礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年11月20日
 
「牧者のもとに帰る」
ペテロの手紙第一 連講(6)
 
竿代 照夫 牧師
 
ペテロの手紙第1 2章18-25節
 
 
[中心聖句]
 
  25   あなた方は、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分の魂の牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
(ペテロの手紙第一 2章25節)


 
1.異邦人の中で美しく!(前回の復習)
 
 
・異邦人社会において良い証しを立てよう(12節):
前回は12節の「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」とのみ言葉を主題聖句として学びました。少数派として生きていた初代教会のクリスチャン達に対して、その良き行いによって証しを立てるように、とペテロは勧めています。周りの人々は、クリスチャン達をちょっと見ると、変わったやつだと爪はじきにするかもしれませんが、彼らの行状をじっと見つめるならば、その中に神の恵みと力を感じることになる、とペテロは励ますのです。

・王や権力者に仕える(13節):
「美しい行状」として勧められている第一の分野が、王様や権力者たちへの態度です。

・しもべとして主人に仕える(18節):
その第二の分野は、家で仕える奴隷の、主人に対する態度です。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」これを現代に当てはめると、頑固な社長に対してとか横暴な上司に対してとなるでしょう。先回の説教が終わってから、これが一番難しい、という感想を多く伺いました。確かにそうでしょう。簡単ではありません。しかし、難しい上司も、神の像(かたち)に造られた神の傑作品の一部であるという認識に立つとき、これは可能となります。
 
2.不当な苦しみに耐える(19〜21節a)
 
 
「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。」
 
・不当な苦しみを信仰によって耐えるならば神に喜ばれる:
19節以下の勧めは、18節の、横暴な主人に対しても従うというトピックから、さらに一般的な「義のために苦しむ」という課題への発展です。ペテロは、主人への不服従などの罪を犯したために苦しむのは当たり前で、その苦しみに耐え忍んだからと言って、何のメリットもないと言います。しかし、正しいことを行って苦しむとしたら、しかもその苦しみを信仰によって耐えるならば、それは神に喜ばれることだ(文字通りには、「恵み」である)とペテロは言います。

・苦しみに耐える心(「神の前における良心」):
ペテロは、「神の前における良心のゆえに」苦しみや悲しみを耐えると言います。これは、すべてをご存じであり、すべてを裁き給う神を信じ、その信頼のゆえに、不当な苦しみをも喜んで耐えることです。

・信仰者は忍耐のために召されている:
さらにペテロは、不当な苦しみに耐えるためにこそ信仰者は召されているのだとまで言います。これは、山上の垂訓でペテロが主イエスから直接聞いた「義のために迫害されるものは幸い」(マタイ5:10)という教えを反映しています。もちろん、苦しみを求めるべきではありませんが、それが来るとき、より深いキリストとの一体感を経験しうるという恵みがあるのです。
 
3.キリストの模範(21節b〜23節)
 
 
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」
 
・不当な苦しみを受けたキリストは私たちの模範:
ここでペテロは、不当な苦しみを受けたキリストの模範を示します。「(なぜなら)キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」と、キリストの苦しみの積極的意義を説きます。この「模範」という言葉は、習字の時に先生が書いた筆に沿って書くような様を表します。先ほど言いましたように、私たちが不当な苦しみを受けるとき、同じ経験をされた主イエス・キリストの心を理解し、キリストとの一体性を味わうことになるからです。もちろん私たちの苦しみに贖罪的な意味はありませんが、少なくとも主キリストとの共感という恵みを頂くことはできます。

・キリストの無罪性(「キリストは罪を犯したことがなく・・・」):
続いてペテロは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」とキリストの無罪性を述べます。ペテロは、主キリストと三年半寝起きを共にした男です。その男が「罪を犯したことがない」と証言するのですから、その証言は重いものです。更に「その口に何の偽りも見いだされませんでした」と主の言葉の真実さを強調します。「見出されなかった」とは、どんな風に荒探しをしても見つからなかった、という意味です。普通の人間ならば、「叩けば埃が出る」ものです。しかし、主は、どこを叩いても埃が出ませんでした。

・主は黙って苦難を忍びなさった(イザヤ53:7):
その無罪のキリストが「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」といじめる人々に仕返しをすることなく、じっと苦しみに耐える姿を述べます。十字架のそばにいたペテロは、正に主イエスの苦しみを目撃したものとして、黙って苦難を忍びなさった主の姿を印象的に覚えていました。主は、兵士たちに拳で叩かれ、鞭打たれ、唾され、茨の冠を押し付けられました。裁判では、全く事実無根の罪名を着せられ、祭司たちから嘲られ、あらゆる辱めを受けました。しかし、主はこれらを黙って、静かな心で受けられました。キリストの十字架の何百年も前にこれを予言したイザヤの言葉を引用します。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:7)イザヤは、「主のしもべ」の預言として、これを描いているのですが、ペテロは、「家のしもべ」という立場にいるクリスチャンたちも、そのようであるようにと言っています。それは、すべてを知り給う神に委ね切った心からでした。一切の復讐心からの自由がここに現れています。それこそが、私たちが倣うべき模範なのです。
 
5.キリスト受難の意義(24〜25節)
 
 
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」
 
・キリストの自発的受難(「自分から・・・私たちの罪をその身に負われ」):
キリストの受難は、単に苦しみを忍ぶという受け身なものではなく、積極的にそれを引き受けなさいました。「自分から」十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。キリストは、大きな目的をもって、自分から苦しみを負われたのです。その目的は何だったのでしょうか。「私たちの罪をその身に負う」ため、つまり、私たちが犯した罪を、恰もイエスご自身が犯したかのように責任を取って神からの罰を受け、その結果私たちを罪から贖い出すためだったのです。この句もまたイザヤ53:11、12からの引用です、「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。・・・彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」「になう」との言葉は、贖いの日に、犠牲の山羊の上に祭司が手を置き、イスラエル全体の罪を山羊に負わせた後、野原に釈放する絵がもとになっています。さて、ペテロは、罪から贖い出される恵みを三つの角度で述べます。

・義の生涯(「私たちが罪を離れ、義のために生きるため」(イザヤ53: 5)):
この言葉は、イザヤ53: 5の「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」という言葉に符合します。キリストが徹底的に砕かれたゆえに、私たちは、罪から徹底的に離れることができたのです。この「離れ」という言葉は、「死ぬ」という意味も持っています。罪に死ぬとは、罪の支配力から完全に解放されることなのです。

・いやし(「打ち傷のゆえに・・・いやされた」(イザヤ53:5)):
「キリストの打ち傷のゆえに、いやされた」とは、イザヤ53:5の「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」と符合します。ペテロは、愛する主が、その身に受けた生々しい傷を目撃しました。その傷こそは、自分が受けるはずであった罪の罰の身代わりでした。先程「わがため傷つき、十字架にかかりし主よ、罪と咎は洗われ、自由の身とされたり」と歌いました。私たちの全ての傷は、キリストの贖いで癒されたのです。

・回復と安心(「自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」):
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」これが贖いの結果です。これもイザヤ53:6の言葉を映しています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
 
おわりに:魂の牧者、監督者に帰る恵み
 
 
締めくくりに25節の一句一句を噛みしめたいと思います。

・過去の姿(「羊のようにさまよっていた」):
この言葉は、ある日、道に迷ったというような軽いものではありません。ずっと継続的に、神に逆らい、自分勝手な道を歩いていた私たちの姿そのものではないでしょうか。

・キリストの贖い(「私たちの全ての咎が彼に負わせられた」「その打ち傷によって癒された」、「そのうち傷によって癒された」):
私たちが勝手に歩いていたこと、つまり罪の代価は、死であり裁きであります。それを全部、主キリストが十字架で背負ってくださったのです。

・帰るべきお方(「たましいの牧者・監督者」):
私たちが、キリストの身代わり(贖い)の故に赦され、心おきなく、神のもとに帰ることができました。ここで、主のイメージが二つ記されています。一つ目は「たましいの牧者」つまり、羊飼いが羊をケアするように私たちの人生そのものをケアしてくださり、必要を満たして下さり、守って下さるお方です。100匹の羊の内1匹が失われた時、山や谷を巡って、見つけるまで探して下さるお方です。そして、見つけた時に、「大喜びでその羊を担いで」(ルカ15:5)下さるお方です。もう一つのイメージは、「監督」です。鬼監督ではありません。「見張るもの」、「見守るもの」という意味です。「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇121:4)とありますように、私たちをしっかりと見守ってくださるお方です。

・その懐に帰る安心と喜びを味わおう:
今日、このお方の懐に帰る安心と喜びを味わいましょう。祈り深い母の心配をよそに放蕩の生活を続けたアウグスチヌスが、遂に主に立ち返り、その魂の遍歴を「告白録」として記しました。その最後にこう記しています、「あなたは人間を目ざまさせて、あなたを賛美することを人間の喜びとされた。というのもあなたは、私たちをあなたに向かうようにお造りになった。私たちの心はあなたの内に休むまでは、安らぎを得ないからである。」主の懐に憩いましょう。そして、今週の全ての局面で、このお方により頼みつつ歩みましょう。
 
お祈りを致します。