礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年5月1日
 
「聖霊によってバプテスマを授ける方」
ペンテコステに向かう
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨハネの福音書 1章26-34節
 
 
[中心聖句]
 
  33   聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。
(ヨハネの福音書 1章33節)


 
聖書テキスト
 
 
26 ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。27 その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」28 この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。
29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。30 私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。31 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」
32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。33 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』34 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
 
はじめに:ペンテコステに向かう
 
 
・ペンテコステとは:
「第五十」。過越祭から50日目で大麦の収穫を祝う祭=二週間後、5月15日にペンテコステを迎えます。ペンテコステとは「第五十」という意味で、「五旬節」とも訳されます。五旬節はユダヤの三大祭の一つで、過越の祭の最終安息日の翌日(日曜日)から7週間を数えた安息日の翌日、つまり、50日目に大麦の収穫を祝う祭りが始まります。これがペンテコステです。過越し祭はパレスチナのユダヤ人がこぞって集まる祭りであるのに比べて、ペンテコステは外国にいるユダヤ人が数多く集まって来る祭りでした。早春の過越しよりも、晩春のペンテコステの方が旅行が楽だったからです。

・主イエス復活から50日目、教会の誕生を記念:
主イエスは十字架の三日後に甦り、その40日後に天に昇り、その10日後、即ちペンテコステに約束の聖霊を注ぎました。その結果教会が誕生しました。つまり、教会の誕生日です。その最初のペンテコステにおける最大の出来事は、「一同が聖霊に満たされた」ことです。

・「聖霊によってバプテスマを授ける方」との言葉に注目:
その日に向けて、今日は「聖霊によってバプテスマを授ける方」というヨハネ福音書のみ言葉を取り上げました。さて、この言葉は、@誰が語ったのか、Aどんな状況で語ったのか、B誰について語ったのか、Cその意味されていることは何か、D私にとってどんな意味があるのかの5つについて考えます。
 
1.誰が語ったのか
 
 
・ヨハネ(「悔い改めのバプテスマ」でリバイバル):
これは、「バプテスマのヨハネ」が語った言葉です。ヨハネは、主イエスが公の活動をする数年前から荒野で叫ぶ預言者として活動を始め、その名声はパレスチナ全土に鳴り響いていました。

・メシヤへの道備え:
特に、彼は、来るべきメシヤ(キリスト)の道備えとして「悔い改め」のバプテスマを施しました。罪に対する厳しい弾劾の言葉にも拘らず、人々は神の御声を聞こうと集まってきました。ここで記されたのは、バプテスマのヨハネが、ヨルダン川の下流、死海の入り口に近い所でバプテスマを施していた時のことでした。
 
2.どんな状況で語ったのか
 
 
・エルサレムの「権威者」が派遣した調査団:
ヨハネの名声は、当時の政治・宗教の中心地であるエルサレムまでなり轟いていました。心配した宗教界の大御所の祭司たちが、人々を派遣して、バプテスマのヨハネとはいったい何者なのかを調査させたのです。その調査員が、「あなたは一体何者なのか」と単刀直入に尋ねました。それに対する返答の一部がこの言葉です。この質問は、底意地の悪い動機を含んでいました。つまり、「お前は、何の権威をもって、バプテスマというような大それた宗教儀式を行っているのか」という非難です。

・ヨハネの答え(「私はキリストではない」):
ヨハネは、否定的に「自分はメシヤ(キリスト)ではない」と明確に答えたのち、誰がメシヤなのかという大切なポイントに入ります。
 
3.誰について語ったのか
 
 
・それまで未知の人物:
自分はメシヤではない、と否定した後でヨハネは、「あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」(26〜27節)と一般には知られていない人物が登場することを示唆します。

・「神の小羊」としてのイエス:
この翌日現れたのが、ナザレのイエスです。ヨハネはイエスを指さして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(29節)と叫びました。この方こそ罪の身代わりになって人々の罪を取り除く救い主だと示したのです。

・聖霊が鳩のように降った方:
さらに、ヨハネは「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」(32節)と言って、イエスがバプテスマを受けた時、聖霊が鳩のような形で彼に宿った方であると証言します。

・聖霊によるバプテスマを授ける方:
その後で、「この方が聖霊を受けたように、この方が人々に聖霊によってバプテスマを授ける方なのだ」(33節)と素晴らしい宣言を致します。
 
4.聖霊によってバプテスマを授けるとは?
 
 
・「悔い改め」以上の業:
ヨハネは水によるバプテスマを施していました。これは、「悔い改め」の徴としてのバプテスマです。これとても、決して小さなことではありません。ヨハネは、悔い改めについて非常に具体的に示唆をしています。取税人については、決まり以上の金を横取りしてはいけないとか、兵士たちについては、その権力を乱用してはいけないとか、罪の行為に関して深い反省とそこからの転換を勧めています。主イエスの授けるバプテスマはそれ以上であることをヨハネは語ります。

・確かな業:
イエス自身に聖霊が下った同じような確かさをもってバプテスマを施す、というのです。これは、「御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった」と聖霊がイエスの上に目に見える形で宿りなさったと同じようにはっきりと人々に聖霊が宿ることを示唆します。鳩という鳥は、聖書の中で概して良いイメージで紹介されています。例として「鳩のように素直でありなさい」( マタイ10:16)という言い方の中に、単純さ、穏やかさ、無垢を示します。イエスこそ、イザヤが預言したメシヤであると示されたのです。メシヤについてイザヤは「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」(11:2)と言います。また、「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。」(61:1)と。

・徹底した業:
共観福音書によれば、キリストは、聖霊(と火)によるバプテスマを授けるお方である、と紹介されています。マタイはこう言います、「私(ヨハネ)は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:11〜12)と。バプテスマの語意は「浸すこと」です。聖霊が注がれ、その対象者の人格の隅々まで影響力と感化を与える状態を指します。人の心を全ての罪から清め、心を恵と愛とに満たすバプテスマなのです。

・ペンテコステにおいて実現:
主イエスがそのご在世中に「バプテスマを聖霊によって誰かに授けた」という記録はありません。しかし、十字架と復活を終えたペンテコステにおいて俄然聖霊が注がれ、弟子たちは変貌しました。聖霊のバプテスマは、贖いの業のステップなしには実現しなかったのです。ヨハネ7章で、主イエスは彼を信じる者の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる(38節)と宣言されました。この宣言へのコメントとして福音書記者ヨハネは、「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(39節)と記しています。繰り返しますが、聖霊の注ぎは、キリストの贖いの成就を前提としてなされるものなのです。
 
5.私たちにとってどんな意味があるのか
 
 
主イエスが信じるものに聖霊によるバプテスマを授けたのは、ペンテコステが始まりでした。使徒の働き2:32〜33に「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」とペンテコステにおける聖霊の注ぎは主イエスの業であると解説されています。このペンテコステにおける注ぎは、聖霊によるバプテスマの始まりであって、終わりなのではありません。

さて、聖霊は、どのようなステップで今働いておられるでしょうか。

・罪を示す:
聖霊は罪を示し、キリストを主と指し示す働きをすべての人にしていて下さいます。「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:7〜8)私たちの心の中に、どんな形であれ「罪」が示されたならば、もう聖霊は働いておられるのです。その声を大切にしなければなりません。

・信仰に導く:
聖霊はキリストを示し、キリストへの信仰へと私たちを導きます。「私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(1コリント12:3)あなたは、主イエスを救い主と信じていますか。そうならば、その信仰は聖霊の働きによるのです。私たちの知的な納得以上のものです。

・内に住む:
キリストを信じる者には聖霊が宿っています。時々その自覚が乏しかったり、忘れてしまうことはあるでしょう。しかし、確かに聖霊は心に宿っておられます。パウロは、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(1コリント3:16)とコリント教会の信徒に語り掛けています。自覚が深い時も浅い時も、聖霊は心に宿っておられます。

・心に満ちる:
聖霊は心に宿り給うだけでなく、満ち給うお方です。「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:4)と、最初の聖霊の満たしが語られています。また、「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と継続的な満たしの必要が語られています。聖霊が部分的に支配されるのではなく、時々支配されるのでもなく、いつでも全面的に影響を与える状態を聖霊の満たしと言います。アボット博士によると、「聖霊に満たされるとは、聖霊のご人格が信仰者の人格を所有し、支配し、指導し給うこと」であり、さらに「満たしの時とは、人生の支配権が全く神に明け渡されるその時」です。その始まりをバプテスマという表現で聖書は語ります。
 
終わりに:聖霊の影響と支配に明け渡そう
 
 
皆さんは聖霊を受けていますか。その影響と支配のもとに明け渡していますか。その明け渡しをはっきりとさせていただいて、聖霊の豊かな恵みの中に歩ませていただきましょう。
 
お祈りを致します。