礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年2月21日
 
「アグリッパ王への弁明A」
使徒の働き連講(71)
 
竿代 照夫 牧師
 
使徒の働き 26章12-32節
 
 
[中心聖句]
 
  29   ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。
(使徒の働き 26章29節)


 
はじめに:「とげつき棒を蹴るのは痛い」という言葉の意味
 
 
前回はパウロがアグリッパ王の前で行った弁明の前半、キリストとの出会いに至る証しの部分を学びました。特にパウロ自身の良心の呵責を物語る主イエスの言葉「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」という言葉の意味するものを共に考えました。
 
1.復活の主との出会い(12〜18節)
 
 
「このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』」私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」』」
 
・天からの光:
眩いばかりの光をサウロ一行が見る

・天からの声@(「何故私を迫害する?」):
教会とキリストは一体

・天からの声A(「痛い」):
迫害行為はサウロの良心の呵責に<ここまで、先週お話ししました>

・天からの声B:「証人となりなさい」
1)何を?(イエスに出会ったこと、その後の啓示):
打ち砕かれたサウロに新たな使命が与えられます。それは、証人としての使命です。サウロが「見たこと、また、これから後わたし(キリスト)があなたに現われて示そうとすることについて、」証言することでした。見たことと言えば、このダマスコ途上でイエスに出会ったことにつきます。また、これから示そうとしたこととは、その後のキリストの啓示に関わることです。
2)誰に?(イスラエルと異邦人):
証言の対象は、「この民」(イスラエル)と「異邦人」(諸国民)の二重です。
3)目的は?:
信仰による開眼、信仰による回心、信仰による解放、信仰による赦し、信仰による相続=その目的は、「彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるため」です。つまり、信仰による開眼、信仰による回心(暗黒から光への転換)、信仰による解放(サタンの支配から解放)、信仰による赦し(犯した罪の全き赦し)、信仰による相続(神の国の豊かさの相続)です。ここでのポイントは、「この民と異邦人」という言葉です。神はユダヤ人と非ユダヤ人を区別なさらず、同じ原則(信仰のみ)によって救い、同じような豊かな恵みを注ぎ、同じ民(神の相続人)となさるということです。これこそが、実は保守的なユダヤ人たちを怒らせ、パウロ殺害計画にと導いた根本的理由なのです。
 
2.啓示に従った生涯(19〜23節)
 
 
「こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕え、殺そうとしたのです。こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」
 
・パウロの宣教活動:
パウロの宣教活動は、「天からの啓示に背かない」という思いをもって、つまり、復活の主が示された使命に従ってなされたものでした。地理的には、彼の回心の場所ダマスコから始まり、エルサレム、ユダヤ全土、そして、小アジヤ、ヨーロッパ各都市を含む異邦人に至りました。その宣証の内容は、悔い改めて神に立ち返ること、悔い改めが真実であることを示すような実生活を歩むことでした。

・そのための迫害:
インパクトの大きさがユダヤ人の反発を生んだ=パウロのの宣教の過程で、そのインパクトの大きさから、反発を買い、迫害を受けたことを証言します。パウロが今受けている裁判もその迫害の延長であることを、この証言は示唆しています。パウロはここで、裁判の直接のきっかけとなった事件に触れていません。直接のきっかけとは、ユダヤ人たちが、パウロは異邦人を神殿に連れ込んで神殿をけがしたと誤解したことなのですが、本当の原因は、先に触れたように、パウロの宣べ伝えた普遍的福音への反対、反発があったのです。

・福音の要約(聖書が予告したもの:キリストの苦難と死と復活):
まとめとしてパウロは、彼の伝えた福音を要約します。それは、聖書(旧約聖書)が予告したものであり、キリストが苦難を経験し、その死の中から復活したこと、それによって、福音の確かさを証明したことでした。この言い方には、聖書を知っているアグリッパ王には理解できるはずだという期待が込められていました。
 
3.フェスト総督による中断(24〜26節)
 
 
「パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、『気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。』と言った。するとパウロは次のように言った。『フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。』」
 
・フェストは、パウロの狂気と見る:
ローマ人であり、聖書の背景を知らなかったフェスト総督にとって、メシヤの預言とか、死者が復活するとかの話は、おとぎ話のように聞こえました。もっと驚いたのは、教養のありそうなパウロという男がそれをまともに信じて一生懸命それを宣伝しようとしていることでした。フェストは思わず叫びました。「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている!」世の中には、勉強のし過ぎで、少しおかしくなる人はいますが、それをパウロに当てはめるのは、フェストの勉強不足です。

・パウロの反論(自説は、客観的な事実に基づく):
パウロは穏やかに反論します。「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。」そして、隣にいるアグリッパ王に向かってこう言います。「私の話していることは、おとぎ話でも空想物語でもありません。イエスの行い、十字架、復活、その後の弟子たちの活動はみな、この国で起きた出来事で、あなたも含め、周知のことではありませんか。」と。
 
4.アグリッパ王への挑戦(27〜29節)
 
 
「『アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。』するとアグリッパはパウロに、『あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。』と言った。パウロはこう答えた。『ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。』」
 
・アグリッパ王への質問(「キリストを信じるのは自然でしょう?」):
パウロは、アグリッパ王を真正面に見据えて語り掛けます。「あなたは聖書の預言を信じておられますね。」と問いかけます。その含みは、「そうでしたならば、その預言の成就としてのキリストを信じなさるのは自然なことではありませんか。」というメッセージがあります。

・アグリッパ王の防衛(「私は簡単に説得されない」):
それまでは、興味深い物語として聞いていたアグリッパ王は、その話が自分に向けてなされたということに驚いて、たじたじとなります。パウロの勢いを感じたアグリッパ王は先手を打って自己防衛をします。「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」と言います。それに続く意味は、「その手には乗りませんよ。私は簡単に折伏されませんよ。」という予防線です。でも、ここまでパウロの言葉の含みを読み取るとは、アグリッパ王もリッパです。ただ、彼はそう簡単に軍門に下るわけには行きません。ユダヤ社会における彼の地位が、キリスト者になることを妨げていましたし、もっと言えば、彼の女性関係の不適切さがキリスト者となることを大きく妨げていたのです。

・パウロの大胆な証し(「私のようなキリスト者になっていただきたい」):
パウロはそのことを先刻承知の上でこう言います。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」言い換えれば、「言葉の多少は問題なく、私の証しを聞いた人々がみな私のようなキリスト者になっていただきたい。」と胸を張ります。

・「恵みによって私のように」と言えるものになろう:
パウロが「私のようになってほしい」というのは、私たちみんなに当てはまる証しの中心ではないかと思います。パウロは、その他の色々な場所で、私に倣って欲しい、私のようになって欲しいと語っています。「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」(1コリント11:1その他3か所)彼は傲慢なのでしょうか。私は決してそう思いません。彼が「私のようになってほしい」と言うとき、必ずその根底に、私は神の恵みに拠ってこうなった、私が今あるのは只神の恵みの故だ、神の恵みに頼っているこの私のようになってほしい、という本当の謙遜があります。それならば、私たちも言えるはずです。「神の恵みに頼っているこの私のように、皆さんも神の恵みに頼って欲しい」と。赦された罪びととして、また永遠への希望が与えられたものとして、彼は自分の立場を誇り、そして、すべての人にそのようになって欲しいと願います。

・「鎖以外」とのユーモア:
パウロは、みんなが自分のようになってほしいと言いながら、自分の左手を見つめます。そこには、ジャラジャラと音を立てる鎖がありました。そこでパウロは、ユーモアを交えて付け加えます。「私のように、とはいっても、この鎖なしの私のようにですがね。」私たちにも、鎖に匹敵するようなハンディがついて回ります。そのハンディは、かっこよくもないし、魅力的でないでしょう。しかし、神の恵みに頼っているという在り方は私を私たらしめるもので、誇ることのできるものです。
 
5.王と総督のコメント(30〜31節)
 
 
「ここで王と総督とベルニケ、および同席の人々が立ち上がった。彼らは退場してから、互いに話し合って言った。『あの人は、死や投獄に相当することは何もしていない。』またアグリッパはフェストに、『この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに。』と言った。」
 
・お偉方の退席:
ここまで、忍耐して聞いていたお偉方は、聞くのはここまでと立ち上がって、別室に退きます。

・彼らのコメント:
彼らの共通認識はこうでした。@パウロは、死罪または禁錮に相当する罪は犯していない、従って、筋としては、無罪にすべきだ;A私たちは釈放するのが当然だが、被告が先回りして皇帝に上訴したのだから無罪とするわけにもいかない、従ってローマに送致することにするが、これはパウロの失敗だ、というものでした。そして実際、ローマ送致がなされますが、それは27章に続きます。
 
おわりに:(謙りと誇りをもって)「自分のように!」と証ししよう
 
 
私たちが、「証し」というとき、パウロのように、自分は何者でもなく、罪人の塊であるという謙りと、しかし、このような者にも神が憐れみを注いでくださったという神の恵みへ誇りをもって「私のようになってほしい」と言いたいものです。そのために、私たちはこの世に遣わされています。今週の歩みと証しのために祈りましょう。
 
お祈りを致します。