礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年1月10日
 
「すべてを生かす恵み」
教会総会に備えて
 
竿代 照夫 牧師
 
エゼキエル書 47章1-12節
 
 
[中心聖句]
 
  9   この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。
(エゼキエル書 47章9節)


 
聖書テキスト
 
 
1 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。2 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。6 彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。
 
はじめに
 
 
・2016年の課題:
2016年が始まり、第二聖日を迎えました。再来週の聖日には教会総会を迎えます。日本全体を眺めますと、今年は、第6回日本伝道会議が開かれる年でもあります。何よりも、日本の諸教会が、あらゆる面で活性化されるように祈りたいと思います。

・聖霊による活性化:
活性化とは、人間の努力や工夫で何かを活かすという意味ではなく、聖霊のお働きによって個人、教会、が活かされ、成長することです。そのためには、私たちの側でなすべきことが二つあります。第一は、(消極的ですが)私達が聖霊の自由なお働きを止めてしまうような言葉や行動をしないことです。私達の小さな不服従、不信仰、愛のない言葉や行動が聖霊を憂えしめ、そのお働きを止めてしまいます。第二は、(積極的に)聖霊のお働きに参画することです。主の導きを感じましたら、前例に囚われず、反対や批判を恐れず、失敗すらも恐れず、試みてみるという勇気を持たねばなりません。

・エゼキエルの幻:
そのような思い巡らしのうちに、御言葉として与えられたのがエゼキエル47:9です。「この川が流れていく所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」アダム・クラークはこの川とは「福音の恵みが世に及ぼす影響の大きさを示す絵」であると言います。さて、川についての観察の前に、エゼキエルの時代背景を概観したいと思います。
 
A.エゼキエル:希望の預言者
 
1.エゼキエル時代の課題:イスラエルの滅亡と捕囚
 
 
この預言を行ったエゼキエルが生きていた紀元前6世紀には、バビロン帝国が中東世界を支配していました。小国であるユダもバビロンによって滅ぼされ、捕囚というイスラエルにとって未曾有の苦しみを経験しました。
 
2.エゼキエルの預言:審判と希望
 
 
1)審判の預言:
バビロン捕囚は何回かに亘って行われたのですが、その第二回(597年)に、エゼキエルは、多くの国民と共にバビロンに連れて行かれました。3年後、彼はバビロンのユダヤ人入植地で預言を始めました。最初の預言は専ら裁きのメッセージでした。バビロン捕囚という民族的裁きを受けながらも、その意味を理解しないで、「神は私達の国とその都エルサレムを守られる」という根拠のない期待を持っていた同胞に対して、「そんなことはない。神はイスラエルとエルサレムをその罪の故に、徹底的に滅ぼされる。」と語ったのです。それが前半の1章から32章です。

2)希望の預言:
33章から預言の内容ががらりと変わって、希望と慰めに満ちた調子になります。そのきっかけは、エルサレムの最終的な陥落・破壊(586年)です。これにより同胞の淡い期待が砕かれ、絶望のどん底に突き落とされました。預言者とは不思議なもので、一般人と反対の事を見、語ります。エゼキエルは、「絶望するな。神はその民をもう一度回復させなさる。」と預言を始めました。その流れにあるのが40−48章で、そこでは回復された神殿を中心にしたイスラエル全体の祝福が預言されています。その幻が与えられたのは、エルサレム破壊後14年目、つまり、572年です。
 
3.預言者の見る現実:「死海のように」絶望的
 
 
その神殿の幻のクライマックスが、47章、神殿の敷居から出た水が大きな流れとなって、流域、特に死海の一帯を活かすという幻です。エゼキエルは、彼の住んでいた世界とは、死海のような、命のない、絶望的な状況であると見ていました。
 
B.不思議な川
 
 
さて、エゼキエル見た川に戻ります。実に不思議な川です。
 
1.増して行く豊かさ(3−5節)
 
 
「3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。」
 
その水量が不思議なように増して行く姿が何とも印象的です。神殿の敷居にぽたぽたと垂れていたごく少量の水が川となり、その川が一千キュビト(約四百メートル)計る度にその水量を増し、二キロも行かない内にもう歩いては渡れない程の大河となるというものです。目黒川は、1キロ歩いても殆ど水量は変わりませんが、この川の増加スピードは以上です。これは神の恵みの業が拡大し、成長するという真理を示しています。
 
2.生かす命(7−11節)
 
 
「7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。8 彼は私に言った。『この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。』」
 
その川はエルサレムの神殿から東の方角へと流れ、アラバに下っていきます。エルサレムと死海の間の地域は砂漠のような不毛地帯です(地図参照)。「アラバ」とは荒野という意味で、アラブの語源となった言葉です。そして、「海」(死海)に入ります。現在でもそうですが、死海とは文字通り死の海です。その水面の海抜は、マイナス3百メートルと地球上で一番低い場所です。この辺から紅海、そしてエチオピア、ケニア、マラウィと地球の裂け目と呼ばれる大地溝帯(グレイトリフトバレー)が走っていて、今でも毎年僅かずつ裂け目が拡がっています。150万年後に、この地帯は深い海になっているだろうと言われています。さて、地球の裂け目の一番底にある死海は、水が外に流れ出ませんから、塩分が溜まる一方で、当然生物は育たず、正に死の海です。

エゼキエルの幻の不思議さは、その死の海にフレッシュな水が流れ込み、その流域に生命を齎すと言う点です。川の両岸の木々は青々と繁り、月々実を実らせます。その川の中には多くの種類の魚が生息し、多くの漁師がその生計を立てる程でした。エンゲディとは、死海の西岸の荒れ地です。ダビデが昔、その周辺の洞穴に身を隠した場所でもあります。そこが、漁業の盛んな場所になると言うのです。エン・エグライムというのは、多分死海の北西岸であろうと思われます。

「この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」というのは、何とも象徴的ではないでしょうか。聖霊を与えられたキリスト者達が、行くところ何処でも人々を活かし、癒し、実を実らせる、つまり、祝福の器となることが約束されています。素晴らしいことではありませんか。主を信じる者が存在し、活躍する所どこでも、フレッシュな空気が流れ込み、他の人を活かし、癒し、実を実らせるというのです。他の人を薙ぎすのではなく、エンカレッジャーとなるのです。

宣教師時代の思い出の一つは、ジーン・セーガーという宣教師との出会いです。この人が存在するだけで、まわりが太陽を得たように暖かくなる不思議な人でした。私達5人家族と一緒に大雨の中、テヌウェク病院に向かって、どろどろの道を悪戦苦闘しながらスバル4輪駆動で旅したときのことです。ハンドルをあちこちに取られ、泥にはまっては立ち往生して、押すという何とも惨めな思いでありましたとき、セーガーさんは歌を歌っていました。ひとつも緊張せず、助けてもくれませんでしたが、エブリー・ワンインチ、プレイズ・ザロードと賛美していました。私達はどんなに大きく励まされたことでしょう。
 
3.結実をもたらす力(12節)
 
 
「12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」
 
この水は、周りのものを活かすだけではなく、豊かな実を結ばせます。この言葉は詩篇1篇を思い出させます。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇 1:3)この結実は時々ではなく、継続的です。努力の結果絞り出すような結実ではなく、ごく自然な形で、迸る命が次の命を再生産していくダイナミックなものです。私達は魂の救いを祈り、求めています。それも、鉢巻きを締めて、竹槍をもって必死の形相で戦う伝道と言うよりも、私達の豊かさが溢れ出て、次の命を生み出していくような再生産的な伝道の結実です。私達が命の水に溢れるとき、主は、そのみ業を顕わして下さることでしょう。
 
C.その力の秘訣
 
 
エゼキエルはその様な不思議な川の秘訣を短い言葉で言い表しています。「その水が聖所から流れ出ているからである。」と。
 
1.聖所から流れているから
 
 
聖所とは文字どおり聖なる場所です。どんなに素晴しく見える働きがなされたとしても、その奉仕者達の心が清められておりませんと、その運動は曲がってしまいます。残念ながら教会史はこうした宗教運動の実例を多く示しています。ジョン・ウェスレーから始まったメソジスト運動が、その運動の結果として勤勉に働く人々を生み出したまでは良かったのですが、その結果として貧しい人々が豊かになり、さらにその結果としてその富が世俗化を齎してしまったのです。悲しいことです。

聖所とは神に犠牲が捧げられ、民がそれを通して神に近づき、神が民に会って下さる場所です。贖いがその中心です。贖い中心ということは、私達人間が神の前に徹底的に無力であり、罪深い存在であり、滅ぶべき存在であることを認めること、そして、キリストの中に完全な赦し、きよめ、導き、供給、励ましがあるという事実を100%認めつつ日々を歩むことです。毎日のデボーションの中心は、自らを贖われたものと確認することから始まるのです。初代総理は、「朝毎に主の前に」の中で、朝の祈りの焦点は、「どこまでも、贖罪の事実に立脚した魂の営みでなければなりません。」と語っておられます。
 
2.聖霊に満たされること
 
 
さて、エゼキエルが見た幻というのは、単なる麗しい絵なのでしょうか。そうではありません。主イエスは、この幻は聖霊の満たしによって現実化するのだと仰いました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。)」(ヨハネ7:37−39)と。「聖書が言っているとおりに」という聖書とは、エゼキエルの預言をも含んでいます。主イエスはここで、聖霊の満たしが鍵だと仰っておられます。キリストが上げられなかったので聖霊が誰にも与えられていなかったというのは、キリストの贖いがなされる前でしたから、その自由な力を発揮して頂くような意味においては注がれていなかったという意味です。

現実のクリスチャン生活において、聖霊を頂いていても、(つまりキリストを心に受け入れていても)満たされていない状態というものはあり得ます。コリントのクリスチャンについてパウロは、御霊を頂いた信仰者ではあるけれどもそれと反する「肉的な心」が残っていて霊的な働きを妨げている、と指摘しています。一方に於いては聖霊による新しい性質を持ち、それに従って歩もうとしながら、他方に於いて自己中心的なスピリットが働いて、聖霊の自由なみ業を妨げてしまうのです。教会生活の中でも、自分の名誉、地位が大切と固執する気持ちが働く余地があります。聖霊はそんな自己中心をどんなに憂いなさることでしょうか。その自己中心を、キリストと共にしっかりと十字架につけましょう。メーベル・フランシス宣教師は、日本に来て暫く後に、あることで根も葉もない噂を立てられ、大きな試みを受けました。弁解したい気持ちとの戦いの中で、自我を十字架につけることを示されました。しかし、肝心の死ぬ方法がわかりません。「死ぬ方法を教えてください」と切なる思いで叫びました。そのとき、自我が頭をもたげたなら、一切これに弁解せず、すぐさま主に持っていくこと、告白することを教えられ、実行しました。彼女は全き自由を与えられ、その後も、その態度を持続し続けたと証しています。自我の死、そこに聖霊の自由な働きの始まりがあります。
 
おわりに:御霊の満たしを求めよう
 
 
この年、新たな意味で聖霊に満たして頂き、そのご自由なお働きをこの身を通して期待しようではありませんか。御霊の恵が溢れ、溢れ出るようなみ業を見ようではありませんか。自己中心の塊が、聖霊の自由なお働きを妨げてはいないでしょうか。それを単純にささげ、十字架につけて、聖霊に自由に心を支配していただく関係を築きましょう。すべてが枯れきった社会、ギスギスした人間関係によって傷ついてしまっている社会という現実があります。それを単に嘆くのではなく、批判するのでもなく、私自身が恵みの器となって活ける水を注ぎ出しましょう。そこにこそ、教会と社会の活性化の鍵があります。
 
お祈りを致します。