礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年11月6日
 
「異邦人の中で美しい振舞いを」
ペテロの手紙第一 連講(5)
 
竿代 照夫 牧師
 
ペテロの手紙第1 2章11-25節
 
 
[中心聖句]
 
  12   異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。
(ペテロの手紙第一 2章12節)


 
1.私たちは「祭司」(前回の復習)
 
 
・キリスト者はみな「祭司」(直接神に近づくことができる):
先回は、2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(1ペテロ2:9)を中心に、私たちは「祭司」である、とのテーマでお話ししました。神殿では、目に見えるいけにえがささげられましたが、霊の家である教会は、目に見えない捧げものを捧げます。それは、キリストを信じる信仰を通して、自分自身を、生きた聖い捧げものとして神にささげるのです。パウロは、これこそ本当の礼拝だ(ローマ12:1)と語ります(イラスト)。マルチン・ルターは、カトリック教会が人々は司祭を通して(懺悔とかミサとかの方法で)神に近づくのだ、と教えていたのに反対して、キリスト者はみな自分のために祭司なのだと主張しました。神に直接近づき、直接物語り、直接礼拝を捧げることができる、これを「万人祭司」と呼んだのです。

・キリスト者の使命(神の憐みの大きさを示すサンプル):
このようなタイトルと特権が与えられているのは、自分が偉いからではなく、自慢するためでもなく、反対に、自分のような罪深い、何の価値もない人間に対して、神がどんなに大きな憐みをかけてくださったかを世の人に知らせるサンプル、モデル、デモンストレーションとなるためなのです。自分が褒められるのではなく、あんな、箸にも棒にもかからない人間が良くもああなったものだ、それは神様のおかげだ、と周りの人が感じるためなのです。
 
2.異邦人に囲まれたクリスチャンの行状(11〜12節)
 
 
「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」
 
・肉欲を避けるべきこと(旅人であり寄留者として):
私たちすべてが「祭司」なのだ、という自覚に立つと、おのずから私たちの生きざまが決まってきます。消極的には、「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけること」です。ペテロが、その前に「旅人であり寄留者であるあなたがたは」と語っていることは意味深長です。人生は旅であり、この世は仮の住まいなのだ、という考え方は、一生涯をテントで生活したアブラハムの信仰から引き継がれています。私たちは天国市民であって、「地上は仮の宿」なのです。物欲に囚われない、名誉欲に駆られない、世の煩いに縛られないという生き方こそ信仰者のあるべき姿です。もちろん、ペテロは、私たちに対して世捨て人のような、あるいは仙人のような生き方を勧めているわけではありません。しかし、天国市民との自覚は、肉欲を遠ざける大きな動機にはなり得ます。私たちが生来持っている食欲、性欲、所有欲そのものは罪ではありませんが、私たちの生き方がその欲に支配されるようになると「魂に戦いを挑む肉欲」になってしまいます。

・美しい振舞いで証を立てること:
「異邦人の中にあって」との言葉は、新約聖書の一般的用法とは違って、ユダヤ人と対比した異邦人という意味ではなく、クリスチャンではない、という意味です。繰り返しますが、このころのクリスチャンは圧倒的に少数派でした。ですから、社会生活においては、「異邦人」に取り囲まれていたのです。社会生活の全てが異教的な習慣に従ってなされていましたし、商売の世界でもいわゆるごまかしが横行し、酒の付き合いも今の日本と変わらないくらい一般的でした。そんな中で、「聖い生活」を貫くことは容易いことではありませんでした。だからこそ、ペテロは力を込めて「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」と勧めます。そこから逃れるのではなく、その真っただ中にあって美しい行状を示しなさいというのです。「りっぱな」と訳されているもとの言葉は、単に「良い」(カロス)です。「優れた」とか「美しい」とか「正しい」とか「価値ある」とも訳せますが、私は「美しい」というニュアンスが好きです。文語訳では「行状をうるわしくせよ」なっていますので、その影響なのでしょう。カッコつけるのではなく、「うるわしい」のです。

・行状の結果(かえりみの日に主を崇める):
確かに、場の雰囲気に合わないクリスチャンは煙ったい存在となるでしょう。みんなと調子を合わせない、という意味で「悪人」呼ばわりさえすることでしょう。仲間外れにされることもあるでしょう。しかし、長い目で見ると、やっぱり信用できるのはクリスチャンだということで「かえりみの日」(つまり、神が祝福をもって望まれる時)キリストを信じ、その結果喜んで自発的に、聖名を崇めるようになる、とペテロは保証します。ここで行いを「見る」と言われている言葉は「じっと見つめる」という意味です。ちょっと目には、変わったやつだ、と爪はじきにされるかもしれません。しかし、私たちの行状をじっと見つめる人は、その中に神の恵みと力を感じることでしょう。このような約束が私たちに与えられていることは、何という大きな励ましでしょうか。インドで牧師を監視するために担当させられた秘密警察官が長い「監視」の末に、この男の信じているイエス様は本物だと悟ってバプテスマを受けた話をジョアン・ライアン博士が語りました。本当ですね。
 
3.市民として(13〜17節)
 
 
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」
 
・立てられた権威を尊重すべきこと:
市民生活の中で先ず大切なのは、国家、あるいは地方政府に対する態度です。ペテロがこの手紙を書いた時の国家とはローマ帝国です。暴君の悪名高いネロ(54〜68年)が統治していた時です。この手紙を書いた前後にローマ市をきれいな都市計画で作り直そうと放火までした男です。しかもその罪をクリスチャンにかぶせて大迫害を行った男です。ペテロから見れば、革命を起こして国家をひっくり返せとか、国が猛獣のようになっているので、ネロにその間違いを犯さないように祈れとか言いたくなるような時代です。しかし、ペテロは敢えて王とその権威に従え、と勧めます。

・その理由:
その勧めは「主のゆえ」なのです。主がそれを許しておられるから、なのです。さらに「善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだから」なのです。社会の制度そのものが主のみ赦しのもとにあるとの信仰の故です。もちろん、罪を犯すようにと命じられるとき、クリスチャンはそれを拒絶する自由を持っています。しかし、一般的な場合に、クリスチャンは最も忠実な市民であるべきです。

・自由の概念を正しくとらえること:
クリスチャンはすべてのものから自由です。しかし、その自由の概念をはき違えて、わがまま勝手な、規則や法律を無視した行動に走ってはならない、積極的には、「すべての人を(人種、性別、年齢別、社会層別を乗り越えて、神に造られたものとして)敬いなさい。兄弟たち(同じ信仰を持つクリスチャン達)を愛し、神を(尊敬と畏怖をもって)恐れ、王を尊びなさい。」と勧めます。本当に心に浸みるような味わいの深い大切な教えです。
 
4.しもべとして(18節)
 
 
「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」
 
・奴隷制の存在:
1世紀のローマ社会は、奴隷制によって成り立っている社会でした。人口の一握りが自由人で、労働人口の多くは奴隷で支えられていました。もちろん、奴隷というイメージは、アンクルトムの時代の奴隷とは違って、もう少し人間的な生活が許されていましたし、教育を司る奴隷の代表例としてイソップなどもおりました。ある注解書は当時の奴隷のことを「法的、経済的自由を持たない半恒久的雇用者」と呼んでいます。ここで使われている「しもべ」(オイケタイ)は、「家事をする下僕」と訳されるような言葉です。さて、クリスチャンにも奴隷が多くおりました。彼らはすべての人を平等に扱うキリストの福音にひかれてキリストを信じるようになったと考えられます。

・奴隷の主人に対する態度:
その奴隷に対して、ペテロは勧めます、「尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。」と。義務的にでもなく、表面的に従うのでもなく、「尊敬の心を込めて」主人に従えというのです。尊敬とはいっても、すべての主人が尊敬に値するような「善良で優しい」主人ばかりではなく、「横暴な」理不尽な、暴力まで振るうような主人も多くいたことでしょう。ペテロはそれを承知の上で尚、「従いなさい」というのです。それで良いのでしょうか。理屈を言えばきりがありませんが、ともかく、主に従うように従うことを彼は勧めるのです。今日でいえば、頑固な社長、訳の分からない上司、がこれに当てはまることでしょう。私たちはどうしましょうか。面従腹背のように従うのでしょうか。耐え忍んで従うのでしょうか。ペテロは敢えて、喜んで従え、頑固な主人ではあっても、神がお造りになった人間であるとの認識と尊敬をもって従えというのです。そのように従われた上司は、その気持ちを汲み取ることができる者なのです。
 
5.苦難に向かう態度(19〜25節)
 
 
「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」
 
・苦難に耐えることの意味:
ペテロは、「横暴な主人に従う」というトピックからさらに一般的な「義のために苦しむ」という課題を取り上げます。罪を犯したために苦しむのは当たり前で、何のメリットもない、しかし、正しいことを行って苦しむとしたら、そしてその悲しみを信仰によって耐えるならば、それは神に喜ばれることだ、そのためにこそ信仰者は召されているのだとまでペテロは言います。これは、「義のために迫害されるものは幸い」(マタイ5:10)と語られた主イエスの教えを反映しています。もちろん、苦しみを求めるべきではありませんが、それが来るとき、より深いキリストとの一体感を経験しうるのだという恵みを悟りたいものです。

・キリストの模範:
そして、キリストの模範を示します。「(なぜなら)キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」と、キリストの苦しみの積極的意義を説きます。続いて「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」とキリストの無罪性を述べます。その無罪のキリストが「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」キリストの苦しみは私たちの贖いのためだったのだと説きます。

・キリストの贖いによる恵み:
その贖いの恵みについて「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」とその贖いの恵みの大きさを思い出させます。この言葉はイザヤ53: 5〜6の「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」の思想をそのまま受け継いでいます。
 
おわりに:美しい振舞いを可能とする恵みを信じよう!
 
 
12節の「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」(1ペテロ2:12)を思い出しましょう。この週、自分の力では「りっぱに振る舞えない」かもしれませんが、主に従っていくとき、自然に美しい行状が伴ってきます。それを目指しつつ歩みましょう。
 
お祈りを致します。