礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年10月2日
 
「聖なるものとされる」
ペテロの手紙第一 連講(2)
 
竿代 照夫 牧師
 
ペテロの手紙第1 1章13-21節
 
 
[中心聖句]
 
  14,15   従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
(ペテロの手紙第一 1章14-15節)


 
前回のまとめ(1〜12節)
 
 
前回は、第一ペテロ書連講の最初として、「見たことはないけれども愛する」とのみ言葉から、地上のイエス様のことを知らない第二世代のキリストたちが、復活の主を活きたお方として捉え、見たこともないのに彼を愛し、信じている様子を学びました。

その時にも話しましたように、ペテロは、異教社会からのいじめや迫害に直面しているアジヤ(現トルコ共和国)の全てのキリスト者たちに対して、彼らが頂いている恵みの大きさを再評価しなさい、それによってその迫害と試練を乗り切ることができると励まします。ペテロは、キリストの救いが長い間預言者たちによって待たれていたこと、天使たちもそれを今か今かと待ち望んでいたこと、そして今や、その預言が現実のものとなったという驚くべき事実を伝えます。
 
2.救いの完成に集中しよう(13〜14節)
 
 
「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、・・・」
 
・救いを感謝しよう:
「ですから」とは前の文節を引き継ぐ13節は「ですから」から始まります。この「ですから」の意味は、3〜12節で示された大いなる「救い」をいただいたゆえに、ということです。「彼らが頂いたキリストの救いが、救いの歴史というという大きな流れのクライマックスにあるのだから」という「ですから」なのです。

・熱心に励もう(「心を引き締め、身を慎み、ひたすら待ち望みなさい」):
こんな大きな救い経験しているキリストたちが、その救いの尊さを自覚して、「心を引き締め(=腰を引きからげて走りやすいスタイルを取り)、身を慎み(しらふでいる、油断なく、怠慢にならない)」その救いの完成のために来り給うイエス・キリストの現われを「ひたすら待ち望みなさい(再臨を間近な確実なものと捉えて熱心に待ち望め)」と勧めます。

・後退しない(「無知であったときのさまざまな欲望に従わない」):
この手紙の受取人はほとんど異邦人クリスチャンです。「無知であったときのさまざまな欲望に従う」生活を送っていた人々が、キリストによって生まれ変わりました。ペテロは、異教徒に囲まれている彼らがそのプレッシャーと誘惑によって、元の木阿弥にならないように戒めます。「様々な欲望に従わず」とあります。これは、人間本来に備わった欲望を否定している訳ではありません。この文脈では、本来から逸れコントロールする術を失った悪しき欲望のことを言っています。それは、「無知であったとき」すなわち、救われる前に生きていたその生き方がクリスチャンとなった後でも忍び込んでくるその危険を指しています。クリスチャンではあるが、非常に考え方や行動が我侭だったり、怒りっぽかったり、嫉妬深かったりすることがありうることを示唆しています。しかし、本当のクリスチャンであるならば、このような生き方は、ぜひとも終わりにしたいものです。
 
3.聖なる者とされよう(15〜16節)
 
 
「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」
 
・神の聖さを見つめよう(「聖」(クァドシュ)とは、罪からの離別):
「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって・・・」「聖」(クァドシュ)と言う言葉は離別、区別という語源から来ています。それは神のご性質です。人間の罪から区別された神の絶対的な聖さを指します。人間とは隔絶した神の聖ではあるのですが、それが人間にも分け与えられ、神と交わるための基礎として生きるべく教えられたのがイスラエル民族です。聖さと言うのは、神の聖さを分有して、しかも、この曲がった世にあって悪に染まらず生きていくことです。神の聖さという、いわば抽象概念を、生活感覚で捉えるための訓練が行われたのがイスラエルの歴史です。

・聖なる生活に訓練されたイスラエル:
「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」とレビ記が引用されていますが、その引用個所と内容を調べてみましょう。
▽食べ物に関する訓練(レビ記11章):
レビ記11章は、食べ物に関する規定です。「あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地を這ういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(11:44−45)食べてよいものと食べていけないものの区別を通して神の聖を体で覚えました。この食べ物の区別を通して身を持って神の聖を学びなさいと語られているのです。
▽律法による訓練(レビ記19章):
レビ記19章は、律法を守ることで他の民との違いを表しなさいと勧めています。「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」(レビ19:2)
▽性的純潔さの訓練(レビ記20章):
レビ記20章は、周りの人々のような性的不品行に染まらないように、その点で、神の聖さを日常生活で表しなさい、と語られています。

・聖くなる召し:
何故これほどまでに神はイスラエルに対して聖くあることを要求なさったのでしょうか?それは、神が人との交わりを求めておられるからです。異なる人格同士が交わりを持つためには、ある共通要素が必要です。共通の趣味とか、考え方とか、共通の言葉とか・・・。同じように神はイスラエルの民と交わりたく願い、そのためには汚いままではいけないよ、と仰ったのです。

・聖なるものとされる:
残念ながら、イスラエルの歴史は神のご期待と反対の方向で進みました。彼らは、不品行に走り、異教の神々を拝み、真の神を捨てました。聖い性質を持ったお方が、その聖なる性質を分け持つようにと召してくださったのが、私達クリスチャンです。1:2には「血の注ぎを受けるように選ばれた」とあります。また、2:9にも「聖なる国民とされた民」とあります。自分がなりたいから勝手にクリスチャンになったのではないのです。「召されたもの」という自覚が必要です。この15節の「されなさい」という言葉に目を留めましょう(この「新改訳」の受身形は、言語の厳密な翻訳ではありませんが、しかし、味わい深い翻訳です)。そうです。自分では聖くなれない、誰かの力によって聖くされる必要があることを示しています。新約の福音は、形から入っていく聖めではなく、内側から湧き出る聖めです。しかも自分の力ではなく、キリストの贖いで聖くされるとことから始まります。

・あらゆる行状で聖く:
教会の集まりにおいてだけ聖く振舞うことではありません。ノン・クリスチャンに囲まれて生きている社会生活、家庭生活、学校生活も含め、あらゆる状況において、あらゆる行動において私達が聖くなることが主のご期待です。ペテロは異教的な社会に生きるキリスト者に対して、その中で聖く生きるようにと励まします。これは、同様な環境にいる私たち日本のキリスト者にも当てはまる勧めです。そんなことが出来るのか、相応しいのか、意味があるのか、と問われると思います。主の恵みがそれを可能とします。聖い生活には意味があります。世が濁り、怒涛のように不道徳がまかり通る世の中であればあるほど、キリスト者は光り輝くのです。難しい?確かにその通りです。やって行けるか?大変です。しかし、この生き方には価値があります。堅苦しい?そんなことはありません。主イエスは、聖いお方でしたが、大変なユーモアを持ち、一緒に居て楽しく、柔軟なお方でした。私達も豊かな人間性を持ちつつ、聖くあることが出来る、いや、そうでなければならないのです。
 
4.敬虔な歩みを(17〜19節)
 
 
「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」
 
・父を恐れかしこむ:
ペテロはここで、「あなたがたが神を父と呼ぶならば」という事実関係に基づく(つまり仮定でない)前提を示します。人間の父は、寛大さと厳しさの両面を持っています。同様にというか、それ以上の標準をもって天の父は優しさと厳しさを兼ね備えておられます。私たちは聖書の示す神観念を、主観的な考えで変えてはなりません。

・キリストの犠牲の尊さ:
「傷もなく汚れもない小羊のような」(19節)というのは、贖いのために動物のいけにえが用いられたことを背景にしています。旧約の時代には、聖い神の前に近づくには「身代わりの動物の血」が必要でした。しかも、その動物は、役に立たない傷だらけの動物ではなく、傷もなく汚れもない完全な状態であることが必要でした。主イエスは、何の罪もなく、しかも神の子としての聖いご性質を持ち、聖い生き方をされました。そのお方が他の動物ではなく、ご自分の肉体を生贄として捧げてくださいました。その血潮は、すべての罪から私達を清める力を持っています。

・贖い出された私たち:
私たち罪人が、このキリストの血によって贖いだされたのです。この場合贖いとは、身代金を払って奴隷状態から解放されるという意味です。罪を犯したくないと思いながら罪を犯すことは、罪の奴隷となっている証拠です。キリストの十字架の血潮は、その奴隷状態からの完全な解放を意味します。ペテロは、「父祖伝来のむなしい生き方から」解放される、と説明します。また、14節で「以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず」と過去の生き方から離れて15節「聖なる者とされなさい」と言っているのも、この完全解放のことを意味します。それをいただくのは、私たちの信仰によってです。ヘブル7:25−27を見てください。「ご自分によって(信仰を持って)神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために執成しをしておられるからです。・・・キリストは自分自身を捧げ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」これ以上の説明は不要でしょう。今日、信仰によって神に近づきましょう。
 
5.希望に生きる(20〜21節)
 
 
「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」
 
・キリストの出現:
キリストは永遠的存在でありますが、「この終わりの時」(神の定めた救いの時)地上に現れてくださいました。それによって、信じる者が救われました。

・キリストの再臨:
そのキリストが再び来られることへの希望がキリスト者の信仰の中心です。
 
おわりに:今日、信仰を働かせて、神の与え給う聖に与ろう
 
 
「聖なる者とされなさい」とは不思議な命令です。普通、受け身の命令を受けても、私たちはどう行動してよいかわかりません。でもこの場合は単純です。神の聖とする御業に委ねよ、と理解できましょう。汚れた着物は自分できれいになれません。でも、洗濯機の中に自分を放り込むことはできます。後は洗濯機がきれいにしてくれます。自分で自分を洗濯機の中に放り込むことを信仰と言います。その信仰を働かせようではありませんか。
 
お祈りを致します。