礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年4月17日
 
「生きる幸い、死ぬ幸い」
召天者記念礼拝に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
ピリピ人への手紙 1章20-25節
 
 
[中心聖句]
 
  21   私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
(ピリピ人への手紙 1章21節)


 
聖書テキスト
 
 
20 それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。 21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。 22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。 23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。 24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。 25 私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。
 
はじめに:使徒パウロの死生観の告白から学びたい
 
 
今年の召天者記念礼拝にようこそお出で下さいました。召天者記念礼拝とは、生前私たちと共に信仰生活を送った先輩たちの足跡を偲び、私たちもやがてその交わりの中に入る天国への希望を新たにするための礼拝です。

私は1998年5月に中目黒教会の前身・主都中央教会に再赴任して以来、毎年この礼拝の説教をさせて頂きましたが、今年で19回目となります。今までいろいろな角度から、この課題に触れてきましたが、今年は使徒パウロが自分の死生観を告白している所から、キリスト者の死と生について考えたいと導かれました。

使徒パウロは、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」と告白しています。言い換えると、私の人生の中心はキリストであって、彼と共に生きる人生も幸い、彼と共に死ぬことも幸いと言っているのです。幸せな男です。今日は、彼が何故死ぬことが幸せと言っているのか、また、生きることも幸せと言っているかを、この文脈の中から汲み取ってみます。
 
A.死ぬ幸い
 
1.キリストにお会いできるから
 
 
・ローマ獄中からのピリピ書:
「死」を意識せざるを得ない状況=今日読んだピリピ書というのは、使徒パウロがローマの牢獄から書いた手紙です。悪いことをしたから捕まったのではなく、キリストの福音を嫌う人々の扇動によって暴動の罪で捕まっていたのです。ですから、当然「死」を意識せざるを得ない状況にあったのですが、彼は、もし死がやってきたとしても、それは自分にとって「益」だ、つまり、得だと言いました。

・死を望む:
「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」パウロは、生よりも死がはるかに勝っている理由を23節で説明しています。「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」煩いに満ちている世を去って、愛するキリストとともにいることが(生きているよりも)「はるかに勝っている」と彼は感じていました。それはいわゆる厭世的な投げやりの考えではなく、それだけ愛するキリストと、目と目を合わせて相見ることの素晴らしさを熱望していたからです。彼にとって死というのは、婚約している花嫁が結婚式を迎えるような、わくわくしたゴールだったのです。英語の表現で、「Xさんが亡くなった」ということを”Mr. X went to be with the Lord”と言います。何と麗しい表現ではないかと思います。私が召された時は、「彼は愛する主の許に行った」と死亡通知を出していただきたいと思います。内村鑑三の伝記を読んでいましたら、長女ルツ子さんが若くして召された時のことが記されていました。確かに悲しい出来事ではありましたが、彼はルツ子さんを埋葬した土を天に振りかけて、「ルツ子さん、万歳!」と叫びました。
 
2.死によってキリストの素晴らしさを示せるから
 
 
彼の人生目標は、その生きざま、死にざまを通して「その身によって、キリストのすばらしさが現わされること」でした。実際、彼は、この手紙を書いた7年後、ローマ皇帝ネロによって死刑にされたのですが、その裁判の証言台を自分の伝道の場と考え、「キリストがともにいて下さり、自分を天の御国に救い入れてくださいます。」(2テモテ4:18)という証言を残して召天しました。
 
B.生きる幸い
 
1.多くの人々を助けることができるから
 
 
・生きることはピリピ信徒の益:
死ぬことの幸いを熱望していたパウロではありましたが、22〜23節にこんな迷いを告白しています。「しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。」

・それは必要でもあった:
そして24〜25節に、今は生きることが、この手紙の読者であるピリピ教会の信徒たちのために必要であると記しています。「しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。」このような牧師を持つ信徒は何と幸いでしょうか。このような信徒を持つ牧師は何と幸いでしょうか。パウロだけではなく、私たちすべては、誰かの益のために生きるように、「生かされている」のです。私も、4年前肺がんと心筋梗塞で、危うく命を落とすところでしたが、今私は生かされています。それは、誰かの幸いのために生かされているのだと感じています。私たちも、この命を感謝して、主に捧げた生涯を送りたいと願っています。
 
2.自分の身によってキリストの素晴らしさを示せるから
 
 
・キリストがすべてという人生観:
パウロは「生きることはキリスト」という表現で、人生のすべてはキリストだ、と言い表しています。キリストが彼のすべて、キリストを離れた人生は、考えも及ばないものだと言っているのです。本当に幸せな人だと思います。キリストは、ダマスコ途上で、パウロに出会ってくださった方であり、自分の霊的な命を始めてくださった方であり、彼の人生のテーマであり、彼の拠り所であり、彼の糧であり、彼の生き甲斐、すべてのすべてでありました。

・変えられた人生を通して主の素晴らしさを実証:
パウロは、「自分の身に起きた囚われということ一見不幸な出来事をとおして、キリストが宣べ伝えられていることを喜んでいます。自分の人生目的は、キリストを拡大することとパウロは決めていました。こんな小さな弱い罪人である人間を作り変えて、キリストの福音を伝える宣教師に変えて下さった、そこでキリストの素晴らしさが実証されるのです。私たちもそうです。こんなに短気で怒りっぽかった人間が穏やかな人間に変えられた、これはキリストのおかげだ、ということでキリストの素晴らしさが表れるのです。はっきり言って、素材はどうでもよいのです。どんな素材でも美しく変えてくださることでアーテイストの腕が示されるようなものです。

・「土の器」に盛られた宝:
パウロは、別な手紙の中で、別な表現をしながら同じ思想を語っています。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(2コリント4:7)私たちの存在は、それ自体、何の変哲もない、価値もない、それどころか、壊れやすい、見栄えのしない「土器」のようなものです。しかし、その土器の中にキリストというダイヤモンドを入れています。人々は、このダイヤモンドに注目するが、土の器には目もくれません。それで良いのです。私たちの存在目的は、このダイヤモンドを紹介することなのです。
 
おわりに:先輩たちが抱いた「宝」に目を留めよう
 
 
今日記念している人々は、この宝を抱いて生涯を送った器々です。人間的に見て、様々なことを成し遂げた素晴らしい方もあれば、あまり目立たない方もありました。むしろ、その方が多いように思います。でも、彼らは宝を抱いて亡くなりました。自分のすばらしさではなく、キリストの素晴らしさを私たちにお土産として残していかれました。私たちも、彼らに倣って、生きるのはキリスト、死ぬことも益、という死生観をしっかりと捉えたいと思います
 
お祈りを致します。