礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年10月9日
 
「みことばの乳を慕い求める」
ペテロの手紙第一 連講(3)
 
竿代 照夫 牧師
 
ペテロの手紙第1 1章22-25節 及び 2章1-2節
 
 
[中心聖句]
 
  2   生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
(ペテロの手紙第一 2章2節)


 
はじめに:先週の纏め
 
 
キリストによって成し遂げられた大いなる救いを経験している読者たちが、先ず勧められているのは、神の聖さに倣って、聖い生活をしなさい、いや、聖められなさいということです。1:15の強調は、あらゆる面における聖さです。この曲がった世にあって聖くあることは、大きな戦いではありますが、しかし、戦い甲斐のある価値のある戦いです。私たちの力や真面目さでは間に合わないほどの戦いですが、それだからこそ、キリストが与えて下さる聖めの力にすがる以外にありません。

ペテロは、その聖であることの前提に立って、キリスト者が前に進むべきことを勧告します。それが今日のテキストです。
 
1.兄弟愛の勧め(1:22)
 
 
「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」
 
・前提(真理に従って魂のきよめを受け、純粋な兄弟愛を抱くようになった):
キリスト者は、真理であるキリストとその言葉に従う(=それを素直に信じ、その指し示すところに従って行動する)ことを通して、魂のきよめを頂きました。魂のきよめとは、自己中心主義と憎しみからの解放です。それが、偽善的ではない、心からの兄弟愛を持つ人間への変化です。この「偽りのない」(アニュポルリトン)とは、「俳優のようではなく」というのが原意です。俳優は、自分が悲しくなくても泣きますし、嬉しくなくても笑います。つまり演技ができるのです。キリスト者は演技ではなく、神の愛が注入されることによって心底兄弟を愛する人間に変えられるのです。

・勧告(互いに熱く相愛せよ):
ペテロは、既に与えられている神の愛を更に熱いものとして燃え上がらせなさいと勧告します。「心から熱く」(エクテノース)とは、棚などに向って体をストレッチするしぐさを指します。愛というのは自然に湧き上がるものですし、それでよいのですが、ペテロはもう一歩進んで、兄弟愛の対象において、愛を示す程度において、内容において、「ストレッチ」しなさいと勧めているのです。味わい深い言葉です。
 
2.みことばによる新生(1:23〜25)
 
 
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」
 
・新生を齎す神のことば(宣教の言葉を受け、従うことによって新しく生まれる):
ペテロは、キリスト者のことを、「新しく生まれた」人間と表現しています。この表現は、主イエスがニコデモに対して「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と語られた勧めに基づいています。キリスト者とは「水と霊によって」(3:5、つまり、過去の罪を水の洗いによって清められ、聖霊が注がれることによって神を愛する性質が与えられるという意味で)新たに生まれたものです。新生を齎すものは、ヨハネによれば「水と霊」ですが、ペテロは、「神の言葉がそれを齎す」と言います。ヨハネとペテロは違うことを言っているのではありません。「新しく生まれる」という出来事は、先ず神の言葉が人に対して宣教の形で届けられ、人の心が聖霊によって感動を受けたときに起きるということを物語っています。キリストの救いを示すのは神のみことば(記された聖書、そして、宣教されたことば)であり、そのみ言葉を素直に信じ受け入れるときに、私たちは「水と霊によって」新しく生まれ変わるのです。

・神の言葉の不変性(神の言葉は生きて働く(イザヤ55:11、へブル4:12)):
ペテロは、更に、神の言葉の不変性について強調します。「『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」人間の存在は儚いものです。それは今日生え出てきて、咲き誇ったかと思うと、明日枯れてしまう野の花のようです。人間が儚いだけでなく、その思想も哲学も虚しい、儚いものでしかありません。科学的真理と呼ばれるものでも、昨日まで正しかったものが、今日は、全く誤りだと言われることが多いのです。しかし、神の言葉は、その真理性において変わりません。なぜなら、神は時間・空間を乗り越えた永遠のご存在だからです。しかも、その神の言葉は生きていて、信じる者の心に働いて、悔い改めと信仰を齎すものです。イザヤ55:11には、「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」と記されていますし、へブル4:12にも、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあります。神の言葉の力と効果を示します。
 
3. みことばによる成長(2:1〜3)
 
 
「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」
 
・新生した者が捨てるべきもの(悪意、ごまかし、偽善、ねたみ、悪口):
ペテロは、この神のみことばの不変性に立って、み言葉を学び、それによって成長するように勧めます。その前に捨てるべきものを5つ挙げます。それは、「悪意、ごまかし、偽善、ねたみ、悪口」です。
@「悪意」(悪しき志、意図に基づく有害な行動)
A「ごまかし」(嘘、偽りによって、他者をだまし、傷つける行為)
B「偽善」(俳優のように、自分の実態を隠して良い人間と人に見せる)
C「ねたみ」(自分より優れた人間に対して抱く悪感情)
D「悪口」(他人の地位や名誉を傷つける行為、特に、その場所にいない人について、陰口を言うこと)
これらを捨て去るのはいわば当たり前なのですが、どっこいそうはいかないのが実情です。キリスト者の間でさえ、妬み、陰口が入って来がちです。ですからこそ、ペテロは、これらを捨てなさいと勧めるのです。

・みことばを慕う大切さ(神の言葉は、霊的で純粋なミルクのようなもの):
捨てるべきものを捨てつつ、今度は求めるべきものは何かという課題に、ペテロは注意をむけます。それは神の言葉です。ペテロは、赤ちゃんが、お母さんの乳を本能的に求めるように、新生したキリスト者は、み言葉を慕い求めるものだ、また、その求めをみ言葉に仕えることによって示さねばならないと説きます。「慕い求める」(エピポセーサテ)は複合語で、「熱心に求める」という意味です。求める対象は、霊的で純粋なミルクであるみことばです。ところで、ペテロのこの手紙を受け取ったキリスト者たちは、私たちが持っているような聖書を手に入れることができたでしょうか。新約聖書は今の形になっていませんでした。旧約聖書も、非ユダヤ人である異邦人クリスチャンにはなじみの薄いものでした。もちろん旧約聖書のギリシャ語訳である70人訳聖書は、努力すれば手に入ったと思いますが、簡単ではありませんでした。それでは、この当時のクリスチャンたちが「みことばによって養われる」とは、どんな方法で可能だったのでしょうか。それは、旧約聖書の中からメシアに関する記事を抜粋したもの(これはテスティモニアと呼ばれていました)、新約聖書の中のパウロの手紙の一部(これは複写され回し読みされていました)、主イエスの言葉を纏めた福音書の原型(これは「口伝」と呼ばれていました)は、かなり早い時期に入手可能でした。これらが「みことば」でした。

・みことばによる成長(「みことば」を読み、それを咀嚼し、それに従う生活を通して、キリスト者たちは、「成長し、救いを得る」):
これらの入手可能な「みことば」を読み、それを咀嚼し、それに従う生活を通して、キリスト者達は成長し、救いを得るのです。キリスト者は、既に救いを得ている人間です。でもその救いは完成していません。この場合の「救いを得る」とは、その完成された救いを得ることです。これは、1:5においても表されている思想です。

・既に味わっている恵みを思い出そう(詩篇34:8):
み言葉を慕い求める追加的理由が示されます。彼らは、救いを通して、主のいつくしみ深さを既に(経験として)味わっているからです。詩篇の作者もまた「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。」(詩篇34:8)と、彼の味わった主の素晴らしさを人々に伝えています。聖書を繰り返し読むことは、主がどんなお方であるかを繰り返し、深く知ることなのです。
 
終りに:神様からのラブレターである聖書を慕い求めよう
 
 
私たちは、第一世紀のクリスチャンと違って、纏められた旧新約聖書を与えられています。こんな素晴らしい特権はありません。この特権を活用し、み言葉に聞き、み言葉を学び、み言葉を信じ、み言葉に従う幸いを経験したいものです。

最後に、今の聖書協会の誕生のきっかけとなった少女のお話をします。

今から200年ほど前、イギリスの田舎の小さな家に、メリー・ジョーンズという10歳の女の子がいました。日曜の朝になると、メリーは両親と一緒に4キロほど離れた村の小さな教会に出かけます。教会では聖書のお話を熱心に聴きました。学校で読み書きを習い、聖書が読めるまでになりましたが、教会に行かないと聖書を読むことができません。その頃、聖書はとても高価で貴重なものだったのです。「もっと聖書を読みたい」メリーは、自分の聖書が欲しいと思うようになりました。メリーの家はとても貧しく、靴も買えないような暮くらしぶりでしたが、メリーは聖書を買うために一生懸命、お金を貯ためました。

6年が過ぎ、ようやく聖書が買えるほどのお金を貯めることができました。でもどこで聖書が買えるのでしょう? 聖書を探すメリーは、バラという町に聖書を数冊持っている人がいると教えられました。欲しかった聖書が手に入ると聞き、メリーは40キロも離れたバラの町まで歩いて行いく決心をしました。果てしなく思えるような長い道のりを、メリーは裸足で進んで行きました。多くの小道を抜け、谷や小川を渡り、丘を越えて、ようやく町に到着しました。 そして、人々に道をたずねて、とうとう教会に着きました。

「聖書が欲しいんです。」玄関のドアが開くと、メリーはチャールズ牧師に頼みました。ところが、チャールズ牧師は困った顔をして言いました。「聖書は全部売れてしまったんだ。残っている3冊も友だちと約束ずみなんだよ。」これを聞いたメリーは全身の力がぬけて泣き出しました。チャールズ牧師はそれを見みてしばらく考えこんでいましたが、やがて隣の部屋から聖書を手に戻ってきました。「メリー、きみの聖書だよ。」チャールズ牧師はなんと3冊ともメリーに手渡したのです。「きみの町に住む人たちにも分けてあげるといい。」チャールズ師は1冊分のお金しか受け取りませんでした。メリーは真新しい聖書を手にすると、飛び上がって喜び、心から感謝をしました。「チャールズさん、イエス様、ありがとう!」

メリーは喜んで家に帰っていきましたが、聖書を求めて裸足で旅してきたこの少女のことがチャールズ牧師の頭から離れませんでした。「もっと大勢の人々が聖書を手にできるようにしなければならない。」チャールズ牧師は、多くの有名人にメリーとの出来事を訴ったえました。それから4年、メリーの話に感動した人々の協力によって、世界最初の聖書協会がイギリスに設立されました。「誰もが買える価格で聖書が読めること」、「人々が普段使っている言語で聖書を読めるようにすること」、これが聖書協会の働きの出発点となりました。

聖書を手に入れることにこんな苦労をしていた時代と比べて、私たちはなんと恵まれていることでしょうか。かりそめにも、聖書を読むことが義務感からということの無いようにしたいものです。聖書は、神様が私たちに与えて下さったラブレターです。本当に愛し合っている男女がラブレターを放って置くはずがありません。どんなことが書かれているのか、期待と興奮をもって読むはずです。み言葉を学ぶ楽しさを日々に経験しましょう。
 
お祈りを致します。