礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年9月18日
 
「夢見る老人」
愛老聖日に因み
 
竿代 照夫 牧師
 
ヨエル書 2章28-32節
 
 
[中心聖句]
 
  28   その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
(ヨエル書 2章28節)


 
全テキスト
 
 
28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。30 わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。32 しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。
 
はじめに:愛老聖日に歓迎
 
 
今年の愛老聖日に、ようこそお越しくださいました。一昨年から愛老会の年齢を75歳以上と、5年引き上げさせていただきました。今年の会員名簿から75歳以上の方を拾いますと、合計86名です。今年(正確には、昨年9月から今年の9月にかけて)75歳になられた方が10名おられます。新愛老会員として歓迎申し上げます。しかし、愛老会86名の内、その半数近くが今日の礼拝にご出席できないとお返事を頂いています。でも、普段なかなか礼拝に出席できない方で、今日のために体調を整え、頑張ってお出でくださった方々のお顔を見ることができて、嬉しく思います。私も再来月、晴れて(?)愛老会委員になります。そのようなことを思いめぐらしつつ、今日はヨエルの預言から、「年寄りは夢を見る」というみ言葉から励ましをいただきたく思います。
 
1.ヨエル預言の背景
 
 
・ヨエルの時代:
ヨエルの人と時代は明らかではありませんが、預言の内容から判断して、BC830頃、ユダ王国のヨアシの時代ではなかったかと思われます。その時代に、蝗が大発生し、農作物が大きな被害を受けました

・外敵による侵略を予見:
預言者は、この自然の大災害の中に、将来的に起こる外敵の来攻と侵略の絵(1:6、2:4、5)を見ました。今経験している災害は、神に対する不服従への刑罰であり、また、将来への警告として与えられたのだ、と預言者はいいます。

・国民的悔い改めを呼びかける:
この警告に基づき、ヨエルは国民的悔い改めを求めます。集会を開き、すべての国民がこぞって神の前にへりくだるようにと説教をします。

・国民的な回復を預言:
悔い改めの結実として、ヨエルは物質的祝福を約束しました。それは二通りであって、@豊かな収穫(穀物、葡萄酒、油、牧草、すべての農業の分野で豊作が来る)、A外敵からの守り(20節=北からの敵が撲滅される)を約束します。しかし、それらに勝って、ヨエルは霊的な祝福を約束します。それが聖霊の注ぎです。
 
2.聖霊の注ぎの預言
 
 
・「すべての人に」注がれる(年齢、性別、社会的地位を問わず):
すべての人に聖霊が注がれる、という思想は旧約時代には例外的でした。民数記11:29には、モーセが、「すべての人に聖霊が注がれて、すべての人が預言者となればよいのに」と祈っているところがあります。実はこれは、革命的な思想でありました。ヨエル預言も「すべて」を強調するために、息子、娘、年寄り、若者、しもべ、はしため、と注がれる対象者を列挙します。立場や、年齢や、性別や、社会的地位には全く関係がありません。もし、あるとすれば、真実に求めているかいないかだけです。「すべて主を呼び求めるものは救われる」(32節)と記されているからです。これは、新約の時代に、神に選ばれたユダヤ人であるかどうか、自由人であるか奴隷であるか、男性であるか女性であるかを問わずに、キリストの恵みが豊かに注がれるそのすばらしい出来事の預言です。神の恵みは、夏のスコールが、すべてのものに等しく注がれるように、今ここにいるすべての人に等しく注がれます。教会に長く通っているとか、どれくらい奉仕したとか、献金したとか、全く関係ありません。背景や履歴も全く関係ありません。神の目の前には、すべての人は、価値高い、尊い存在なのです。

・それは「注ぎ」である(聖霊の感化に浸されること):
ヨエルは、聖霊が注がれると預言しています。注ぐと言う行為は、聖霊のお働きが制限なく、豊かに、フルに私達に与えられることを意味します。僅かの分量が振りかけられるような祝福ではなく、南方のスコールのように全身が浸るほどの徹底的な満たしです。中途半端な業ではなく、私達の心に注がれる、私達がその恵みに浸る、という行為です。具体的にいえば、聖霊の思いが私達の思いとなり、聖霊の願いが私達の願いとなるまでに一体化することなのです。魚の粕漬けを頂くことがあります。酒粕のうまみと言うものが、長い時間を掛けて魚の肉に浸りまして、得も言われないほどの美味となります。私達の性質が、御霊の感化によってひたひたに浸されて、得も言われないほどのキリストの美味を蓄えるのです。

・それは、夢、幻、預言という形で表れる(神のみ心がはっきりと示される):
ヨエルは聖霊の注ぎが夢、幻、預言といった表われをすると預言します。夢、幻、預言に共通する要素は何でしょうか。それは、神のみ心が、曖昧な形ではなく、はっきりと示され、それに従う民が多く起されることです。

・この預言はペンテコステにおいてフルに成就した:
ヨエルの預言が文字どおり成就したのは、ペンテコステにおいてでありました(使徒の働き2:16―21)。この時、ペテロとその仲間達は、キリストの福音のすばらしさを、明確なことばを持って、しかも大胆に語ったのです。なぜペンテコステまで待つ必要があったのでしょうか。それは、キリストによる贖いが文字どおり歴史の中で実現しなければければならなかったからです。ヨハネ7:38、39に「イエスは未だ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかった」と記されています。つまり、準備が整うのには時間が必要だったのです。水道に水を注ぐ前に、配管工事がなされなければならないように、聖霊の注ぎの前に、救いの備えが十字架によって完備されなければならなかったのです。ペンテコステの50日前にキリストが十字架にかかって贖いを成し遂げ、復活によってその贖いを保証し、その40日後キリストが天に昇り、神の右に座し、約束の御霊を人々に注ぐというインフラの完全な準備を完了されました。その前でも後でもいけません、丁度この日でなければならず、この日がベストタイムだったのです。

・それは教会歴史で繰り返された:
そして、そのような顕著な聖霊の注ぎは、教会歴史の中で繰り返されてきました。それをリバイバルということばで表わすことができます。18世紀のイギリスにおいて、それは社会のあらゆる階層を動かす大きな運動となりました。19世紀のアメリカにおいて、リバイバルは新しい国づくりに貢献しました。日本でも、プロテスタントの宣教がなされた初期に横浜で、札幌で、熊本でリバイバルが起きました。第二次大戦の前に、ホーリネス教会を中心に、リバイバルが起きました。
 
3.夢見る老人
 
 
文脈から見ますと、「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」(28節)という約束は、「すべての人に同じように」ということが強調点であって、特に老人が夢を見やすくなり、若者が幻を語りやすくなりという区別はないように思います。夢が過去的な回顧、幻が将来的な展望といった区別もこの中からは見られません。しかし、両者の間に微妙な違いがあることはたしかです。夢を持ちにくい老人が夢を見る、これは素晴らしいことではないでしょうか。

・夢を持てない老人:
私たちの時代、老人はなかなか夢を持てません。環境的に言いましても、年金は下がる、老後の安定した生活は難しくなってきている、国が頼りにできなくなって来たら、家族・特に子どもたちからサポートされるかと思いきや、父さんと母さんは自己責任で生きていらっしゃいと言われる、健康的には、ここが痛いあそこが故障、耳は遠くなる、目は霞んでくる、散歩していても若い人々にどんどん抜かれる・・・こんな状況続きです。夢を持ちたいと思っても持てない環境に私たちは住んでいます。

・神とともに夢を見る:
しかし、主は、老人は夢を見る、いや、老人にこそ夢を与えると約束していてくださいます。どんな夢なのでしょうか、過去の古き良き時代を夢見ることなのでしょうか。決してそうではありません。神のみこころを悟り、神の示される大きな夢を共有することなのです。現状のつらさ、不自由さ、他人の冷たさをあげつらうのではなく、主がいかに大いなることをなしてくださったかを過去の恵みを数えつつ考えましょう。そしてその過去の延長として将来を明るく展望しましょう。ヤコブは「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。」(ヤコブ4:6)と約束しています。

・天に至る夢に生きる:
アブラハムの生涯を考えてみましょう。ヘブル書記者は、アブラハムが「天の故郷にあこがれて」(へブル11:16)生活していたと証言しています。彼はテント生活を敢えて選びました。それは、「堅い基礎の上に建てられた都」を待ち望んでいたからです。その都の設計者も建設者も神であると説明しています(11:9−10)。私たちもアブラハムとともに、将来に関わる素晴らしい夢を持たせていただきましょう。

・人を生かす夢を持つ:
マルテイン・ルーサー・キングは、1963年8月28日、「仕事と自由のためのワシントン大行進」のために集まって来た25万人の聴衆に、こう語り掛けました。「今から100年前、われわれが今日その象徴的な姿の前に立っている、一人の偉大なるアメリカ人が奴隷解放宣言に署名した。」と静かに語りだしました。実は、その序論は、リンカーンがゲティスバーグで「今から、87年前、われわれの父祖達はこの大陸に、自由と平等の精神に基づく新しい国家を打ち建てた」という序論に対応したものでした。彼は、黒人の生活の苦しみ、人種差別の状態を述べ、今こそ正義を非暴力の形で実現すべきと説きます。アモス5:24を引用し、「公義が水のように、正義が尽きない川のように流れる」時を望みます。その後で、“I have a dream”を繰り返します。「さて我が友よ、われわれは今日も明日も困難に直面しているが、私はそれでも尚夢を持つと申し上げたい。それはアメリカの夢に深く根ざした夢である。私はいつの日かこの国が立ち上がって『全ての人は平等に造られ』というその信仰を生き抜くようになるであろう、という夢を持っている。われわれはいつの日か・・・かつての奴隷の子孫と奴隷主の子孫とが、兄弟愛のテーブルに一緒に座るであろう、という夢を持っている。そして私は、私の四人の小さな子ども達が、いつの日か、皮膚の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住むようになるであろう、という夢を持っている。」と述べ、イザヤ40:4−5「すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」で締め括りました。
彼の夢は、50年後初めての黒人大統領であるオバマ氏によって実現しました。ヨセフは、少年時代に夢見たその夢を、主から与えられた夢として、どんな苦しみの中でも保ち続けました。自分の愚かさのゆえに、その夢が砕かれそうになったこともありました。しかし、主は、彼の人生を導き、その夢を豊かな形で実現されました。あなたの夢は何でしょうか。私も愛老会年齢の一歩手前ですが、夢を持って奉仕をしています。主がその夢を実現してくださるように祈ります。そして実現する方法と手立てを示してくださるように祈ります。
 
終りに:神は夢を成し遂げて下さる
 
 
ピリピ2:13を読んで、今日のメッセージの締めくくりとします。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」
 
お祈りを致します。