礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年2月14日
 
「アグリッパ王への弁明@」
使徒の働き連講(70)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 25章13〜26章14節
 
 
[中心聖句]
 
  14   サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。
(使徒の働き 26章14節)


 
はじめに
 
 
前回は、ユダヤ人たちの暴動に巻き込まれ、裁判を受けていたパウロが、彼の市民権を行使して、時のローマ皇帝に上訴したこと、上訴の意味するものについてお話ししました。「筋を通す」という意味では、誠に胸のすくような決断でありました。今日は、その上訴を宣告された総督フェストが、上訴文の仕上げのために、ユダヤ周辺諸国を統治していたヘロデ・アグリッパと共に審問を行った記録です。
 
A.ヘロデ・アグリッパの登場
 
1.ヘロデ家代々の「反キリスト的」行動
 
 
ここで登場するアグリッパ王は、ヘロデ王朝最後の統治者です。ヘロデ家は、主イエス誕生の時から十字架、その後誕生した教会、パウロの留置と色々な形で、しかも常に迫害者として教会に関わりました。ヘロデ家の主要人物を下記に掲げますので、教会との関わりを思い出してください。

・ヘロデ大王(40〜4BC)
 <ベツレヘムの幼児虐殺>
・ヘロデ・アンテパス(大王の子:〜39AD)
 <ヨハネを斬首>
・ヘロデ・アグリッパ1世(大王の孫:39〜44)
 <使徒ヤコブを処刑>
・ヘロデ・アグリッパ2世(1世の子:48〜66)
 <パウロのローマ送達>
 
2.ヘロデ・アグリッパ2世
 
 
ここで現れるアグリッパは、「ヘロデ・アグリッパ2世」です。簡単にプロフィールを紹介します。

・ローマの宮廷で教育と皇帝の恩顧:
アグリッパは、幼少期をローマで過ごします。当時の皇帝クラウデオの下で訓練を受け、父アグリッパ1世が44年に病死したのちにユダヤへ戻ります。

・ユダヤ周辺を支配:
アグリッパは、ガリラヤなどユダヤ周辺の地方国主となり、後に「王」という称号を与えられます。

・ユダヤ教的な背景:
彼は、政治支配者と言うだけではなく、神殿財産の管理、大祭司の任命権を持ち、ユダヤ教の知識と経験をしっかり持っていました。パウロがその裁判の中で、唯一、救われる希望ありと見て、伝道説教をした相手でした。

・異母妹のベルニケと「結婚」:
アグリッパには、妹が3人いました。一番下のドルシラは、スキャンダルの末にローマ総督ペリクスの妻となりました。一歳年下で異母の妹ベルニケは、色々「変遷」はありましたが、アグリッパの妻となります。近親結婚です。今ならば芸能ニュースを賑わすような華やかで、しかし、ドロドロした関係です。
 
3.フェストを表敬訪問(25:13〜22)
 
 
「数日たってから、アグリッパ王とベルニケが、フェストに敬意を表するためにカイザリヤに来た。ふたりがそこに長く滞在していたので、フェストはパウロの一件を王に持ち出してこう言った。『ペリクスが囚人として残して行ったひとりの男がおります。私がエルサレムに行ったとき、祭司たちとユダヤ人の長老たちとが、その男のことを私に訴え出て、罪に定めるように要求しました。そのとき私は、「被告が、彼を訴えた者の面前で訴えに対して弁明する機会を与えられないで、そのまま引き渡されるということはローマの慣例ではない。」と答えておきました。そういうわけで、訴える者たちがここに集まったとき、私は時を移さず、その翌日、裁判の席に着いて、その男を出廷させました。訴えた者たちは立ち上がりましたが、私が予期していたような犯罪についての訴えは何一つ申し立てませんでした。ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかないので、彼に「エルサレムに上り、そこで、この事件について裁判を受けたいのか。」と尋ねたところが、パウロは、皇帝の判決を受けるまで保護してほしいと願い出たので、彼をカイザルのもとに送る時まで守っておくように、命じておきました。』すると、アグリッパがフェストに、『私も、その男の話を聞きたいものです。』と言ったので、フェストは、『では、明日お聞きください。』と言った。」
 
・カイザリヤ訪問:
そのアグリッパが義兄弟でもあり、パレスチナを共同的に支配している新任ローマ総督フェストを表敬訪問に来ました。

・フェストの要請(パウロ裁判について助言して欲しい):
フェストは、パウロ事件という彼にとって何が何だかわからない事件に頭を悩ませていたところでしたので、ユダヤ教の造詣の深いアグリッパ王の助言を得たいと要請したのは当然の成り行きです。アグリッパは、「私もその男の話を聞きたい」と同意します。
 
4.パウロを非公式に審問(25:23〜27)
 
 
「こういうわけで、翌日、アグリッパとベルニケは、大いに威儀を整えて到着し、千人隊長たちや市の首脳者たちにつき添われて講堂にはいった。そのとき、フェストの命令によってパウロが連れて来られた。そこで、フェストはこう言った。「アグリッパ王、ならびに、ここに同席の方々。ご覧ください。ユダヤ人がこぞって、一刻も生かしてはおけないと呼ばわり、エルサレムでも、ここでも、私に訴えて来たのは、この人のことです。私としては、彼は死に当たることは何一つしていないと思います。しかし、彼自身が皇帝に上訴しましたので、彼をそちらに送ることに決めました。ところが、彼について、わが君に書き送るべき確かな事がらが一つもないのです。それで皆さんの前に、わけてもアグリッパ王よ、あなたの前に、彼を連れてまいりました。取り調べをしてみたら、何か書き送るべきことが得られましょう。囚人を送るのに、その訴えの個条を示さないのは、理に合わないと思うのです。」
 
・審問の開始:
翌日、アグリッパは、(いわくつきの妻)ベルニケ、町のお偉方ともども、最高に着飾って法廷に現れます。何とも大袈裟です。そこに立っているのは、普段着あるいは囚人服のパウロです。何というコントラストでしょうか。

・審問の目的(上訴の理由を記す送付状作成のため):
総督フェストは、審問の趣旨を説明します。それは、パウロを公式に裁くのではなく、既に決定している上訴について、その理由を皇帝に述べる送付状を作るための審問です。この趣旨説明は何度も繰り返されていますので、ここでは省略します。
 
B.パウロの弁明
 
1.挨拶(26:1〜3)
 
 
「すると、アグリッパがパウロに、『あなたは、自分の言い分を申し述べてよろしい。』と言った。そこでパウロは、手を差し伸べて弁明し始めた。『アグリッパ王。私がユダヤ人に訴えられているすべてのことについて、きょう、あなたの前で弁明できることを、幸いに存じます。特に、あなたがユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるからです。どうか、私の申し上げることを、忍耐をもってお聞きくださるよう、お願いいたします。』」
 
・弁明の開始:
パウロは、片手を鎖で?がれていたため、反対の手をのべて陳述を始めます。

・アグリッパへの期待(ユダヤ教の理解者として):
パウロの序論は、単なる形式的挨拶ではなく、ユダヤ教を良く知っている相手に対して、理解を期待し、尊敬を籠めてのものでした。
 
2.律法に従い、メシヤを待ち望む生涯(26:4〜8)
 
 
「では申し述べますが、私が最初から私の国民の中で、またエルサレムにおいて過ごした若い時からの生活ぶりは、すべてのユダヤ人の知っているところです。彼らは以前から私を知っていますので、証言するつもりならできることですが、私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。そして今、神が私たちの先祖に約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでおります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。」
 
・パウロの過去(律法に忠実な学徒として):
パウロの救いの証しは、使徒行伝で2回、ガラテヤ書、1テモテ書、1コリント書などにも記されていますが、この証しが一番詳しく、力を入れたものです。それは、パウロが聞き手であるアグリッパを信仰に導きたいという志を持っていたからだと思われます。パウロ(回心前は本名のサウロと呼ばれていた)は、自分が正統的ユダヤ教徒として、神に従い、律法に忠実に生活したことを強調します。

・メシヤ待望の告白(復活信仰とメシヤ待望の関連):
サウロは、自分が聖書の約束しているメシヤを待望しつつ生きてきたこと、そのメシヤは、死から甦る方であることを強調します。ここまでは、アグリッパも同意せざるを得ないだろうと説得的に弁明します。
 
3.教会の迫害(26:9〜11)
 
 
「以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。」
 
・律法への忠実さのゆえに:
サウロの律法への忠実さは、正統的ユダヤ教を逸脱したと彼が思ったキリスト教会を迫害するほどでした。

・限度を超えた過激行動:
ただその迫害が、狂気に近い形であったことも、痛恨の思いを込めて告白します。彼はステパノだけではなく、多くのキリスト者の死刑に賛成したことも隠さず語ります。彼の方法は強圧的で、キリスト者たちを無理強いに「キリストを呪え」と言わせようとしました。彼の心は怒りに燃えていました。

・国外への追跡(散らされたクリスチャンを狙って):
彼の迫害活動は、エルサレムを離れたキリスト者たちを追って、サマリヤ、フェニキヤ、ガリラヤ、ペレヤ、デカポリスに及びました。
 
4.復活のキリストとの出会い(26:12〜14)
 
 
「このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』」
 
・天からの光(眩いばかり):
ダマスコに近付いた時、サウロは突然天からの強い光を受けます。それは、サウロだけではなく、一行の皆が見た眩いばかりの光でした。サウロは地に打ち倒されます。

・天からの声@:
その時サウロは声を聞きます。しかもへブル語で。「サウロ、サウロ、何故私を迫害するのか。」この言葉は、教会を迫害することは教会の頭であるキリストを迫害することだ、ということ、そのキリストは復活してメシヤであることを立証されたナザレのイエスだということを示しています。サウロは打ちのめされた思いとなったことでしょう。

・天からの声A:
「とげつきの棒を蹴ることは、自分にとって痛い」という言葉は、他の場所で行ったパウロの証しには記録されていません。ここだけで記されています。今日は、この言葉に留まって暫く考えましょう。

・言葉そのものの意味:
「とげのついた棒」とは、金属のとげがついた棒のことで、牛を制御するために使われたものです。頑固な牛がそれを蹴飛ばせば、傷つくのは自分だけです。棒そのものはびくともしません。とげつき棒の指示に大人しくしたがった方が賢い、というのがこの諺の意味です。

・棒を蹴っていたパウロ:
ここで、主イエスは、この諺をパウロに当てはめておっしゃっていることは明白です。どんな行為でしょうか。文脈から見れば、「教会」という神によって建てられ、守られている共同体を迫害している行為のことです。パウロは、神に従って教会を迫害していたつもりでしたが、実は、「とげつき棒を蹴って」いたのです。

・パウロの痛み(良心の呵責):
「あなたにとって痛い」という言葉は、文字通りには「難しい」(hard, スクレーロス=物理的に固い、という言葉から、困難さ)という意味です。ですから、この言葉を限定的にとれば、とげつき棒を蹴るのは無駄な努力だ、つまり、教会を迫害しても壊すことはできない、というニュアンスとなります。このような解釈の前提は、パウロは教会迫害の只中においてさえ、徹底的に「良心に従って行動した」のだから、迫害について良心の呵責はなかった、という考え方です。そのようにとる聖書解釈者もあります。でも、この比喩の強調点は、とげつき棒を蹴ると、痛いのは自分だという点であると思います。痛みとは、良心の痛みです。パウロは、頭の中では神に従っていると思い、そこから行動を始めたのですが、心の奥底では、これは違うのではないか、神に逆らっているのではないかとうすうす気づき始めたのです。どうしてそう言えるかといいますと、パウロの迫害の方法と程度が常識の範囲を超えて余りにも気狂いじみていたこと、さらに、サウロの迫害運動の根底に怒りの感情が支配的であったことが明らかだったからです。なぜそうなったかと言えば、パウロはキリスト教の真理性を心の奥深くでは感じ始めていたからではないかと私は思います。ステパノを石で打った時、ステパノの顔は天使のように輝いていました。ステパノは、復讐ではなく赦しの祈りをもって息を引き取りました。ステパノだけでなく、パウロが虐めた相手のキリスト者は、神を畏れる聖徒たちでした。それを次々殺したことがトラウマにならない筈はありません。1コリント15:9では、その時のことを振り返って、自分は神の教会を迫害した者で「小さいもの、価値無きもの」と謙っています。また、1テモテ1:13では、彼の過去を振り返って「神をけがす者、迫害するもの、暴力をふるう者」と深く反省しています。そう考えると「とげつき棒を蹴って痛かった」とは、サウロが持っていた良心の呵責であると私は思います。しかし、この主イエスの言葉によって、サウロは心から悔い改め、キリストの弟子となります。
 
おわりに:とげつき棒を蹴るのをやめよう
 
 
私たちは、神に全く従う生涯を送らない限り、どこかで、何らかの形で「とげつき棒を蹴って」いるのです。それは私たちに平安を齎さないし、良心の咎めのみを齎します。パウロほど大きな棘ではなくても、小さな棘を蹴っているかもしれません。蹴っていれば痛いのです。その痛さを感じたとき、心砕かれ、主の前に謙りたいと思います。
 
お祈りを致します。