礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年1月31日
 
「曇りなき良心」
使徒の働き連講(68)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 24章1-26節
 
 
[中心聖句]
 
  16   私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。
(使徒の働き 24章16節)


 
はじめに
 
 
昨年の11月末から昨週まで、クリスマスと新年の特別講壇が続きましたので、聖書の連続講解は中断しておりました。今日から、再開いたします。特別な御馳走も良いのですが、普段の食事が私たちの健康維持に役立つと信じていますので、地味な連講に力を注ぎたいと思います。
 
A.パウロの捕縛と裁判(前回までの纏め)
 
 
1.捕縛とサンヒドリンでの尋問
 
 
・エルサレムで騒動に巻き込まれる:
パウロは、三回に亘る結実豊かな伝道旅行を終えてエルサレムに帰ってきた直後、それを待ち構えていたようなユダヤ人原理主義者によって捕まってしまいます(56年)。

・ローマ駐屯兵によって救出される:
あわや群衆のリンチに遭おうとする所でしたが、エルサレムに駐屯していたローマ軍によって命を助けられます。幸い、パウロは一般のユダヤ人と違ってローマ市民権を持っていましたので、その権利に基づいて公正な裁判を要求します。

・サンヒドリンで尋問される:
裁判の第一ステージは、ユダヤのサンヒドリンで行われました。ここでは公正な審議は求むべくもなく、却って、パウロ暗殺計画が渦巻いていましたので、ローマ総督が駐在しているカイザリヤで、総督による審判が行われることになります。
 
2.カイザリヤへの護送と審判開始
 
 
・カイザリヤへの護送:
パウロは囚人としてではありますが、ローマ軍に守られてエルサレムからカイザリヤに護送されました。そのいきさつの中にも神の守りと配慮が満ちていたことは、前回お話ししました。

・カイザリヤ:
カイザリヤは、ヘロデ大王によって建てられた超近代的な美しい町でした。ヘロデは、この町をローマの初代皇帝カイザル・アウグストに因んで、カイザリヤと名付けました。そこには、ヘロデやローマ総督の宮殿もありま、さらに、商業の中心地としても栄えていました。住民のほとんどが外国人という国際的な町でもありました(絵図参照)。

・裁判記録の意義:
カイザリヤにおいてパウロは、ペリクス総督、その後のフェスト総督によって裁かれますが、実質的な審判は進まず、宙ぶらりんの状態に置かれます。それに抗議してパウロは、ローマ皇帝による裁判を求めて上告します。この裁判の記録が「使徒の働き」中、8か章を占めています。全体が28章ですから、驚くほどアンバランスです。しかし、記者のルカは意図をもってこんなに詳しく記録しているのです。それは、ルカ伝と使徒行伝著作のスポンサーであるテオピロに対して、キリスト教はあやしい新興宗教ではなく、ローマ社会でも由緒正しい市民権を持つ教えであることを立証したかったからです。実際ローマ政府は、それぞれの地域で行なわれている宗教は、社会秩序を乱さない限り尊重するという政策を取っていたのです。

・ペリクス総督:
さて、裁判を担当したペリクスは、52−59年にユダヤを統治したローマ総督でした。その頃ユダヤではテロリスト集団が渦巻いていて、収拾困難な状況にありました。ペリクスは、皇帝クラウデオの母の奴隷だった男でしたが、彼女の恩顧で自由人とされ、その後昇進しました。彼の特徴は、情欲と残忍です。最初の妻は、アントニウスとクレオパトラの孫娘、二番目の妻はヘロデ家のドルシラ、三番目は名前知らず、ともかく女性スキャンダルで知られていました。また、ユダヤ人に対する残忍な扱いでも悪名高い男でした。タキトゥスは、「ペリクスは王様のような力を、奴隷的な心で行使した」と記しています。
 
B.カイザリヤでの裁判(24章)
 
 
1.ユダヤ人たちの空疎な訴え(1〜9節)
 
 
「五日の後、大祭司アナニヤは、数人の長老およびテルトロという弁護士といっしょに下って来て、パウロを総督に訴えた。パウロが呼び出されると、テルトロが訴えを始めてこう言った。『ペリクス閣下。閣下のおかげで、私たちはすばらしい平和を与えられ、また、閣下のご配慮で、この国の改革が進行しておりますが、その事実をあらゆる面において、また至る所で認めて、私たちは心から感謝しております。さて、あまりご迷惑をおかけしないように、ごく手短に申し上げますから、ご寛容をもってお聞きくださるようお願いいたします。この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。この男は宮さえもけがそうとしましたので、私たちは彼を捕えました。閣下ご自身で、これらすべてのことについて彼をお調べくださいますなら、私たちが彼を訴えております事がらを、おわかりになっていただけるはずです。』ユダヤ人たちも、この訴えに同調し、全くそのとおりだと言った。」
 
・訴訟人:
大祭司という重大な責任を持つアナニヤが、一私人であるパウロを訴えるために、エルサレムから100kmの道のりを態々やって来たこと自体、彼のしつこさと、キリスト教への憎悪の強さを示しています。彼の訴訟代理人(直訳は、演説家)はテルトロでした。ローマ法をよく知っており、能弁なものが弁護士に雇われた訳です。

・総督へのへつらい:
テルトロは、ペリクス総督への気持ち悪くなるくらいのお世辞から弁論を始めます。ペリクスのお陰で平和と改革がなされている、というお世辞は、事実と全く反対です。ペリクスは、反逆者への残忍な弾圧のゆえにユダヤ人の恨みを買っていたからです。いつの時代もそうですが、歯の浮くようなお世辞を言う人を信頼してはなりません。

・曖昧な訴因:
テルトロは、パウロがペストのような存在で、社会を乱し、騒ぎを起こし、神殿さえも汚そうとしていると訴えますが、何一つ具体的罪状を示していません。示せるはずもなかったのですから。

・立証責任放棄:
訴訟人として最大の間違いは、立証責任をローマ総督に丸投げしていることです。「閣下ご自身がお調べくださるなら」と、自分で立証しようとせず、立証を裁判長にお願いしているのですから、法律家として失格です。
 
2.パウロの真実な弁明(10〜21節)
 
 
「そのとき、総督がパウロに、話すようにと合図したので、パウロはこう答えた。『閣下が多年に渡り、この民の裁判をつかさどる方であることを存じておりますので、私は喜んで弁明いたします。お調べになればわかることですが、私が礼拝のためにエルサレムに上って来てから、まだ十二日しかたっておりません。そして、宮でも会堂でも、また市内でも、私がだれかと論争したり、群衆を騒がせたりするのを見た者はありません。いま私を訴えていることについて、彼らは証拠をあげることができないはずです。しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。さて私は、同胞に対して施しをし、また供え物をささげるために、幾年ぶりかで帰って来ました。その供え物のことで私は清めを受けて宮の中にいたのを彼らに見られたのですが、別に群衆もおらず、騒ぎもありませんでした。ただアジヤから来た幾人かのユダヤ人がおりました。もし彼らに、私について何か非難したいことがあるなら、自分で閣下の前に来て訴えるべきです。でなければ、今ここにいる人々に、議会の前に立っていたときの私にどんな不正を見つけたかを言わせてください。彼らの中に立っていたとき、私はただ一言、『死者の復活のことで、私はきょう、あなたがたの前でさばかれているのです。』と叫んだにすぎません。』」
 
・事実の客観的説明:
時間を追って、出来事を淡々と=パウロは、不必要なお世辞から始めることなく、しかし礼儀をもって総督の権威を認め、自分の立場を淡々と述べます。自分の行動を、一つ一つ時間を追って説明します。自分の行動には、何の曇りもなく、隠れた行動もなく、やましい動機もないことを一つずつ述べていきます。今、国会や地方議会で、疑惑をもたれた方が、「忘れました。よく覚えておりません」などと自己弁護に努めていますが、客観的事実を淡々と述べるというのは見事なものです。これは記憶力だけの問題ではなく、弁明者が良心に基づいて行動していたからに他なりません。。

・曇りなき良心の主張:
パウロは、自分の確信について、「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」と語ります。サンヒドリンでの尋問の際にも、冒頭で「全くきよい良心をもって、神の前に生活をしてきました」(23:1)と言っています。良心(言葉の意味は、「一緒に知ること」)とは、「心の道徳的判断力・弁別力」と定義されます。良心は、神が人に与えられた賜物、内なる律法ですが、それは、罪のために汚されることもあるし(テトス1:15)、鈍らされることもある」(1コリント8:7)と聖書は警告しています。だから、清い良心を保つためには、最善を尽くさねばならないのです。このことは、この説教の最後にもう一度触れます。

・聖書預言の成就としてのキリスト:
パウロは、ユダヤ人たちが「異端と呼んでいるこの道」は決して異端ではなく、聖書預言の成就であり、亜流ではなく本流なのだと主張します。これは、ペリクスが、ユダヤ人の妻を持っていたこととも関連しています。最小限度の聖書知識は持っているだろうという期待から、この点を強調していると思います。

・当事者の無責任を非難:
さて、この確信に立って、パウロは彼を訴えるユダヤ人たちに対して、訴えの根拠を示せと啖呵を切ります。カッコいいですね。
 
3.ペリクスの無責任な対応(22〜26節)
 
 
「しかしペリクスは、この道について相当詳しい知識を持っていたので、『千人隊長ルシヤが下って来るとき、あなたがたの事件を解決することにしよう。』と言って、裁判を延期した。そして百人隊長に、パウロを監禁するように命じたが、ある程度の自由を与え、友人たちが世話をすることを許した。数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、『今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。』と言った。それとともに、彼はパウロから金をもらいたい下心があったので、幾度もパウロを呼び出して話し合った。」
 
・事件の先延ばし:
ここまで聞いたペリクスは、是非が分かったはずで、当然、無罪の審判を下すべきでした。しかし、彼は「千人隊長ルシヤが下って来るとき、あなたがたの事件を解決することにしよう。」と解決を先延ばしにします。無罪にしたならばユダヤ人の反感を買う、かといって有罪にしたならばローマ法の正義にもとる、というジレンマに立って、何もしないという先延ばしを決めました。実際、彼は2年間もこの裁判を放置したのです!勿論その2年間がパウロにとって、また、ルカ伝と使徒行伝を書いたルカにとって貴重な時間となったことは神の配剤です。しかしペリクスの罪は、それによって軽減されるわけではありません。

・良心の囁きに耳を塞ぐ:
別な日、ペリクスは妻のドルシラと共にパウロを訪問します。このドルシラもいわくつきの女性です。ユダヤ王アグリッパの娘であり、16歳で別な王の妻となりましたが、ペリクスに見初められて王と離婚、総督の妻となったという背景を持っています。ドルシラの父アグリッパは、イエスの弟子ヤコブを死刑にし、後に虫にかまれてこのカイザリヤで病死した人物です。パウロはこの二人に、「正義(人として歩むべき道)と節制(神の要求)とやがて来る審判(道を歩まなかった者への刑罰)とを論じた」のです。正に、彼らこそ、正義と節制と審判についてのメッセージに対して襟を正し、悔い改めるべき立場にありました。しかし、ペリクスは、悔い改めの入り口にたどり着いたにもかかわらず、ノーと言いました。

・賄賂の要求:
ペリクスは、その後単独でカウンセリングを求めます。そこでも罪を示されたのですが、悔い改めようとはせず、聞き置くだけにします。ヘロデアンテパスが、牢獄のヨハネを訪ねながら、悔い改めなかったのと似ています。更に悪いのは、パウロから賄賂が欲しくて、彼の留置を伸ばし続けたというのですから、全くもって赦し難い男です。しかし、先ほど述べたように、この延期すらも、神は良き目的に変えなさいました。「主はほむべきかな」です。
 
おわりに:最善を尽くして清い良心を保とう
 
 
・「責められるところのない」良心こそ、幸福の基(詩篇32:1):
ダビデは「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」(詩篇32:1〜2)と本当の幸の基は曇りなき良心だと告白しました。実はそこに至る過程で、大きな罪を犯し、それを隠そうとして失敗し、ついに公に悔い改めたという出来事が背景にあったわけですが・・・。「責められるところのない良心を保つために最善を尽くした」というパウロの告白を学びましょう。「責められるところのない」(文字通りには、「躓かされることのない」=曇りなき)良心こそ、どんな敵の罠からも私たちを守る武器です。

・「最善を尽くす」(スポーツ選手のように自分を鍛錬する)心の営みを身に着けよう:
そのために「最善を尽くす」(文字通りには、「スポーツ選手のように。自分を鍛錬する」)という心の営みを学びましょう。眼鏡でも、ほおっておくと汚れます。いつでも柔らかいきれいな布で磨かねばなりません。この鍛錬は、継続的で、システマティックなものでなければなりません。不断の祈りと内側の吟味と、小さな光に対しても従う柔らかい心が、曇りなき良心を可能にします。この一週の歩みのためにも、「曇りなき良心を保つために」最善を尽くしましょう。
 
お祈りを致します。