悩みを見、また、葦の海のほとりでの彼らの叫びを聞かれました。10 あなたは、パロとそのすべての家臣、その国のすべての民に対して、しるしと不思議を行なわれました。これは、彼らが私たちの先祖に対して、かってなことをしていたのをあなたが知られたからです。こうして、今日あるとおり、あなたは名をあげられました。11 あなたが彼らの前で海を分けたので、彼らは海の中のかわいた地を通って行きました。しかし、あなたは、奔流に石を投げ込むように、彼らの追っ手を海の深みに投げ込まれました。12 昼間は雲の柱によって彼らを導き、夜は火の柱によって彼らにその行くべき道を照らされました。13 あなたはシナイ山の上に下り、天から彼らと語り、正しい定めと、まことの律法、良きおきてと命令を彼らにお与えになりました。14 あなたの聖なる安息を彼らに教え、あなたのしもべモーセを通して、命令とおきてと律法を彼らに命じられました。15 彼らが飢えたときには、天からパンを彼らに与え、彼らが渇いたときには、岩から水を出し、こうして、彼らに与えると誓われたその地を所有するために進んで行くよう彼らに命じられました。
16 しかし、彼ら、すなわち私たちの先祖は、かってにふるまい、うなじをこわくし、あなたの命令に聞き従いませんでした。17a 彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行なわれた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりのかしらを立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました。
17b それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。18 彼らが自分たちのために、一つの鋳物の子牛を造り、『これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神だ。』と言って、ひどい侮辱を加えたときでさえ、19 あなたは、大きなあわれみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。昼間は雲の柱が彼らから離れないで、道中、彼らを導き、夜には火の柱が彼らの行くべき道を照らしました。20 あなたは、彼らに悟らせようと、あなたのいつくしみ深い霊を賜わり、彼らの口からあなたのマナを絶やさず、彼らが渇いたときには、彼らに水を与えられました。21 四十年の間、あなたは彼らを荒野で養われたので、彼らは何も不足することなく、彼らの着物もすり切れず、足もはれませんでした。」
 
はじめに:年の終わりに考えること
 
 
・2015年を振り返る:
事が多かった2015年も、一週間足らずで終わろうとしています。様々な感想が皆さんの心をよぎっておられることと思いますが、私の心を支配しているのは、神の憐みという思想です。今私たちがここに居られるのは、実に神の憐みによると心から頷かされます。

・出エジプトを回顧する:
出エジプトを回顧している記事は、当事者であるモーセを始め、詩篇の作者その他に記されています。出エジプトは、イスラエル宗教の原点だからです。

・ネヘミヤの祈りの中でも:
多くの回顧の記事の中でも、捕囚から帰還したネヘミヤの祈りは、出エジプトにおける「神の憐れみ」を強調している点が特徴的でしたので、これを取り上げます。ネヘミヤ9章は、ネヘミヤの祈りです。エルサレム城壁再建一ヶ月後、ネヘミヤとイスラエルの民は、出エジプトの出来事を思い出すための仮庵祭を祝いました。その時に彼らは神の御業の素晴らしさに感動し、それに対比して、先祖達が犯した罪の数々を深く思い巡らしました。その思い巡らしを祈りの形にしたのが9章です。ここでネヘミヤは、神の憐れみが4つの形で示されたことを述べています。
 
1.大いなる奇跡に示される憐れみ
 
 
・イスラエルの叫びと悩み:
出エジプトの前に行われた数々の奇跡と出エジプト後の紅海の渡捗の奇跡が回顧されます。それは、神がエジプトでイスラエルの民が受けた悩みを見、また、葦の海のほとりでの彼らの叫びを聞かれからだ、と理由が示されています。神は私たちの叫びを聞き、悩みを見て、憐れんでくださるお方です。

・出エジプトを可能にした奇跡:
続くことばは、叫びを聞き、悩みを見給う神の応答です。「パロとそのすべての家臣、その国のすべての民に対して、しるしと不思議を行なわれました。・・・あなたが彼らの前で海を分けたので、彼らは海の中のかわいた地を通って行きました。しかし、あなたは、奔流に石を投げ込むように、彼らの追っ手を海の深みに投げ込まれました。」神は大きな奇跡をもって出エジブトの業を成し遂げてくださいました。

・今年の私たちの歩みにも・・・:
今年を回顧して、主が成し遂げてくださった一つ一つの出来事のゆえに共に感謝を捧げたいと思います。特に教会としては、教団創立70周年・全国青年大会などで大きな勝利を与えられました。JHA発足30周年記念大会が中目黒教会で行われたことも画期的でした。この二つの行事については、その過程において難しい課題が数多くありました。しかし、主は、それら一つ一つを見事に解決してくださいました。そこに示された主の憐みのゆえに共に感謝を捧げましょう。
 
2.絶えざる供給と導きに示される憐み
 
 
・困難と試練を許しなさる神(申命記8:2−3):
「昼間は雲の柱によって彼らを導き、夜は火の柱によって彼らにその行くべき道を照らされました。あなたはシナイ山の上に下り、天から彼らと語り、正しい定めと、まことの律法、良きおきてと命令を彼らにお与えになりました。あなたの聖なる安息を彼らに教え、あなたのしもべモーセを通して、命令とおきてと律法を彼らに命じられました。彼らが飢えたときには、天からパンを彼らに与え、彼らが渇いたときには、岩から水を出し、こうして、彼らに与えると誓われたその地を所有するために進んで行くよう彼らに命じられました。」(12−15節)と神の供給を感謝しています。興味深いことに、この供給のいきさつについて、モーセは申命記8章で意味深いコメントを行っています。開きましょう。「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」(8:2−3)ここで神は、わざと民を困難な状況に置き、奇跡的な供給を与えることで、民が神に頼るようにされたと記されています。表面からだけ見ると、神は意地悪にも映ります。でも、実質は、私たちが真に神に頼るように導く大きな憐みの故なのです。

・マナと水の供給:
神はイスラエルの食糧危機を「わざと」与え、マナを降らせなさいました。水の危機を許し、岩から水を湧き出させなさいました。

・雲と火の柱による導き:
さらに、荒野で道に迷った民を、雲の柱・火の柱をもって導き、基準なき民に律法による教えをもって導かれました。

・私たちも・・・:
この年を振り返って、欠乏の時があり、病の時があり、人間関係での悩みがあり、選択について迷ったことがあったり、精神的に肉体的に落ち込むことがどれだけあったことでしょう。しかし、そのたびに主は必要を満たし、正しい導きをくださいました。感謝しましょう。
 
3.罪の赦しに示される憐れみ
 
 
・神の助けにも拘わらず不服従だった民:
こんなに主の恵みが注がれているにも拘らず、イスラエルの人々は、心から神に従おうとはしませんでした。「しかし、彼ら、すなわち私たちの先祖は、かってにふるまい、うなじをこわくし、あなたの命令に聞き従いませんでした。彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行なわれた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりのかしらを立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました。」(16節―17節a)何という我がまま、何という恩知らずでありましょうか。私たちも、自分がどのようなところから救い出されたかという原点を忘れると、彼らのような勝手な言い分を主の前に並べ立ててしまいます。

・民と反逆と不服従をも忍耐し給う憐み:
しかし、次の言葉が驚きです。「それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。18 彼らが自分たちのために、一つの鋳物の子牛を造り、『これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神だ。』と言って、ひどい侮辱を加えたときでさえ、19 あなたは、大きなあわれみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。昼間は雲の柱が彼らから離れないで、道中、彼らを導き、夜には火の柱が彼らの行くべき道を照らしました。」9章の長い告白の祈りを見ると、「しかし」とか「にも拘らず」がしばしば登場します。26節の「しかし」は神の恵みにも拘らずの「しかし」です。「彼らは反抗的で・・・」(28節)の「しかし」は、「ひと息つくと、彼らはまた、あなたの前に悪事を行ないました。」です。 30節の「それでも」は神の忍耐です。「あなたは何年も彼らを忍び・・」 31節の「しかし」は、神の憐れみの「しかし」です。「あなたは大いなるあわれみをかけて・・・」一言で言いますならば、イスラエルの度重なる反逆にも拘らず、神は大いなる憐れみをもって彼らを扱いなさいました。どんなに背く子であっても、親は大いなる忍耐と愛と憐れみをもって、その子の回復を待ちます。それと同じように、いやそれ以上に、神の憐れみの懐は広いのです。

・その憐れみは「尋常ではない」ことを覚えよう:
実際の物語を出エジプト32−34章で読みますと、物事はそう単純には進まなかったことが分かります。神は、「金の子牛」事件におけるイスラエルの反逆を黙って見過ごして赦しなさった訳ではありません。「こんな反逆的な民は一度滅ぼして、モーセによって新しい民族を起こし、再出発する」と語られました。モーセの執り成しによって、滅ぼす計画は中止なさったものの、「この民とは一緒に行かない。使いを遣わす。私が一緒にいれば、怒ってしまうから。」とまで語られたのです。再度モーセの祈りと執り成しによって、一緒に行くことを約束されました。つまり、主が私たちを限りなく赦し、受け入れてくださると言うことは、正義の要求を棚に上げて無原則に見逃すことではなく、ご自分の大きな痛みを乗り越えてのものであることを知らなければなりません。出エジプトから千年近く経って起きた捕囚という出来事も神の厳しさの表れです。同時に、彼らが滅ぼしつくされなかった(31節)のは、神の憐れみのゆえです。

・私たちの今年の歩みにおいても・・・:
私たちも、神の恵みを受けるには相応しくない人間であるにもかかわらず、主は憐れんでくださいました。今年の歩みを振り返りつつ、何の反省点もなく終える方は少ないと思います。それどころか、重ね重ね不服従であり、反抗的であり、自分勝手でありましたにも拘わらず、主は忍耐をもって、寛容をもって私たちを扱ってくださいました。神の憐れみの懐の大きさを感謝しましょう。反抗的な私たちを主は見捨てずに愛し、導き、守り、満たしていてくださいます。この神の大きさに私は圧倒される思いです。しかし、この神の寛容と忍耐に甘えて、罪と不服従に留まることがないようにいたしましょう。パウロは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)と言いながら、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ6:1−2)と言って、信仰者が罪の中に生きることを否定しています。そして、罪に勝たせ給う主イエスの救いを信じて罪に勝つ生涯を歩もうと語ります。主の救いの御業を信じましょう。
 
4.目立たない奇跡に示された憐れみ
 
 
・すり切れなかった着物、壊れなかった靴、腫れなかった足:
私は、特に21節が好きです。40年間擦り切れなかった着物、40年間ほころびなかった靴(申命記29:5)、40年間腫れなかった足、どれ一つとっても奇跡です。奇跡には、目立つものと目立たないものとがありますが、これらは当然後者です。目立つ奇跡は、紅海の渡捗とか、マナの賦与とか、岩から湧き出た水です。これと分かるような華々しい、ドラマになるような奇跡です。それに比べると、着物が擦り切れないとか、靴が壊れないとか、足が腫れないと言うような奇跡は、後から振り返って「なるほど考えてみればそうだったなあ」と気がつく程度のものです。

・気づく人は少なかったが、一番ありがたい奇跡:
でも実際的に考えると、この方が余程「助かる」奇跡です。考えても見てください。私の靴は2、3年で磨り減ってしまい、新しいゴム底を貼り付けて履いていますが、そのゴム底も磨り減ってしまいました。つまり、私たちはしょっちゅう靴を取り替える生活を送っています。ところが、イスラエルの人々は、40年荒野をあちこち歩きながら、磨り減るはずの靴が磨り減らない、岩に叩きつけて洗濯をして擦り切れるはずの着物が擦り切れない、足が浮腫んで靴が履けなくなったこと一つもなかったことを最後の段階で気がついたのです。

・平凡な営みにも神の憐れみが示されている:
私たちの人生でも、このような経験を多くしているように思います。24時間心臓が休まず動き続けている、という事実をそれほど強く意識してはいませんが、これは驚くべき奇跡です。当たり前と思っていることをそのまま見過ごしてはなりません。毎日毎日が奇跡の連続です。感謝しましょう。
 
おわりに:感謝と献身の塚を建てよう
 
 
ネヘミヤ時代のイスラエルは、この神の恵みを味わいつつ、しっかりと契約を立てて、主に従う決意を新にしました(38節)。私たちも、ここで主に誓いを立て、主に従う歩みを進めましょう。
 
お祈りを致します。