礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年4月10日
 
「なにものよりも愛するか?」
復活後第二聖日
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの福音書 21章1-17節
 
 
[中心聖句]
 
  15   ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。
(ヨハネの福音書 21章15節)


 
聖書テキスト
 
 
1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。
15A 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」15B イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
 
はじめに
 
 
今日は、復活節を越えて第二の聖日です。主イエスはご自分の復活の事実を示すために、色々な場所で、色々な時に、色々なグループに対してご自分を現されました。今日はその内、7人の弟子に対して、ガリラヤ湖でご自分を現された記事を取り上げます。7人と言いましたが、焦点はペテロです。主に対するペテロの愛を確認されたのがこの記事ですが、主はその前にイエスはペテロに羊飼いとしての愛を示されました。
 
A.ペテロに示された愛
 
1.失望と落胆の傍におられた
 
 
・ペテロたち7人が「昔の仕事」へ、しかし、全くの不漁
ヨハネ21章における主の現れの場所はガリラヤ湖、時はイースターの2、3週間後と考えられます。対象はペテロ、トマス、ナタナエル、ヨハネ、ヤコブ、ほかにふたりの弟子(多分ベッサイダの出身のアンデレ、ピリポ)の合計7名です。ペテロを先頭とした7人は、湖に魚とりに行きます。単なる気晴らしではなく、生活の糧を得るためと思います。でも、イエス様に従って船も網も捨てて献身したのに、もう一度、漁師に戻るなんて、と、忸怩たる思いでの漁でした。案の定、雑魚一匹かからなかったのです。がっかりしているペテロたちに声がかかりました。

・主イエスの質問:「魚は獲れたか?」
「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」直訳は「おかずはありませんか?」なのですが、状況から見れば、「魚は捕れましたか?」の方が、意味は通ります。この質問は、漁の有無とよりもっと深いもので、弟子達の心を探る質問でした。つまり、弟子達の失敗、無結実、落胆を見透かしての質問です。主は私達の心の悩み、いらいら、失望、その全てをご存知です。ご存知の上で、「あなたの人生に結実はありましたか、獲物はありましたか」と問うておられます。一旦捨てた筈の船と網を取り上げてもう一度漁師に戻ろうとしている弟子達へ、なぜ魚が取れないのかよーく考えて御覧という気持ちが含まれていた事でしょう。

・ペテロの答え:「何もなし」
ペテロたちはこの問いに対して、悪びれず単純率直に「何もありませんでした。」と答えました。主イエス無しの生涯は如何に無結実であるかを深く悟らせる為の質問でした。キリストなき勤労や勉学、キリストなき人生設計や家庭形成の空しさを主は分からせるために、主は時々こうした道に我らを追いやり、考えて御覧と諭される事があります。これに率直に答えた所に彼等の回復への希望がありました。
 
2.セカンドチャンスを与えた
 
 
「網を下しなさい。」これはセカンドチャンスへの挑戦です。ペテロたちは一晩中働いて疲れ、失望し、イライラしていました。しかし主は不可能と思える事にも挑戦しなさいと語っておられます。私のこの性格を変えたいと思うけれど、どうしても出来ない、とか仕事を変えてみたけれど何やっても駄目だ、とかです。主は「もう一度網を投げて御覧」と語っておられます。つまりこれは、やり直しの可能性、再挑戦のチャンス提供です。今迄、どんなに失敗続きであったとしても、主は再度のチャンスを与えて下さいます。主の言葉に従って網を打つ時、大いなるみ業が表れます。弟子達は岸辺の男の言うことを聞いて、もう一度網を降ろしました。駄目もとでも良い、Try againに賭けたのです。その結果は、何と153匹の大きな魚が一遍にかかったのです。
 
3.素敵な朝食を備えた
 
 
「さあ来て、朝の食事をしなさい。」忘れ得ぬ朝食、というタイトルで皆が思い出を語り合ったら面白いと思います。私にとっての「忘れ得ぬ朝食」はケニアのサバンナで日の出を見ながら頂いたゴージャスな朝食です。今から26年ほど前、テレビ朝日の企画で日本人が20名、ケニア人20名ほどのサファリをしました。早暁、それぞれのテントを出て、サファリツアーが始まりました。子供達はバルーンに乗り、大人達はサファリカーでの動物を見、そのバルーンの着た地点で、バルーンのキャプテン自ら豪勢な朝食を振る舞ってくれました。説明も奮っていて、「これは、いぼイノシシから作ったソーセージ、これは、ダチョウの子どもが生んだ卵を茹でたもの、等々、」半分以上の人々はその大嘘を信じてしまいました。私も信じた方です。ちょっと考えれば冗談と分かる筈なのですが、それが冗談とは思えないほどのステキな朝食でした。日本人は5つの母子家庭から来ていたのですが、そのお母さんの一人が、「私はこのサバンナの朝食は一生忘れないだろう」と呟いていました。さて、サバンナから、ガリラヤ湖畔に話を戻します。

疲れて腹が減っていた弟子達に、主は素敵な朝食を準備されました。寒さに震えている弟子達に、主は炭火を用意していて下さいました。メニューはトーストと焼き魚でした。その魚には、今取れたばかりの魚も入っていました。何と行き届いた羊飼いとしての配慮でしょうか。エリヤが落ち込んだ時も、主は何も咎め立てをせずにパンと水を与え、元気を回復させなさいました。彼等は何も言わずに黙々と食べました。主イエスの愛をじっくりと噛み締め味わっていたのでしょう。また、捨てた筈の船と網に戻ってしまったという自責の念にも駆られていたことでしょう。こら、と叱られた方がずっとスッキリするのに、主が黙ってサーブして下さる姿に、叱責以上の効果があったとも考えられます。
 
B.「愛するか」と問われる主イエス
 
1.個人的質問:他ではない「あなた」が?
 
 
「わたしを愛しますか。」この朝食の後、主はペテロ一人に向かって大切な質問をなさいました。正に、この質問をするための舞台装置が今までの物語だったと言えます。これは非常に個人的な質問でした。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」と主は三度もペテロの名前を、しかも本名を呼んでおられます。他の人はどうあってもあなたはどうか、と切り込んでくる質問でした。主は、私達にも一人一人、〇〇さん、あなたは私を愛していますか、とあなた個人に向けて質問しておられます。
 
2.自己中心を乗り越える愛
 
 
「私を愛するか」という問いは無私の愛を表わすアガパオーでした。ペテロの答えはフィレオーという人間的愛でした。主の三度目の質問はこの動詞に変っています。もちろん彼らの会話はアラム語でなされており、ギリシャ語でなされたわけではないのですが、そのニュアンスを表すためにヨハネは、動詞の違いを示しています。つまり、主イエスは、人間的好き嫌いの愛情を越えて、無私の愛をもって自分を愛してくれますかとペテロに問うておられるのです。しかも、同じ質問を三度も・・・。ペテロは三度繰り返されたことで悩みました。当然ペテロが三回もイエスを知らないと言った事と関連しているでしょう。鈍いペテロでもこれはピンと来た事でしょう。この繰り返しを通して、キリストを本当には愛せない自己中心主義を自覚させなさったと思われます。失敗を思い出させるという意地悪ではなく、主を愛している、愛したいのだが、本当の所は自分が一番大切なのだ、自分を守るためには愛する主をも裏切ってしまう、という自分中心主義が癒し難く心に巣くっていることを自覚させなさるための質問であったと思われます。
 
3.最高の愛:この人たち以上に愛しますか?
 
 
これは、絶対愛を要求する質問です。何物にも勝ってと言う言葉は、文法的には1)この人々が私を愛する以上に、または、2)あなたが他の人々あるいはものを愛するに勝って、と両方に解釈出来ます。或いは双方かも知れません。「他の誰もが私を愛するに勝ってあなたは私を愛するか」と主は、最高の愛を要求なさるお方です。主はその権利をお持ちです。なぜなら、私の為に命を捨てる程愛して下さったからです。この質問は実に私達の心をグサッと探る者ではないかと思われます。
 
4.絶対の愛:他のものに勝って「私を」?
 
 
ペテロの関心事は色々あったことでしょうが、それらすべてに勝って主イエスを愛しますかという問いも含まれています。自分の名誉よりも、地位よりも、安定した生活よりもイエス様が大切と言えますか、という問いです。
 
C. ペテロの答え
 
1.主の問い(アガパオー=無私の愛)とペテロの答え(フィレオー=好き)とにズレはあったが・・・
 
 
主イエスの問いに対するペテロの答えは、100点とまでは言えませんが、彼なりに精一杯のものでした。主の問いは無私の愛を表わすアガパオーでした。それに答えたペテロは「好き」とか「好ましい」を表わすフィレオーという言葉でした。このニュアンスの違いを強調した訳をしてみますとこうなります。「ペテロよ、あなたは、私を熱烈に、絶対的に愛していますか?」
 
2.その時のペテロのベストアンサー
 
 
ペテロは答えました、「主よ、私はあなたに好意をもっています。あなたを尊敬しています。しかし現在はそれ以上の事は言えません。」主の思いとペテロの思いに微妙なずれはありましたが、ペテロはその時のベストアンサーをしました。主はそれを受け入れてくださいました。主の最終的なご目的は、彼等を何とか回復したいという一点に尽きると思います。今も主は同じ心をもって私達に問うておられます。「何よりも私を愛するか。」と。「心を探り、傷つける主の質問がなされなければ、天にも地にも、イエスのそばにいても、何の意味もない。私の本当の姿をおしえるのは、主の質問以外にないのである。」とオズワルド・チェンバースが語っていますが、正にその通りです。
 
D.愛するなら羊を飼いなさい!
 
1.主がその羊に愛を注いだように!
 
 
キリストがご自分の羊であるペテロをとことん愛したことを前提にして、主は、ペテロに勧告を与えなさいます。
 
2.ペテロも愛を注いでほしい
 
 
私があなたに羊飼いであったように、あなたも他の人々に対して、私の羊としてケアをしなさい、と主は語られます。羊に対する愛は、中途半端ではありえません。羊のために命を捨てた主イエスに倣って、私達も羊のために命を捨てるものとなりたいのです。私達にも、主は良い羊飼いとして、愛を示してくださいました。そしてその愛を周りの誰かに示しなさい、と挑戦をしておられます。皆さんはこの語り掛けにどう答えますか。
 
お祈りを致します。