礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年1月24日
 
「網は破れなかった」
教会総会に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの福音書 21章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  11   シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
(ヨハネの福音書 21章11節)


 
聖書テキスト
 
 
1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
 
はじめに:第68次教会総会の意義=宣教協力
 
 
第68次教会総会の朝を迎えました。第68次ということは、1948年4月に発足した群れとして68年を経過したことになります。既に天に帰られた多くの先輩方のご苦労があり、そのバトンを受け継いだものとして私たちの現在があることを覚えますと、厳粛な思いにさせられます。

2016年は、日本の教会全体にとって第六回伝道会議の年として覚えられることでしょう。会議に向けて、また会議の後に、より一層宣教協力が進むことでしょう。それらのことを考えつつ、今年の年頭礼拝では、「深みに漕ぎ出して、網を下せ」と、宣教を魚取りに譬えたメッセージを語らせていただきました。今日は同じような魚取りの記事から、「網は破れなかった」との題で、宣教協力のメッセージを汲み取りたいと思います。
 
A.大漁の物語
 
 
1.主イエス復活後、数日経過:ガリラヤ湖での漁
 
 
イエスの復活から(多分)2、3週間後のある日、弟子たちはエルサレムからガリラヤに帰りました。これからどうやって生きていこうか、いろいろ話し合っていました。その時ペテロが提案しました、「こんなところでくすぶっていないで、魚でも取りに行こうや。」ヤコブがすかさず言いました「うん、行こう。」トマス、ナタナエル、ヨハネ、そしてその他の二人(多分アンデレとピリポ)が口々に「行こう」「僕も」という具合に、賛成者が7人になってしまいました。
 
2.一晩中の働きにも拘わらず全くの不漁
 
 
ペテロにとって網を下ろすのは3年ぶりです。それでも、若いときから鍛えられた勘は鈍っていないつもりです。「オーイ、みんな用意はいいか。行くぞーっ。」網をそろそろっとおろしました。しばらくして、もう何かかかっただろう、とおもうころ、「一、二の三」で引き上げました。期待に満ちた14の眼、でも何もひっかかりません。場所が悪かったかも、何ていいながらもう一回トライしました。今度もだめ。一体どうしたんだろう、ペテロはあせりました。こんどこそ、「一、二の三」。上がってきたのは草とかゴミばかり。また場所を変えてトライ、でも失敗。もうやめよう、と言い出すお弟子もいましたが、ペテロは諦めません。夜通し何度も何度も何度も網をおろしましたが、小さな鮒一匹もかかってきません。
 
3.見知らぬ男が岸に:「舟の右側に網を下ろせ」
 
 
くたびれきった弟子たちの背中が少し明るくなってきました。もう朝が近づいてきたのです。「やっぱり、今晩はだめだったねー。」「あきらめて、帰ろう」舟を岸に近づけると、朝日を浴びて一人の男の人が岸に立っているのが見えました。その男が何か叫んでいます、「こどもたちー。獲物はどう?」(「食べる物がありませんね。」とはちょっと直訳過ぎます。この言葉はプロスファギオンで、プロス=傍らで、ファゴー=食べる、と言う合成語です。パンと一緒に食べるもの、つまり、おかずです。ここではパンと一緒に食べる魚を指していました。ですから、、「魚は捕れましたか?」の方が遙かに意味が通ります。弟子の一人が答えました、「さっぱりだめでサー。昨日は夜通し網を下ろしたんですがね、鮒一匹とれませんでした。がっかりです。」その男の人は言いました、「舟の右側に網を下ろして御覧なさい。」「網ってものは舟の左に下ろすのが常識なのにね。あの人何にも知らないんだ。」「まあ、騙されたと思ってやってみよう。ダメモトって言葉もあるじゃないか。」「よし、やってみるか。」「やや。」「どうしたんだ。」「網に手ごたえがあるぞ。しっかりひきあげろ。」「ウワー、こりゃ大変だ。魚がいっぱいで、網が裂けそうだ。ゆっくり、気をつけて網を引っ張れよ。」「分かった。一、二の三っ」と。
 
4.主イエスと分り、ペテロは岸辺へ
 
 
「まてよ。あの人は、あの人は、・・・イエス様だ。」ヨハネが言いました。「そうだ。三年前にもこんなことが起きたね。あれはイエス様だ。間違いない。」と他の弟子。「えっ、イエス様だって。ヨーシ、わしは先にいくぞー。」「でも、ペテロ、あんた裸のまんまでイエス様のところに出られるのかい?」「おー、しまった。じゃあ上着を着て飛び込むぞ。」ペテロは上着を引っ被ると、バシャンと飛び込みました。舟から岸までは大体100メートル、ペテロは上着を着たまま泳いでいますから、ちょっと時間がかかりましたが、必死に泳ぎ切りました。
 
5.朝食の準備と魚の追加依頼
 
 
岸に上がったペテロが見たのは、イエス様が炭火を起こしていてくださり、そして、何と、その周りに焼き魚とトーストの朝食が用意されていたことでした。忘れがたいこの朝食とその後の会話を記すのがヨハネの目的だったのですが、今日はそれには触れません。イエス様は皆に「今取れた魚をここに持ってきなさい」と仰いました。イエス様は、計算が狂って魚が足らなくなったから、そう仰ったのでしょうか。私はそう思いません。多分、奇跡によってとれた魚を味わって欲しいから仰ったのだと思います。ペテロは、はっと気づきました。「そうだ、私は舟と魚を置きっぱなしだ。どうしよう。」ペテロは早速舟に戻り、みんなと一緒に魚の陸揚げをしました。ふつう、魚は舟に上げるものですが、余りの重さに、舟に上げられず、網のまま岸に運んできたわけです。
 
B.網は破れなかった
 
 
さて、その時のコメントが私の心に留まりました。「それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。」雑魚を除いて市場価値のある大きな魚が153匹いたとのですが「網は破れなかった。」というヨハネのコメントです。この事実は、この物語の主要な部分ではなく、小さなエピソードにしか過ぎませんが、色々な示唆を与えるコメントではあります。

<破れなかった網の意味するもの>では、破れなかった網とは何を示唆するでしょうか。
 
1.協働作業の大切さ
 
 
破れなかった網は、協働作業の大切さを教えます。活きのいい大きな魚がピチピチ跳ねているのですから、それらを一匹も逃すことなく陸揚げするのは大変な注意と互いの協力を必要とすることでしょう。

7人の弟子たちは、細心の注意を払い、一か所でも破らないように力を加減しながら網を陸に引き上げました。

ここでの大漁は、この出来事の直後に始まる教会の宣教の果実の象徴でもありました。ペンテコステの時に入信した3千人の人々は教会の交わりと訓練に賢く組み入れられました。私たちも教会総会を越えて、心を一つにして宣教のために励みたいと思いますが、その時に必要なのは、互いの協力、補完関係です。私たちの網(ネットワーク)に綻びがあってはなりません。互いに助け合い、補い合って主の御業に励みたいと思います。
 
2.主の助けの証し
 
 
この物語を記したヨハネは、「網が破れなかった」ことを驚くべき奇跡の一つとして記録しています。通常、153匹の大きな魚を保つだけの丈夫な網は存在しません。しかし、驚くような大漁を与えなさった主は、その大漁を保つ方法をも用意しておられる方だ、とヨハネは記しているのです。

主の働きが拡がっていくとき、私たち人間の手には負えないような運動と組織に発展して、私たちはどうしようかと心配になってしまうことがあります。しかし、この物語は、働きを拡げるのも主であれば、それを保守なさるのも主である、心配するな、と教えていてくださいます。
 
3.綻びを作らない配慮
 
 
もし、網の何処かが破れてしまったら、そこから魚が逃げてしまいます。一匹逃げれば二匹、三匹とどんどん魚が逃げてしまいます。一匹の魚も逃さないチームワークと配慮をもって、ペテロたちは網をそっと引き上げたのでした。教会にも必要なのは、そのような配慮に満ちたチームワークです。私一人くらいはと手を抜くと、そこが綻びになってしまいます。桜ジャージーのチームジャパンが強い相手を倒すには、綻びのないスクラムを組んで相手を押すチームワークが必要なのです。
 
おわりに:福音のために「チーム中目黒」として戦おう
 
 
丸の内から広尾、そして中目黒と68年の歴史を持っている私たち中目黒教会ですが、30年前までは牧師が20名前後、それに多数の神学生がスタッフとして働いていました。段々スタッフが減り、今は4人の牧師と3人の信徒伝道者という風にミニマムになってしまいました。

その様なハンディを持ちつつ、働きを維持し、さらにそれを拡げるには、信徒一人ひとりがネットワークの一部を担って、みんなで、綻びのない網となることが期待されています。教会スタッフがミニマムになった今年は、信徒の結束力を強めるためのチャンスなのです。

総会を迎えた私たちですが、「破れなかった網」のように、主への信頼のうちに、互いに協力し、互いに助け合いつつ、進んで行こうではありませんか。
 
お祈りを致します。