礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年9月11日
 
「見たことはないけれども愛する」
ペテロの手紙第一 連講(1)
 
竿代 照夫 牧師
 
ペテロの手紙第1 1章1-12節
 
 
[中心聖句]
 
  8   あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
(ペテロの手紙第一 1章8節)


 
はじめに(第一ペテロ書は、異教社会のプレッシャーの中に生きていたキリスト者への励ましと指針=今日のキリスト者にも大きな励まし):
 
 
今日から暫く、第一ペテロ書をともに学んでいきたいと思います。この書は、異教社会の様々な圧迫を感じながら生きていたキリスト者全体に対する励ましの手紙です。その環境にあって、ペテロがどのように福音を理解していたか、その社会にあってキリスト者としてどう生きるべきかが生き生きと記されています。現代のキリスト者にとって様々な指針を汲み取ることができる大切な書と思います。

「ペテロの手紙第一」の概要は、別紙プリントに記しましたのでご参照ください。参考までに、プリントの内容をここにコピーします。

※別紙メモ<「ペテロの手紙第一」について(PDF版)>は、こちらをクリックして下さい。
 
1.挨拶(1〜2節)
 
 
「1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、2 父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」
 
・差出人(イエス・キリストの使徒ペテロ:多分ローマから):
ペテロは自分のタイトルとして、「イエス・キリストの使徒」とだけ単純に紹介します。「使徒」(「遣わされたもの」という意味)とは、キリスト在世当時から仕え、キリストによって任命された教会指導者という限定的な意味です。ペテロはこの手紙を書いたとき、ローマに滞在していたようです。5:13には「バビロン」に居ると示唆されていますが、殆どの聖書学者は、このバビロンが文字通りの中東のバビロンのことではなく、ローマを表す比喩的表現と考えています。

・宛先(ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤにいるキリスト者全般:地図参照)
手紙のあて先は、「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って」いる人々です。パウロの手紙のように、特定の教会または個人に、特定の必要を感じて送ったものではなく、広くクリスチャン一般にあてられた手紙です。このような手紙を、「公同書簡」(公同の教会に向けて書かれた一般的な手紙という意味)と呼びます。さて、地図を見てください。この5つの地名は、ローマ帝国の一部でトルコ半島(現トルコ共和国)にある4つの属州(ポントとビテニヤは一つの州)を示します。これらの諸州は、半島をぐるっと時計回りに一周する感じです。おそらくその順序でこの手紙が回覧されたのでしょう。

・「散って寄留している、選ばれた人々」:
その人々は「散って寄留している、選ばれた人々」です。特定の地点から「散って行った」人々(ディアスポラ)というのではなく、「地上では旅人、寄留者として」生きたアブラハムのように、天国市民との意識をもって生活したクリスチャンたちを指します。歴史的に言えば、AD50年前後にパウロが開拓した教会が殆どです。これらの諸教会は異邦人が大多数、ユダヤ人が少数の混合でしたから、「選ばれた」という言葉が必ずしもユダヤ人を指すわけではありません。

・選ばれた者(み父が予め知り、聖霊が聖め、キリストが血を注いだもの):
2節に、その選びの内容が記されています。ここに三位一体の神がそれぞれの役割で登場します。み父は深い摂理のみ心をもって「予め」知り給うお方、聖霊は聖めを当てはめるお方、キリストはその贖いの血を注いで、ご自分に従う民を招き給うお方として、私たちの救いのために協力して働きなさるのです。

・祝祷(「恵みと平安」の豊かさを祈る)
これは、手紙文の定型ともいえるような祈りです。「恵みと平安」は、どんな場合にも、私たちの必要な神の賜物です。
 
2.父なる神への賛美(3〜5節)
 
 
「3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。4 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」
 
・父なる神の憐み(私たちの願い、努力の結果としての救いではない)
「主イエス・キリストの父なる神」への賛美がささげられます。その理由は、キリストを死者の中から復活させ、私たちを新生に導き、生きた望みを持つものとしてくださったからです。こうした救いの計画の原動力は、神の大きな憐みの故です。私たちの願い、努力の結果としての救いではなく、神の憐みゆえの救いです。

・天国での相続財産:
神は、キリストの復活に重ね合わせて私たちを新しく生まれ変わらせ、また、生きた望みを与えてくださいました。「生きた望み」とは、天国での相続財産が私たちのためにリザーブされていることです。よくレストランなどで、窓側に良い席に座ろうとすると「予約済み」という札が立っていたりします。それと同じで、天国での一番素晴らしい席が「予約済み」なのです。その相続財産については「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」という三つの形容詞が使われています。時が経過で消えてしまうようなものでないという点で「朽ちることのない」財産です。地上の銀行でしたら、ある日倒産してしまうということがあり得ますが、天国銀行に倒産はありません。私たちの資産は、罪の影響によって「汚れることのない」清いものです。また、インフレによって価値が薄くなるというようなものではありません。ですから「消えて行くこともない」のです。ペテロは、このような相続財産が、この手紙の受け取り手であるクリスチャンすべてのものである、ということを強調するために、人称を「私たち」から二人称に変えて「これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」と励ましています。ヘブル書記者は、アブラハムが信仰によって生きた、その故にテントによる仮住まいの生活を敢えて選んだ、それは、天国の相続財産を目指して生きたからだと解説しています(へブル11:9、13〜16)。ですからペテロが、この手紙の受け取り手のことを「散って寄留している、選ばれた人々」(2節)と表現しているのは、アブラハムの実例を念頭に置いているからと思われます。

・キリスト者の守り(私たちは、神の守備兵によって守られている、詩篇34:7)
5節は、キリスト者の現在と将来の祝福を述べます、「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」私たちの現在は、私たち自身の信仰と、神の御力によって守られています。この「守られている」との表現は、軍隊用語で「守備兵によって安全に、注意深く見守られている」という意味です。詩篇34:7に、「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」と約束されています。何と力強い約束でしょうか。皆さん、これを信じ切れますか。当時のクリスチャンたちは、周りの異教社会から変わり者扱いにされて虐められ、ローマ帝国からの迫害が忍び寄ってくる中で、決して安穏な環境ではありませんでしたから、この励ましが必要だったのです。この神の力による守りは、自動的に起きることではなく、キリスト者たちの信仰に呼応するものとしての守りなのです。

・キリスト者の将来(「救いの完成」が待っている)
先ほどは、天国における相続財産について語ったペテロは、終わりの時に実現するはずの「救い」について言及します。現在救われていないわけではありません。それは9節に記されています。5節で言っている救いは、キリストの姿に似るものとなる「救いの完成」について言及しているのです。現在のキリスト者は当然、このために備えられています。
 
3.試練の中の喜び(6〜7節)
 
 
「6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、7 あなたがたの信仰の試練は、火で精練されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」
 
・信仰の試練(それは「称賛と光栄と栄誉」に導く)
この手紙の受け取り手であるアジヤのクリスチャンは、現在的にはユダヤ人が扇動する地方的迫害、異教社会からの疎外といじめ、を経験していましたし、ネロ皇帝が始めた迫害の嵐が静かに忍び寄ってきました。そんな中でも、キリスト者たちは、「大いに喜んで」いました。というのは、迫害と試練は、キリスト再臨の時「称賛と光栄と栄誉」に導くものであったからです。

・試練の中の喜び(試練はより豊かな恵みへと導く)
試練そのものが、信仰を試し、より一層の恵みへと導くものでした。純金が、試練の火によって純粋なものとなるように、信仰の試練は金よりもの尊いものだとペテロは積極的に捉えています。事実、この手紙を書いてしばらく後、ペテロ自身が殉教の死を遂げるのですから、この言葉の重みを感じます。
 
4.言葉で表せない喜び(8〜9節)
 
 
「8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
 
・キリストへの愛(命を捨てたその愛を感じて愛し返す)
ペテロは、キリストのご在世当時の記憶によって、大きな恵みをいただいた男ですが、その記憶に支えられているのではなく、現在も生き給う復活のキリストを捉えていました。彼の驚きと喜びは、アジヤのクリスチャンたちが、主イエスとの直(じか)の交わりの体験を持たずして、キリストを活けるお方としてとらえ、愛していることでした。「イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており」と、彼らの信仰の素晴らしさを讃えています。この「愛している」とは、キリストが私たちのために命を捨てたその愛を感じて愛し返すことです。

・キリストへの信仰(見ずして信じる、ヨハネ20:29)
「信じており」との表現は「信頼する」「確信をそこに置く」「依存する」という全面的な信頼関係を意味している言葉で、自分自身により頼まず、あらゆる点でキリストにより頼む心の営みを示す言葉です。恐らく、ペテロは、これを記したとき、復活の主がトマスに語られた言葉を思い出していたことでしょう。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)

・栄えに満ちた喜び:
「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」とは、天の栄光を注ぎ込まれた魂として、喜び踊っているさまを表します。

・これらは、魂の救いを経験していることから生まれる:
そのようなキリスト経験は、魂の救いを経験していることから生まれるものです。この9節の「得ている」とは現在的経験です。
 
5.預言され、成就した救い(10〜12節)
 
 
「10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」
 
・預言されていた救い(預言者たちは、来るべきメシヤを期待し、調査した)
ペテロはここで、キリストの救いが長い間預言者たちによって待たれていたことであった、しかも、彼らが予見したよりもはるかに豊かな恵みであった、という驚くべき真理を示します。預言者たちは、キリストがいつどのような形で表れ、救いを全うするかを待ち焦がれ、詳しく調べていたのです。

・天使たちも、固唾を呑んで預言の成就を見守っていた:
メシヤの到来は、預言者たちだけではなく、天使たちも今か今かと待ち望んでいた大いなる救いなのでした。

・預言は現実のものとなった:
「そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。」預言が現実のものとなったということは、なんと驚きと喜びを齎すことでしょうか。ペテロは、今迫害に遭って、世の人々からはいじめられたり、馬鹿にされたりしているクリスチャンたちが,自分たちの持っている福音の素晴らしさをもっともっと深く理解してほしい、という気持ちを表しています。
 
おわりに:今与えられている恵みを、もっともっと高く値積って感謝しよう
 
 
第一世紀のクリスチャンだけではなく、21世紀に生きるクリスチャンも、今与えられている福音の価値を深く感謝しましょう。見たことはないけれども心に住み、私たちを愛してくださるイエス様を愛し返しましょう。見ることはなくても、確かなお方として私たちの人生を導き給うイエス様により頼んで今週も生き抜きましょう。
 
お祈りを致します。