礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年3月27日
 
「復活の望みに生きる」
復活節(イースター)礼拝
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨブ記 19章13-29節
 
 
[中心聖句]
 
  25,26   私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。
(ヨブ記 19章25-26節)


 
聖書テキスト
 
 
13 神は私の兄弟たちを私から遠ざけた。私の知人は全く私から離れて行った。14 私の親族は来なくなり、私の親しい友は私を忘れた。15 私の家に寄宿している者も、私のはしためたちも、私を他国人のようにみなし、私は彼らの目には外国人のようになった。16 私が自分のしもべを呼んでも、彼は返事もしない。私は私の口で彼に請わなければならない。17 私の息は私の妻にいやがられ、私の身内の者らにきらわれる。18 小僧っ子までが私をさげすみ、私が起き上がると、私に言い逆らう。19 私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、私の愛した人々も私にそむいた。20 私の骨は皮と肉とにくっついてしまい、私はただ歯の皮だけでのがれた。21 あなたがた、私の友よ。私をあわれめ、私をあわれめ。神の御手が私を打ったからだ。22 なぜ、あなたがたは神のように、私を追いつめ、私の肉で満足しないのか。23 ああ、今、できれば、私のことばが書き留められればよいのに。ああ、書き物に刻まれればよいのに。24 鉄の筆と鉛とによって、いつまでも岩に刻みつけられたい。
25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。26 私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。27 この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。28 もし、あなたがたが、事の原因を私のうちに見つけて、「彼をどのようにして追いつめようか。」と言うなら、29 あなたがたは剣を恐れよ。その剣は刑罰の憤りだから。これによって、あなたがたはさばきのあることを知るだろう。
 
はじめに:復活への期待は、旧約聖書時代にもあった
 
 
イースターおめでとうございます。先週は、主イエスのご受難を偲びつつ日々を過ごしました。そして今朝は、苦しみを喜びに、絶望を希望に変えなさった主の輝かしいご復活を祝います。復活の喜びは、実は、2千年前のキリスト復活によって初めて齎されたものではなく、そのずっと前から期待されていたことでした。今日は、それについてヨブの物語から学びたいと導かれました。
 
1.ヨブの苦しみ
 
 
・友人から糾弾される:
18章は、三人の友達の一人、ビルダデが行ったヨブの糾弾です。物凄い辛辣なものです。5節、13−14節を読めば論調が分りますが、悪者は必ず滅ぼされる、その悪者とは、他ならぬヨブあなただ、というのです。

・神は聞いてくださらない:
ヨブは、これに答えて、自分は無罪であるのに苦しみに遭っている、それは全く理解不能だ、といいます。仮に、自分が誤って罪を犯したとしても、私はその罪の内に留まっていない、と言います(4節)。神からの懲らしめは不当だと神に訴えても、神は聞きなさらないとまで言います。9〜11節「神は私の栄光を私からはぎ取り、私の頭から冠を取り去られた。神が四方から私を打ち倒すので、私は去って行く。神は私の望みを木のように根こそぎにする。神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のようにみなされる。」ヨブは神から見放されたと実感したのです。事情は違いますが、十字架の上で「我が神我が神、どうして私をお捨てになるのですか」と叫ばれた主イエスと共通のものを感じます。

・社会全体からも見捨てられている:
さてヨブは、社会全体も神の不当な扱いに加担しており、自分はもう絶望の極みにあると言います。13〜19節は大げさな表現でなくて、冷厳は事実です。「神は私の兄弟たちを私から遠ざけた。私の知人は全く私から離れて行った。私の親族は来なくなり、私の親しい友は私を忘れた。私の家に寄宿している者も、私のはしためたちも、私を他国人のようにみなし、私は彼らの目には外国人のようになった。私が自分のしもべを呼んでも、彼は返事もしない。・・・(これは一番辛いことですが)私の息は私の妻にいやがられ、私の身内の者らにきらわれる。小僧っ子までが私をさげすみ、私が起き上がると、私に言い逆らう。私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、私の愛した人々も私にそむいた。」本当に涙なしには読めない告白です。

・肉体的苦痛の極みにある:
ヨブは続けます「私の骨は皮と肉とにくっついてしまい、私はただ歯の皮だけでのがれた。あなたがた、私の友よ。私をあわれめ、私をあわれめ。神の御手が私を打ったからだ。」(19〜20節)その苦痛の言葉がしっかり書きとどめられるように願います。「ああ、今、できれば、私のことばが書き留められればよいのに。ああ、書き物に刻まれればよいのに。」(22節)と。
 
2.復活の希望
 
 
・絶望から希望への転換:
絶望の極致にある心境を吐露したヨブは、25節から希望のムードに一変します。自分は絶望的ではあるが、自分を贖う方は生きており、私も贖い主と共に死んだ後も生きるものとなるのだという希望を告白します。これは、復活の信仰を表す告白として捉えられ、特にヘンデル作曲のメサイアの「復活」の一部としてソプラノのアリアで歌われます。この転換の鍵となる言葉が「私は知る」です。彼の直面している苦しみがどんなに深刻であったとしても、その深刻さを乗り越えるもう一つの現実がある、それが「私は知る」の言葉に込められています。

・贖い主なる神は生きている:
ヨブが知っているのは、彼を贖う方としての神です。「贖う」という言葉は、経済的・社会的に苦境に陥った者を、近い親戚のものが救済するという意味です。この社会制度が、「贖い主としての神」と捉えられるようになります(創世記48:16、出エジプト記6:6、イザヤ59:20「シオンには贖い主としてくる」)。神は、ヨブにとって彼を苦境に追い込む非情なお方のように見えるが、実は、身近な親戚として彼を救済して下さるお方だ、と神との親近性を告白しているのです。

・贖い主は人間世界に立ち給う:
このお方は、人間の苦しみから遠く離れたお方ではなく、苦しみを知り、そこから救済してくださる生きたお方だとヨブは捉えました。「後の日に、ちりの上に立たれること」今は遠く離れたお方のように見えるが「ちりの上」すなわち地上の人間世界と共通地盤に立ち給うお方だと捉えました。

・復活に希望をつなぐ:
ヨブは続けます。「私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。」(26節)と。自分の肉体は朽ち果てる、しかし、別な形での「肉」は存在し、その中で自分は生きる。その新しい形での肉体から、贖い主を見る、と。正にこれは復活の信仰です。実は、その前の14章においてヨブは、死者の国に行ったならばその先に光があるだろうかと疑っています。そんなヨブでしたが、自分を襲った艱難の極限を意識した時に、そのどん底から復活の信仰を得たのです。いや、復活の信仰に立たなければ、悩みが解決できないというところまで追い込まれたのです。彼が主イエス様を知っていたら、もっと容易にその信仰に立てたかもしれません。しかし、「イエス様」というお名前は知らなかったヨブではありましたが、贖い主がいるはずだ、その方は生きておられる、自分の身は朽ち果てても、その状況の中から贖い主の姿を見つけることができるはずだと信じたのです。

・贖い主と親しい間柄を持つ:
ヨブは言います「この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。」目と目をもって、親しい間柄として自分は贖い主を見つめることができる。それは、大きな喜びとなる、その希望が苦難の只中のヨブを慰めたのです。

・旧約聖書における復活信仰:
ここで、ヨブから逸れますが、復活に対する信仰は、旧約聖書において、明確な形ではないが、しっかり捉えられていたことを見たいと思います。主イエスは、復活の信仰がモーセが燃えるしばの経験に表れていると語られました。モーセに表れた神はご自身を「アプラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と自己紹介された(出3:6)、ならば、アブラハム、イサク、ヤコブは神の前に生きているはずだと語られました。また、アブラハムがイサクを捧げた時、イサクは死ぬかもしれないが、生きたイサクを取り戻せると信じていた(創世記22:5)、それは復活の信仰だとヘブルの記者は解説します。その他いくつもの記事がありますが、主イエスに色々な点で反対したパリサイ派でも復活を信じていました。回心前のサウロもそうです。私が言いたいのは、旧約において、復活信仰は表面に表れる確かなものではなかったが、困難の極限を体験した聖徒たちはみな、この希望に燃えていた、ということです。
 
終わりに:私たちとヨブとの違い
 
 
・私たちは、主イエスの復活の事実を知っている:
翻って、新約の時代を生きている私たちにこれを当て嵌めましょう。私たちはかなり薄暗い光の中を生きていたヨブと異なり、十字架にかかり死んで葬られ、その死の中から事実的に甦った主イエス様の福音を知っています。そして、それは昔物語ではなく、主は今も生きておられると知っています。

・私たちも復活に与る、と知らされている:
さらに、主は復活の初穂であり、私たちはそれに続くものであるとの素晴らしい光を与えられています。もしそうならば、私たちがどんなに現実の生活で苦難と悲しみを経験しようとも、それに打ちひしがれる筈はありませんし、そうあってはなりません。この復活の希望の中に今日も困難と失望に満ち満ちた社会にあって、希望と喜びに満ちて生きることができます。
 
お祈りを致します。