礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年8月7日
 
「眠れぬ夜の不思議」
エステル記連講(6)
 
竿代 照夫 牧師
 
エステル記 6章1-14節
 
 
[中心聖句]
 
  1   その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。
(エステル記 6章1節)


 
1.(前回の要約)大胆な接近(5章)
 
 
・禁令に背いて王に接近:
エステルは自分の命を懸けて王様に直訴しようと決断します。王様の許可なく近づくことは、たとい王妃であっても死刑に値することでしたが、彼女は言います、「我もし死ぬべくば死ぬべし」

・しかし、王の好意を得る:
これは、王宮の習慣ではなかったのですが、王様は、手にしていた金の笏を自然に差し伸べました。

・宴会に招待:
エステルは何と答えたことでしょう。「では、王様、私の願いは・・・」といって、唐突にユダヤ人救済の話題を出したら、王様がどう反応するかをちゃんと計算していましたから、敢えて本心は出さず、小さなリクエストを出すにとどめます。「王様、よろしければ、今晩私の宴会にお出でいただけないでしょうか。それも、ハマン様とご一緒に。」なんと賢いリクエストでしょうか。

・ハマンの怒りと悪意:
ハマンはお辞儀をしないモルデカイに腹を立てますが、我慢して家に戻ります。帰宅後妻の提案により高い木を立て、モルデカイをそこで吊るす計画を立てます。
 
2.眠れぬ夜の不思議(1〜4節)
 
 
「その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。その中に、入口を守っていた王のふたりの宦官ビグタナとテレシュが、アハシュエロス王を殺そうとしていることをモルデカイが報告した、と書かれてあるのが見つかった。そこで王は尋ねた。『このために、栄誉とか昇進とか、何かモルデカイにしたか。』王に仕える若い者たちは答えた。『彼には何もしていません。』王は言った。「庭にいるのはだれか。」ちょうど、ハマンが、モルデカイのために準備した柱に彼をかけることを王に上奏しようと、王宮の外庭にはいって来たところであった。」
 

色々な出来事がその晩に起きます。その一つ一つを辿ると、正に神の奇跡としか言いようのない、摂理の御手が働いているのを感じます。

・王の不眠:
宴会で快く酔った王がそのまま眠るのが普通なのに、その晩眠れなかったことがその一つです。エステルが本心を明かさなかったことが気になったのか、理由はわかりませんが、ともかく王は眠れません。その夜というのは、エステルの側から言うと、本心を未だ明かさないで、明日の番に本当の願いを打ち明けようと待っていた夜でした。ハマンの側から言うと、モルデカイの態度に業を煮やして、明日処刑を願いでる作戦を練っている夜でした。アハシュエロス王は、そんな二人の厳しい駆け引きがなされていることは露知らず、ごうごうと寝る積りでベッドに入りましたが、神は王に不眠の夜を与えられました。ご目的があったからです。

・王室日誌の朗読:
眠ることができなかった王は、催眠剤として他のいろいろな方法を用いないで、眠気を催すような記録を読ませたことが不思議の第二です。私たちも、夜眠れないときは、羊が一匹、羊が二匹・・・と数えることがありますし、皆さんの中には、竿代先生の説教テープを聞くとよく眠れるなんて人もいるでしょう。ともかく、アハシュエロス王は、単調な王宮日誌を読むことで眠りにつこうとしたのです。

・モルデカイの記事:
その王宮日誌の一文が王の心に留まりました。王を暗殺しようとする計画があったこと、それをモルデカイが察知し、エステルを通じてそれを警護官に通報し、警護官がその暗殺者を捉えて処刑したことが記されていました。この記事にこの夜ぶつかったことは、正に奇跡以上のものでありました。

・無表彰を知る:
王は、すぐに尋ねます。「このために、栄誉とか昇進とか、何かモルデカイにしたか。」王に仕える若い者たちは答えました。「彼には何もしていません。」モルデカイにはそのとき、表彰状も、金一封も上げなかったことが判明しました。今申し上げた一つ一つの出来事がタイミングよくこの時に発生したとは驚くべきことです。事柄としては大したことない、日常茶飯事のことばかりでした。しかし、これらの出来事がこの場所で、この時間通りに再生することはとてもあり得ません。正にすべてのことが相働いて益となるのです。

・「表彰を今」と考えた:
もう一つの不思議は、王がこの時に表彰しようと思い立ったことです。明け方近い時刻ですから、今日の日中の仕事にしてもよかった、明日でも明後日でもよかった、それなのに、王は今やろうと考え、実行したのです。それが一歩でも遅れていたら、ハマンに先手を打たれてしまったかもしれないからです。

・ハマンの早朝出仕:
5章の出来事を思い出していただきたいと思います。前の夜ハマンはモルデカイを処刑するため、自分の家の庭に20メートルもの巨大な柱を立て、その許可を得るためにいつもより早く王宮に出仕していました。王は尋ねます。「庭にいるのはだれか。」4節には、「ちょうど、ハマンが、モルデカイのために準備した柱に彼をかけることを王に上奏しようと、王宮の外庭にはいって来たところであった。」なんというタイミングでしょうか。これらも神の物語の妙味です。もし数秒の差で、ハマンの発言が先だったならば、情勢は全く違っていたことでしょう。ここにも神のご配剤の素晴らしさを見る思いです。
 
3.大逆転(5〜11節)
 
 
「王に仕える若い者たちは彼に言った。『今、庭に立っているのはハマンです。』王は言った。『ここに通せ。』ハマンがはいって来たので、王は彼に言った。『王が栄誉を与えたいと思う者には、どうしたらよかろう。』そのとき、ハマンは心のうちで思った。『王が栄誉を与えたいと思われる者は、私以外にだれがあろう。』そこでハマンは王に言った。『王が栄誉を与えたいと思われる人のためには、王が着ておられた王服を持って来させ、また、王の乗られた馬を、その頭に王冠をつけて引いて来させてください。その王服と馬を、貴族である王の首長のひとりの手に渡し、王が栄誉を与えたいと思われる人に王服を着させ、その人を馬に乗せて、町の広場に導かせ、その前で「王が栄誉を与えたいと思われる人はこのとおりである。」と、ふれさせてください。』すると、王はハマンに言った。『あなたが言ったとおりに、すぐ王服と馬を取って来て、王の門のところにすわっているユダヤ人モルデカイにそうしなさい。あなたの言ったことを一つもたがえてはならない。』それで、ハマンは王服と馬を取って来て、モルデカイに着せ、彼を馬に乗せて町の広場に導き、その前で『王が栄誉を与えたいと思われる人はこのとおりである。』と叫んだ。」
 
・王のハマンへの質問(「栄誉を与える方法は?」):
アハシュエロス王は尋ねます、「王が栄誉を与えたいと思う者には、どうしたらよかろう。」王の質問は単純でして、モルデカイをどう表彰したらよいかということだけだったのです。ハマンも、適当な形で答えれば、それで済んだかもしれません。

・「うぬぼれた」ハマンの返事(「王のような栄誉を!」):
ハマンは愚かにも、表彰されるのは自分しかないと勝手に思い込んで、最大級の報償を提案します。「王が着ておられた王服を持って来させ、また、王の乗られた馬を、その頭に王冠をつけて引いて来させてください。その王服と馬を、貴族である王の首長のひとりの手に渡し、王が栄誉を与えたいと思われる人に王服を着させ、その人を馬に乗せて、町の広場に導かせ、その前で『王が栄誉を与えたいと思われる人はこのとおりである。』と、ふれさせてください。」これが自分自身に向けられる栄誉と考えていたとしても、やり過ぎです。そこまで「王に代わるような栄誉」を自分に与えることは身の破滅であるという常識、或いは歯止めは効かなくなっている、正にナルシストの典型です。

・王の驚くべき応え(「それを、モルデカイに!」):
アハシュエロス王はハマンに対して、即刻の、しかも短い命令を与えます。「あなたが言ったとおりに、すぐ王服と馬を取って来て、王の門のところにすわっているユダヤ人モルデカイにそうしなさい。あなたの言ったことを一つもたがえては(直訳=落としては)ならない。」王は、あまり深く考えないで、この命令を下したように思われます。特にモルデカイとハマンとの確執を知っていてモルデカイの肩を持とうとか、この際ハマンを失脚させてやろうとかという深い考えではなく、単に、ハマンの提案はすばらしい、その通りやりなさいと命じたのです。モルデカイのことをユダヤ人と認識していたことも不思議です。自分が出したユダヤ人抹殺計画にモルデカイが含まれていたことさえすっかり忘れている脳天気ぶりです。こんないい加減な王ではありましたが、「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」(箴言21:1)とありますように、アハシュエロスの心をも主は司っておられました。

・ハマンの実行:
王の命令は余りにも単純で、即刻的で有無を言わさない権威あるものでしたので、ハマンは議論や質問を差し挟む時間もなく、「はい」と言わざるを得ませんでした。腸が煮えくり返るような思いを抑えつつ、モルデカイの馬を引く露払いの役、モルデカイを賛美する先導役を務めさせられたのです。
 
4.ハマンの悲嘆(12〜14節)
 
 
「それからモルデカイは王の門に戻ったが、ハマンは嘆いて、頭をおおい、急いで家に帰った。そして、ハマンは自分の身に起こった一部始終を妻ゼレシュとすべての友人たちに話した。すると、彼の知恵のある者たちと、妻ゼレシュは彼に言った。『あなたはモルデカイに負けかけておいでですが、このモルデカイが、ユダヤ民族のひとりであるなら、あなたはもう彼に勝つことはできません。きっと、あなたは彼に負けるでしょう。』彼らがまだハマンと話しているうちに、王の宦官たちがやって来て、ハマンを急がせ、エステルの設けた宴会に連れて行った。」
 
・嘆きつつ帰宅:
ハマンが悲嘆にくれ、しょぼしょぼと家に帰った姿が何とも哀れです。

・家族も嘆く(「モルデカイに負ける」):
ハマンの妻及び親族一同は、モルデカイ処刑の「朗報」を待っていたのですが、その日の町の様子が何となく伝わってきていましたので、自分たちの運命の傾きに気付きます。そして憔悴しきって帰ってきたハマンの姿に決定打を受けるのです。「あなたはモルデカイに負けかけておいでですが、このモルデカイが、ユダヤ民族のひとりであるなら、あなたはもう彼に勝つことはできません。きっと、あなたは彼に負けるでしょう。」これは、慰めでも何でもなく、単なる諦めの境地を告白したセリフです。恐らくゼレシュは、自分たちアマレク人とイスラエル人との何世紀にも亘る戦いを背景に、その戦いの終わりを見切ったのではないかと思われます。ハマンとその家族が運命の悲嘆に暮れる間もなく、王様からの招待の使いがやってきました。これで万事休すです。
 
おわりに:すべての事柄を働かせて益となさる神を信じよう
 
 
私たちの人生に起きるすべての事柄、たといそれが、王の不眠という微細な事柄に至るまで、すべては主の支配であることを認めて、主の良きご計画を信じ、主に従い、主に感謝しましょう。ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」この御言葉は、何が起きても最後にはハッピーエンドになるという自分勝手な、また、楽天的な考え方の根拠の使われることがありますが、この文章をよく考える必要があります。神のご計画というものが存在し、私たちの人生の試練や困難という要素もすべて、その目的に向かって用いられるという、神ご自身を中心に置いた人生観を示すものです。
 
お祈りを致します。