礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年3月13日
 
「悲しみの道」
受難節の思い巡らし
 
竿代 照夫 牧師
 
ルカの福音書 23章24-34節
 
 
[中心聖句]
 
  28   わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。
(ルカの福音書 23章28節)


 
前回のメッセージ:「私のようになってください」という言葉の重み
 
 
「ピラトは彼らの要求どおりにすることを宣告した。すなわち、暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた男を願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。
彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」
ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」
 
はじめに
 
 
主イエスが十字架につけられた受難週は、来週、つまり3月20日から始まります。そのことを念頭に置きながら、今日は主が十字架を担いで歩かれた道、ヴィア・ドロロサについて思い巡らしたいと思います。
 
1.ヴィア・ドロロサとは
 
 
・ことば(「悲しみ(ドロロサ)の道(ヴィア)」)
ヴィア・ドロロサとは、ラテン語で、「悲しみ(ドロロサ)の道(ヴィア)」という意味です。

・特定的に(裁判の場からゴルゴダまでの道)
ヴィア・ドロロサは、特別にエルサレム旧市街の北東部、アントニア塔にあったローマ総督の官邸からゴルゴダ(カルバリ―)というキリストが十字架につけられた丘までの道を差します(地図Jerusalem参照)。ゴルゴダの位置については、現在聖墳墓教会の建っているエルサレム北西部という説と、ずっと北側の「ゴルドンのカルバリ―」という説と二つあって、確かではありません。現在、巡礼者のために有名になっているのは前者で(写真@とA参照)、全長約500メートルほどの距離です。

・15ステーションから成る「巡礼コース」:
聖地巡礼者たちにとって、十字架を担いでヴィア・ドロロサを歩くことが、功徳を積む行事のように神秘化されて、毎週金曜日に行われるようになりました。特に十字架を記念する聖金曜日には大変派手な行列が行われます。伝説では、ここで聖母マリヤに出会ったとか、ここでヴェロニカという婦人がイエスの汗を拭いたとか、そのハンカチにイエスの顔が写し出されたとか、数度に亘ってイエスが倒れたとか、色々な物語が付け加えられて、それぞれの出来事が15ほどのテーションとして「特定」(?)されています。

しかし、新約聖書がこの道々の出来事として記録しているのはごく僅かです。今日はルカの描写に絞って思い巡らしたいと思います。
 
2.倒れなさった主
 
 
・受刑者が担ぐ十字架(飛びきり重い)
主イエスは、十字架を背負ってピラトの官邸があるアントニア塔を出て、ゴルゴダの丘までの道行きを始められました。一人の男が、そこに釘付けされた後で垂直に立てられるのが十字架ですから、軽いはずはありません。4.5メートルの縦棒、2メートルの横棒を別々に運び、刑場で組み合わせるわけです。囚人が担ぐのは、横棒だけですが、それでも40〜50キロの重さでしょう。

・主イエスの場合(疲労困憊の極み)
主イエスは大工さんでしたから、日に焼けた、筋骨逞しい青年であったと思われます。しかし、その前夜遅くまでゲッセマネの園で祈りに打ち込んでおられましたし、捕縛されてからは、6つの裁判を夜通し受け、むち打たれ、殴りつけられ、茨の冠を頭に押し付けられたので、肉体的にはもう限界以上でした。さらに、木材を背負うには背中の傷が痛すぎました。何度も担いでは倒れ、よろめきなさったのです。
 
3.クレネのシモンに助けられる
 
 
・ローマ兵が「行役義務」を課す:
倒れては立ち上がり、立ち上がっては倒れる主イエスを見かねて、鬼のようなローマ兵ではありましたが、助けを出しました。助け舟として選ばれたのが、過ぎ越し祭りのために「いなかから上京して」見物の野次馬に加わっていたシモンという男です。ローマ兵士は、被占領地の人々を誰でも掴まえて、荷物を担がせる権利を持っていました。担がされる側からは、これを行役義務といいます。この権利を利用して、野次馬の中でも一番熱心に眺めていたと思われるクレネ人シモンを捕まえ、無理矢理に十字架を担がせました。

・クレネ人シモンが頂いた恵み:
最初は、貧乏くじを引いたとわが身を嘆くだけであったシモンでしたが、十字架を担いで一緒に歩いている間に、自分が助けているイエスと言う男のただならぬ静かさ、愛と憐み、崇高さに打たれ、十字架刑についた方の驚くべき様子に感動して、信仰者となるのです。クレネのシモンに対する主イエスの反応は記されていません。しかし、心からの感謝を表されたことが容易に想像できます。それがクレネのシモンの信仰告白の要因となりました。

・「十字架」を担ぐ恵み:
私たちも、信仰生涯の中で、与えられた十字架を担がねばならない場面にぶつかると思います。私も、クレネ人シモンみたいだなあと思いつつ担いでいる十字架があります。でも、それは実に恵です。「イエス様、あなたの十字架は重いですね」と申し上げると、主は、「そうだね。私のために十字架を担いでくれてありがとう。でも、私が半分以上担いでいるから大丈夫。十字架を担ぐと、恵みが分かるよ。」とおっしゃってくださるように感じます。
 
4.女性たちが主を同情する
 
 
・女性たちの群れ:
さて、大勢の民衆が主イエスを取り囲んだことをルカは記録しています。27節「大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。」大ぜいの民衆が、みな同情的であったかどうかは分かりません。イエスを嘲りののしる民衆もいれば、同情的な人々も混じっていたことでしょう。その中でも際立っていたのは、「イエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れ」です。その中核は、イエスの伝道生涯を通じてイエスに仕えていた女性たち、その多くはガリラヤから従ってきた女性たちであったと思われます。この女性たちは、十字架の初めから終わりまでを検証し、葬りの手伝いをし、復活の主にいち早く出会った人々です。

・勇気ある同情と助け:
しかしそれ以上に、エルサレムでイエスの教えを聞いて感動した女性たち、この十字架の出来事で感動を受けたエルサレム在住の女性たちがこの群衆の多数でした。それは、主イエスが、格別にエルサレムの運命について預言されたことによっても推測されます。ともかく、この女性たちは、受刑者をサポートすることが危険であることを忘れてか、無視してか、イエスに対する同情を露わに致しました。こんな素晴らしい人が、こんな酷い目に合うことはありえない、可哀想という気持ち、この無罪の人を死刑にするなど許せないという抗議の気持ち、すべてが込められた同情の叫びでありました。中にはローマ兵の監視の目をかいくぐって水を差し出すもの、額の汗や血を拭う者もいたことでしょう。男たちがみんな恐れて逃げてしまったことを思うと、勇気のあるもの、その名は女性なり、であります。主イエスはどんなに慰められ、また励まされたことでしょう。

・S兄のお母さん:
投獄中のアイルランド人宣教師を助ける=第二次大戦の最中に、日本で伝道していた、あるアイルランド人宣教師がスパイ容疑で投獄されました。多くの人々がその宣教師との関係を断つ中で、恐れず獄中を訪問した姉妹がいました。それが私たちのメンバーであるS兄のお母さんと妹さんです。本当に素晴らしい証です。
 
5.主が女たちを同情する
 
 
・自分のことでなく、他を顧みる主イエス:
主イエスは、驚くことに、女性たちの同情を、自分の正しさを証明する支持表明として受け取ることはなさいませんでした。反対に「女たちのほうに向いて、こう言われた。『エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。29 なぜなら人々が、「不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。」と言う日が来るのですから。30 そのとき、人々は山に向かって、「われわれの上に倒れかかってくれ。」と言い、丘に向かって、「われわれをおおってくれ。」と言い始めます。31 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」主イエスは、自分の痛みを訴えるのでもなく、無罪の自分がこんな目に遭う不当性を訴えるのでもなく、自分を同情してくれる人々の悲劇的な運命を思って、それを悲しんでおられる記事を見ます。自分が中心ではなく、周りが中心という、驚くような視座の転換をそこに見ます。

・エルサレム滅亡の予告:
主イェスの警告は、具体的には、この出来事から40年も経たないうちに起きるであろうエルサレムの包囲と破壊の出来事の予告でありました。ずいぶん長い文章が記録されています。単なる気慰めではなく、将来になされる神の審判とそれへの備えを明確に述べられたものです。
 
6.私たちはどんな立場で主の傍らを歩くだろうか?
 
 
・(シモンのように)代わって十字架を担ぐ側か?:
主と物語りつつ、主の十字架の一端でも担がせていただく恵みを感謝しましょう。

・(女性たちのように)同情する側か?:
私たちが同情するよりももっと、その何十倍も同情してくださり、備えを与えてくださる主に感謝しましょう。

・(祭司長たちのように)あざける者の側か?:
どんなに主を嘲っても、主はその嘲りを誉め言葉として受け止めなさる、懐の深い方であることを悟りましょう。

・〈強盗達のように〉一緒に十字架を担がされる側か?:
私たちの罪がどんなに深くても、悔い改める者すべてに永遠の御国を保証して下さる方であることを覚えましょう。

・(ローマ兵のように)鞭を打ち、釘を打ち付ける側か?:
確かに私たちは、神に対する不服従によって、人を傷つける言葉によって、イエス様の十字架の釘を重くし、増やしているのです。しかし、主はそんな罪人の私に対して「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と徹底的な赦しを宣言してくださいます。

ヴィア・ドロロサの主は、今も私たちのそばを歩き、私たちの本当の祝福を祈られる主でもあります。感謝しましょう。

後藤光三先生が作詞された「みやこのそとの」というCS讃美歌があります。ややセンチメンタルに過ぎるかなとも思われますが、でも、真理を衝いた歌であると思います。

都の外の遠い道、カルバリ丘にイエス様は、
十字架を背負い、行かれます。イエス様ほんとに重いでしょう

十字架の上のお苦しみ、私たちの罪と咎、
その御肩にかかってる。イエス様ほんとにすみません

十字架の上でイエス様は、みんなのために祈られた
イエス様どうぞ罪深い 私を赦して下さいな

この受難節に当たり、想像の翼を巡らして、主イエスと共にヴィア・ドロロサを歩いてみようではありませんか。私たちは何を感じ、何を語り、何を聞くでしょうか。心を傾けて主イエスの心を悟ろうではありませんか。
 
お祈りを致します。