・絶望から希望への転換: 絶望の極致にある心境を吐露したヨブは、25節から希望のムードに一変します。自分は絶望的ではあるが、自分を贖う方は生きており、私も贖い主と共に死んだ後も生きるものとなるのだという希望を告白します。これは、復活の信仰を表す告白として捉えられ、特にヘンデル作曲のメサイアの「復活」の一部としてソプラノのアリアで歌われます。この転換の鍵となる言葉が「私は知る」です。彼の直面している苦しみがどんなに深刻であったとしても、その深刻さを乗り越えるもう一つの現実がある、それが「私は知る」の言葉に込められています。 |
・贖い主なる神は生きている: ヨブが知っているのは、彼を贖う方としての神です。「贖う」という言葉は、経済的・社会的に苦境に陥った者を、近い親戚のものが救済するという意味です。この社会制度が、「贖い主としての神」と捉えられるようになります(創世記48:16、出エジプト記6:6、イザヤ59:20「シオンには贖い主としてくる」)。神は、ヨブにとって彼を苦境に追い込む非情なお方のように見えるが、実は、身近な親戚として彼を救済して下さるお方だ、と神との親近性を告白しているのです。 |
・贖い主は人間世界に立ち給う: このお方は、人間の苦しみから遠く離れたお方ではなく、苦しみを知り、そこから救済してくださる生きたお方だとヨブは捉えました。「後の日に、ちりの上に立たれること」今は遠く離れたお方のように見えるが「ちりの上」すなわち地上の人間世界と共通地盤に立ち給うお方だと捉えました。 |
・復活に希望をつなぐ: ヨブは続けます。「私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。」(26節)と。自分の肉体は朽ち果てる、しかし、別な形での「肉」は存在し、その中で自分は生きる。その新しい形での肉体から、贖い主を見る、と。正にこれは復活の信仰です。実は、その前の14章においてヨブは、死者の国に行ったならばその先に光があるだろうかと疑っています。そんなヨブでしたが、自分を襲った艱難の極限を意識した時に、そのどん底から復活の信仰を得たのです。いや、復活の信仰に立たなければ、悩みが解決できないというところまで追い込まれたのです。彼が主イエス様を知っていたら、もっと容易にその信仰に立てたかもしれません。しかし、「イエス様」というお名前は知らなかったヨブではありましたが、贖い主がいるはずだ、その方は生きておられる、自分の身は朽ち果てても、その状況の中から贖い主の姿を見つけることができるはずだと信じたのです。 |
・贖い主と親しい間柄を持つ: ヨブは言います「この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。」目と目をもって、親しい間柄として自分は贖い主を見つめることができる。それは、大きな喜びとなる、その希望が苦難の只中のヨブを慰めたのです。 |
・旧約聖書における復活信仰: ここで、ヨブから逸れますが、復活に対する信仰は、旧約聖書において、明確な形ではないが、しっかり捉えられていたことを見たいと思います。主イエスは、復活の信仰がモーセが燃えるしばの経験に表れていると語られました。モーセに表れた神はご自身を「アプラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と自己紹介された(出3:6)、ならば、アブラハム、イサク、ヤコブは神の前に生きているはずだと語られました。また、アブラハムがイサクを捧げた時、イサクは死ぬかもしれないが、生きたイサクを取り戻せると信じていた(創世記22:5)、それは復活の信仰だとヘブルの記者は解説します。その他いくつもの記事がありますが、主イエスに色々な点で反対したパリサイ派でも復活を信じていました。回心前のサウロもそうです。私が言いたいのは、旧約において、復活信仰は表面に表れる確かなものではなかったが、困難の極限を体験した聖徒たちはみな、この希望に燃えていた、ということです。 |