礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年2月7日
 
「カイザルに上訴」
使徒の働き連講(69)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 24章27〜25章12節
 
 
[中心聖句]
 
  11   もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません。しかし、この人たちが私を訴えていることに一つも根拠がないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカイザルに上訴します。
(使徒の働き 25章11節)


 
はじめに
 
 
先週から「使徒の働き」連続講解を再開しました。パウロが裁判を受ける長い長い記録の部分ですが、味わうと沢山恵みが詰まっています。先週は、裁判を取り仕切る立場にあるローマ総督ペリクスの無責任と(賄賂を要求する)さもしさに比べて、清い良心を貫いたパウロの姿勢を学びました。
 
1.新総督フェスト(24:27)
 
 
「二年たって後、ポルキオ・フェストがペリクスの後任になったが、ペリクスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロを牢につないだままにしておいた。」
 
・ペリクスの無責任:
理由なくパウロを二年間も留置=ペリクスは、パウロから賄賂をもらいたい下心があったので、パウロの裁判を二年間もほって置きました。ペリクスの放置の理由のもう一つは、ユダヤ人の歓心を買うためでした。パウロを有罪にする証拠はなし、かといって無罪にしたら、ユダヤ人たちから猛烈なブーイングが起きることが分かっていましたから、敢えてそれを避けたのです。何という無責任、優柔不断、道徳性の欠如でありましょうか。他の数々の失敗の報告がローマに届いて、ペリクスは更迭されることになりました。後任のユダヤ総督はポルキオ・フェストという男です。

・歴代のユダヤ総督:
参考までにユダヤを支配したローマ総督のリストを掲げます。色々考えさせられます。
 26〜36年 ピラト<主イエスの十字架刑>
 36〜48年 4人(名前省略)
 48〜52年 クマヌス
 52〜59年 ペリクス<パウロを放置>
 59〜62年 フェスト<パウロの上訴を承認>
 62〜66年 2人(名前省略)
 66〜70年 【ユダヤ戦争】<エルサレム滅亡>

・フェスト:
ペリクスの負の遺産を整理=上のリストで記されたように、彼の任期は三年間でした。彼について詳しい資料は残っていませんが、ヨセフスという歴史家が、「彼は総督としてペリクスの負の財産を正すことに力を注いだ。」とだけ記しています。実際、殆どの点でまじめだったようです。
 
2.フェストのエルサレム訪問(1〜5節)
 
 
「フェストは州総督として着任すると、三日後にカイザリヤからエルサレムに上った。すると、祭司長たちとユダヤ人のおもだった者たちが、パウロのことを訴え出て、パウロを取り調べる件について自分たちに好意を持ってくれるように頼み、パウロをエルサレムに呼び寄せていただきたいと彼に懇願した。彼らはパウロを途中で殺害するために待ち伏せをさせていた。ところが、フェストは、パウロはカイザリヤに拘置されているし、自分はまもなく出発の予定であると答え、『だから、その男に何か不都合なことがあるなら、あなたがたのうちの有力な人たちが、私といっしょに下って行って、彼を告訴しなさい。』と言った。」
 
・エルサレム訪問:
着任挨拶のため=ユダヤ人の中心都市エルサレムを視察し、状況を把握することは、新総督の当然の務めでした。

・ユダヤ人たちの訴え:
パウロをエルサレムで裁くように!=エルサレムの指導者たちは、余り事情を知らない新米の総督が赴任したことを好機と捉えました。彼らは、パウロをエルサレムに連れてきて裁いて欲しいと嘆願します。当然、途中で暗殺することを目論み、既に暗殺団を配置していたからです。しかし、新米とはいえ、その手に易々と乗る総督ではありません。「そんなに訴えたいならばカイザリヤに一緒に来なさい。」と言って、さっさとエルサレムを退去しようとします。面食らったのはユダヤ人で、不承不承、フェストに着いて行くことを合意しました。「こりゃあ、手ごわい相手だぞ」と心の中で呟いたことでしょう。
 
3.フェストによる裁判(6〜9節)
 
 
「フェストは、彼らのところに八日あるいは十日ばかり滞在しただけで、カイザリヤへ下って行き、翌日、裁判の席に着いて、パウロの出廷を命じた。パウロが出て来ると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちは、彼を取り囲んで立ち、多くの重い罪状を申し立てたが、それを証拠立てることはできなかった。しかしパウロは弁明して、『私は、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、何の罪も犯してはおりません。』と言った。ところが、ユダヤ人の歓心を買おうとしたフェストは、パウロに向かって、『あなたはエルサレムに上り、この事件について、私の前で裁判を受けることを願うか。』と尋ねた。」
 
・審判の開始:
カイザリヤでの審判が旬日のうちに始まりました。その点、フェストという男は、有能で効率的な官吏です。

・ユダヤ人たちの訴え:
エルサレムから下ってきたユダヤ人たちは、パウロの罪状を訴えます。パウロの答えから見ると罪状は3つです。パウロは@律法を破った;A神殿を汚した(外国人を連れて構内に入った);Bローマ政府を転覆しようとした。しかし、彼らは何一つ具体的証拠を挙げることができません。

・パウロの反論:
パウロは、こうした訴えは全く事実に反することを淡々と、しかも明確に陳述します。

・フェストの妥協案:
裁判をエルサレムで行なおう(?!)=ユダヤ人の訴えが殆ど非合理なことは分かりましたが、かと言って彼らの気持ちを無視することは事を難しくするというジレンマから、ビックリポンの妥協案を出します。「では、裁判をエルサレムでサンヒドリンの前で行なおう。そこであなた方の言い分をよく聞こう。でも、裁判長は私である。」というアイデアです。エルサレムでの裁判自体が不当であり、しかもパウロにとって道中が危険であることを知りながらこう言うのです。この提案は、愚かとしか言えません。
 
4.カイザル(ローマ皇帝)への上訴(10〜12節)
 
 
「すると、パウロはこう言った。『私はカイザルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。あなたもよくご存じのとおり、私はユダヤ人にどんな悪いこともしませんでした。もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません。しかし、この人たちが私を訴えていることに一つも根拠がないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカイザルに上訴します。』そのとき、フェストは陪席の者たちと協議したうえで、こう答えた。『あなたはカイザルに上訴したのだから、カイザルのもとへ行きなさい。』」
 
・上訴を宣告:
フェストの提案を聞いたパウロは答えます。「自分は今ローマの法制によって裁判されているのだから、総督のいるカイザリヤで裁かれるのが当然ではないか。エルサレムに戻される理由はない」と、尤も至極な言い分です。さらに言います、「総督が審判をしないならば、私はローマ皇帝による上級審判を求める」と宣言しました。この宣言は飛躍しているように見えますが、これしか選択の余地はなかったと言えます。

・上訴の権利:
現代日本では、上訴(日本の法制では上告)というのは、地裁の判決に不服の当事者が高裁に、高裁の判決に不服の当事者が最高裁に、と分かり易くできています。ですから、裁判の途中で、裁判の当事者が上訴するというのは奇異に映ります。しかし、ローマの法制では、「上訴」というアイデアは、紀元前509年のローマ建国の時以来確立されて来た大切な権利であったことを知る必要があります。この上訴権は、ローマ市民に固有の権利として尊重されてきました。ローマ帝国の広がりとともに、ローマ市民権も世界に広まり、この上訴権も広がっていったのです。この上訴権の中身は、下級審で満足のいく裁判がして貰えない時には、裁判の途中であっても上級審に訴えることができるという権利を含んでいました。実際は皇帝個人への直訴ではなく、皇帝のもとにある最高裁のような審議機関への上告でしたが・・・。勿論、パウロはユダヤ人たちの主張に沿ってエルサレムに行って、殉教する道を選ぶこともできました。しかし、彼ははっきりした目的を持って、ローマ皇帝に直接訴える方法を取りました。

・上訴の目的:
その目的とは何でしょうか。私なりに3つ挙げたいと思います。@正義を貫く:一つは正義の主張です。ユダヤ人たちの訴えは全く非合理でしたし、それに妥協的な態度しかできなかった総督の無責任さに対してもそれをノーと言って、正義を貫く必要を感じていました;Aキリスト教の社会的地位確立:ローマの最高権力者である皇帝の前で弁明することにより、キリスト教を(ユダヤ教の亜流としてではなく)合法的宗教と認めさせたいという大きな目的もあったと思います;B福音の証し:それと関連しますが、パウロは福音の証しのために帝国の首都であるローマに行きたいと兼がね願っていましたから、上訴という形でローマに行くのは、その願いを実現する機会と考えました。

・上訴の危険:
勿論、上訴という手段には危険も伴いました。@「非常識」との誹り:ローマ大帝国からみれば小さな一私人であるパウロが皇帝に訴えるのは、非常識という誹りもあり得たことでしょう;A皇帝ネロの性格:さらに、その時の皇帝がかの悪名高いネロでしたから、上訴によってより大きな危険に自分をさらす危険もありました。尤も、この頃のネロは未だ悪魔的な様相を露わにしてはいませんでしたが・・・。

・上訴の効果:
パウロが上訴を宣告したことは、大きな効果を生みました。@総督不信任:それは、「フェストさん、あなたは裁判官として失格ですよ。」とレッテルを張ったことを意味します。カッコいいですね。私たちも社会生活の中で、不義不正を働く人々に、レッドカード化イエローカードを出さなければならない時があります。私の経験を例として出します。私は、ある団体を代表して調停裁判の当事者となりましたが、調停に立ったある元判事が、どう考えても非合理・不公正な調停案を出したことに対して、努めて柔らかい言葉ではありますが、「それは非合理不公正です。考え直してください。」とお願いしました。最終的にその方は考え直して、合理的な調停案を出しました。クリスチャンはいつも柔和で、どんな不合理もニコニコと受け入れるべきとの考えを私は取りません。正義を主張するときはしっかり主張すべきです。Aユダヤ人の攻撃終了;この上訴によって、ユダヤ人たちはパウロを亡きものにしようという卑劣な暗殺計画を完全に潰したのです。Bパウロの夢の実現:長年ローマ行きを夢見ていたパウロが、堂々と、しかも公費でローマに行く機会が与えられたのです。神の御業は素晴らしいですね。

・フェストの反応:
落胆と安堵=パウロの上訴宣言にフェストはどう反応したでしょうか。彼は、プライドを傷つけられて落胆した半面、自分の責任が解かれてほっとしました。それが、「あなたはカイザルに上訴したのだから、カイザルのもとへ行きなさい。」という言葉に滲み出ています。言わば、投げやりです。でも、その手続きの確認のためにユダヤの支配者・アグリッパの助言を得ようとします。それが25章後半から26章の記録です。
 
おわりに:地の塩としての自覚と行動を!
 
 
私たちは、正義が通らない、殆ど無視されるような社会に生きています。その中で社会正義を振りかざすことは愚かに見えます。しかし、私たちが黙ったならば、誰が正義を齎すことができるでしょうか。私たちは小さな存在かもしれませんが、キリストによって「地の塩」と任命されているのです。犠牲を伴ったとしても、勇気と知恵をもって正義を貫きたいと思います。主は私たちにその力を与えてくださると信じます。
 
お祈りを致します。