礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年10月30日
 
「私たちは『祭司』」
ペテロの手紙第一 連講(4)
 
竿代 照夫 牧師
 
ペテロの手紙第1 2章4-10節
 
 
[中心聖句]
 
  9   しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
(ペテロの手紙第一 2章9節)


 
聖書テキスト
 
 
4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
7 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、8 「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。
 
1.霊の真の乳を慕う(前回の復習)
 
 
第一ペテロ書は、異教社会のプレッシャーの中に生きていたキリスト者への励ましと指針を与える手紙で、今日のキリスト者にとっても大きな励ましです。先回は、2:2「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とのみことばを中心に、「みことばによる成長」というテーマでお話ししました。

・赤ちゃんが、お母さんの乳を自然に求めるように、新生したキリスト者は、み言葉を慕い求めるということ、

・その求めはみ言葉を学び、従うことで示される、

・み言葉の学びを通して、主のいつくしみ深さを味わうこと、

の三点を締めくくりに学びました。今日はその続きです。
 
2.捨てられ、選ばれたキリスト(4節)
 
 
「4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」
 
・主に近づくこと:
4節のこの勧めは、何か唐突な印象を与えます。その前の文節が、み言葉を慕い主の恵みを味わうように、との勧めでしたので、その続きなのです。新共同訳聖書では、4節に「この」という言葉を「主の」前につけています。いつくしみ深いこの主に近づきなさい、という意味です。「主に近づく」という表現は、旧約時代に祭司がいけにえを携えて主のご臨在に近づく様子を示しています。5節、9節で後ほど説明しますが、キリスト者は、みな自分自身が祭司であり、職業的な祭司を仲介としないで直接神に近づくことができるのです。

・捨てられ、選ばれた主(イラスト@):
ここで、「主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」と、主キリストの逆転的勝利が解説されます。この言葉は、詩篇118:22「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。」からの引用です。この譬えは、新約聖書ではキリストの預言としてしばしば言及されています。さて、礎の石とは建物を支える四隅の土台石のことで、建物の大事な石の事です。普通の建築家が、役立たずとして放棄した石を、神が(特別なお計らいをもって)礎の石として用いなさるという逆転の発想です。この言葉は、弱い、小さな民族であるイスラエルが、異邦人たちの救いの土台として選ばれた、というのが詩篇の文脈的意味ですが、救い主の預言として、イエス様が、ご自分を指す預言として使われました(イラスト@)

・葡萄園の息子の譬え(マルコ12:1−12):
「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。3 ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。・・・その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいた。」これは、律法学者達が拒絶し、殺してしまった主イエスが救いの根本とされる、という驚くような真理を物語っています。

・十字架の主イエス(使徒4:10−12):
足の悪い人を癒した後で、ペテロは「皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」と語り、人々が十字架につけ、神が死者の中から甦らせたナザレ人イエスこそ救い主であることを宣言します。

・生ける石キリスト:
そのペテロが4節で、キリストは「人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石」と強調しています。
 
3.建て上げられる教会(5-6節)
 
 
「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。なぜなら、聖書にこうあるからです。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。』」
 
・捨てられた石としてのキリスト者(イラストA):
キリストが「捨てられたけれども選ばれた救い主」となったように、彼に従うキリスト者も世から捨てられるように見えるけれども、実は「生ける石」なのだ、とペテロは宣言します。捨てられ、拾われたキリスト者が寄り集まったものが教会です。面白い絵ですね。その家とは、目に見える教会堂ではなく、目に見えない「霊の家」として築き上げられていくのです(イラストA)。

・祭司としてのキリスト者(イラストB):
神殿では、目に見えるいけにえがささげられましたが、霊の家である教会は、目に見えない捧げものを捧げます。それは、キリストを信じる信仰を通して、自分自身を、生きた聖い捧げものとして神にささげるのです。パウロは、これこそ本当の礼拝だ(ローマ12:1)と語ります(イラストB)。

マルチン・ルターは、カトリック教会が、人々は司祭を通して(懺悔とかミサとかの方法で)神に近づくのだ、と教えていたのに反対して、キリスト者はみな自分のために祭司なのだと主張しました。神に直接近づき、直接物語り、直接礼拝を捧げることができる、これを「万人祭司」と呼んだのです。ヘブル書にも「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(4:16)と勧められています。何という特権でしょうか。

・イザヤ書の引用:
ペテロは、ここで詩篇と似た思想を示すイザヤ28:16を引用します。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」これは、メシア的人物の預言です。メシアを信仰の土台としてより頼むものは、揺るがされないのです。
 
4.躓く人々(7〜8節)
 
 
「したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、『家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。』のであって、『つまずきの石、妨げの岩。』なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」
 
・より頼まない人には躓きの石:
ペテロは、この論理を進めて、キリストに従わない人々にとって、キリストは「つまずきの石、妨げの岩」だと語ります。パウロも、「十字架につけられたキリスト」は「ユダヤ人にとっては躓き」であると語ります(1コリント1:23)。今でも、人間的にだけキリストを見る者にとって、弱さの象徴である十字架は受け入れ難い「躓き」なのです。
 
5.聖なる国民(9〜10節)
 
 
「9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」
 
・「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」なるキリスト者:
「しかし」との言葉は、キリストに従わないものとの対比です。あなたがたキリストに従うものは、という意味です。彼らについて四つの例えが使われています。
@「選ばれた種族」(新しいイスラエルとして):
イスラエルだけが選ばれたのではなく、キリストの贖いを通して、すべてのキリスト者たちは、恵みの原理で選ばれた種族なのです。
A「王である祭司」(直接に神様に近づく特権):
キリスト者は、すべて祭司として、直接神に近づくことができます。これは、5節ですでに解説されています。さらにここでは、「王である」祭司と、王としての立場が強調されています。私たちは、キリストの副王として世を治める立場なのです(黙示20:4)。
B「聖なる国民」(聖くなるように呼ばれ、聖さを示す民):
キリスト者の内面と道徳性を示します。きよきのために召され、きよめの恵みを与えられ、聖きを示すために民です。
C「神の所有とされた民」(神様に「とっておき」の民とされた恵み):
テトス2:14には、神様が私たちを「良いわざに熱心なご自分の民」として特別所有していてくださる、と記されています。

・その使命(神の憐みのサンプルとなる):
そのようなタイトルと実質が与えられているのは、自分が偉いからではなく、自慢するためでもなく、反対に、自分のような罪深い、何の価値もない人間に対して、神がどんなに大きな憐みをかけてくださったかを世の人に知らせるサンプル、モデル、デモンストレーションとなるためなのです。自分が褒められるのではなく、あんな、箸にも棒にもかからない人間が良くもああなったものだ、それは神様のおかげだ、と周りの人が感じるためなのです。
 
おわりに:クリスチャンとなった光栄の素晴らしさを感謝し、喜ぼう!
 
 
先週は、河村従彦先生からマイノリティ(少数派)としてのクリスチャンの存在意義が語られました。ペテロも、各地に少数派として散在しているクリスチャンを励ます手紙を書いています。縮こまって、遠慮して暮らすクリスチャンではなく、胸を張って感謝し、賛美しつつ、証を建てるクリスチャンになって欲しかったからです。私たちも、王なる祭司とされている特権を感謝し、そして、そのようにしてくださった神様の素晴らしさを周りの人々に宣べ伝える者とさせていただきましょう。
 
お祈りを致します。