礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年12月4日
 
「誓いを覚え給う主」
アドベント第二聖日
 
竿代 照夫 牧師
 
ルカの福音書 1章67-79節
 
 
[中心聖句]
 
  72,73   主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて・・・
(ルカの福音書 1章72-73節)


 
聖書テキスト
 
 
67 さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。68 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、69 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。71 この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。72 主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、73 われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、74-75 われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。
76 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、77 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。
78 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」
 
はじめに:ザカリヤの賛歌に「神の約束の成就」としてのクリスマスを見る
 
 
アドベントは、キリストのご降誕を待ち望んでいた人々の心をもってクリスマスを待ち望む期間のことです。メシヤ到来を待ち望んでいた一人であるザカリヤの賛歌を通して、クリスマスが「神の約束の成就である」という大切な側面を持っていたことを学びたいと思います。今日のテキストである1:67−79がその賛歌なのですが、まず、ルカ1章前半からその背景を概観します。
 
1.賛歌の背景
 
 
・メシヤ待望の人々:外国による過酷な支配がメシヤ待望を生み出した
5節には、「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」と、ザカリヤの時代が紹介されています。イスラエルの捕囚以来、ペルシャ、ギリシャ、ローマという世界帝国によって、パレスチナは植民地支配を受け続けます。特にローマの支配者の援護でユダヤ王になったエドム人ヘロデは、過酷な支配を致しました。そんな暗黒の時代は、民衆の間に強いメシヤ待望を生み出します。メシヤの来臨を祈る特別な祈りのグループがエルサレムの神殿内に生まれ、アンナとかシメオンという人々は自分が生きている内にメシヤが現れるという御告げ迄受けていました。ザカリヤもメシヤ待望祈祷会のメンバーであったと思われます。

・祭司ザカリヤ:正しい人ザカリヤの悩みは、妻の不妊(5〜7節)
ザカリヤ(名前の意味は「主の記念」)は祭司でした。その妻エリサベツと共に「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。」(6節)のです。多くの祭司が住んでいるエリコではなく、ユダの山地の小さな町を住まいとしていたことでも、その生活の質実さが分かります。彼らには一つの問題がありました。「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」(7節)のです。子供が与えられるように祈っていましたが、それも半ば諦めの祈りとなっていました。

・神殿での奉仕:一生に一度の晴れ舞台(8〜9節)
「さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった。」(8−9節)当時イスラエルには二万人近い祭司がいました。彼らは24組に分かれていて、交替で一年に2週間神殿の奉仕をします。そして、その組の中でくじ引きに当たった人が聖所での奉仕をすることになっていました。しかも、くじが当たると、二度と籤を引いてはならないという決まりがありましたから、この勤めは、ザカリヤにとって最初で最後でした。ザカリヤは、この記念すべき晴れ舞台の朝、身を清め、恐れと戦きをもって主に仕える備えをしました。

・天使のみ告げ:エリサベツの懐妊とメシヤの先駆者誕生(11〜17節)
「主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。・・・ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。・・・彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」(11〜17節)神殿で香を焚き、順序どおりの礼拝を捧げていたザカリヤに天使が現れ、メシヤの先駆者であるヨハネがザカリヤ・エリサベツに生まれることを告げるのです。

・不信仰の反応:み言葉への不信仰のゆえに口が利けず(13〜29節)
「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」(18節)ザカリヤの祈りは答えられたのですが、いざ本当にそのことが起きると告げられて、動転してしまいます。こんな年寄り達にどうして子供ができようかと言ってしまったのです。これに対して天使は、「見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。」(20節)ザカリヤは、必ず実現する神の言葉を信じなかった不信仰の故に口が利けなくなりました。勤めを終えて家に戻ったザカリヤを、妻のエリサベツは温かく迎えました。沈黙の10ヶ月、ザカリヤは聖書からメシヤ預言を学び直し、その期待感を強めて行きます。

・ヨハネの誕生と命名:生まれた男子はヨハネと命名された(57、63〜64節)
「さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産み」ました(57節)。ザカリヤが、「書き板を持って来させて、『彼の名はヨハネ。』と書いた」時、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。」(63〜64節)のです。因みに、ヨハネは「主の恵み」という意味です。ザカリヤは、それまで暖めてきた不信仰への反省と神の恵への感謝の爆発を賛歌という形で表しました。
 
2.賛歌のテーマは「神の救い」
 
 
ザカリヤの賛歌はその出だしの「誉むべきかな」という言葉から「べネディクトス」と呼ばれています。彼の賛歌のテーマは神の救いでした。この12か節の歌の中に、「救い」という言葉が5回(69、71、74、77節)、「贖い」が一回(68節)出てきます。彼の子供ヨハネが神の大いなる救いの管として用いられること、その後に来るキリストを通して神の救いの到来する事をザカリヤは予見しました。

メシヤによって与えられる救いは、3つの側面を持っています。

@敵からの救い(71、74節):イスラエル民族は、隷属状態から解放され、全人類はサタンによる罪の力への隷属状態から解放される
A恐れからの救い(75節):様々な恐れの中でも最大である死の恐れから、十字架によってみな解放される
B豊かな人生への救い(75節):きよい心と正しい行い、喜びから来る奉仕、それらを可能とする力を与えて下さる、しかもそれは、私達の全生涯を通じてである

何と豊かな救いを主は与えようとしておられることか、ザカリヤの心は高鳴りました。
 
3.賛歌の根底にある神の憐み
 
 
・「憐み」とは「契約の愛、忠実な愛」:旧約の「ケセド」(たとい契約の相手が不誠実であっても、誠実に寛容を示される神の愛・忠実さ)に符合
ザカリヤの賛歌の根底にある思想は、神のあわれみでした。「あわれみ」は3回(72、78節)、類語である「顧み」、「訪れ」、「覚え」も出てきます。ここで使われている「あわれみ」(エレオス)はギリシャ語ですが、ザカリヤの心にあったことばはヘブル語のケセドであったと思われます。ヘブル語聖書がギリシャ語に翻訳された時、ケセドは殆どエレオスと訳されたことがそれを物語っているからです。ケセドとは、真実さ・愛・あわれみを合わせたような言葉で、「契約の愛、忠実な愛」のことです。オズワルト博士は、ケセドとは「たとい契約の相手が不誠実であっても、誠実に寛容を示される神の愛・忠実さ」あると言っています。聖書に出てくるとき、このことばは「信じられないほど忍耐深い」神を示しています。このケセドがどのように現れたかをザカリヤの賛歌では、約束を守る誠実さという角度から述べています。
 
4.賛歌の対象は誓いを覚え給う主
 
 
68節でザカリヤは「主はその民を顧みて(<エピスケプトマイ=よく見るために行く>・・」、72、73節では「その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて」と言いつつ、神がそのお約束を忘れなさらなかったことを感謝しています。ではどのような約束なのでしょうか。

旧約聖書は、メシヤに関する先祖たちへの誓い(約束)に満ちていますが、代表的なものを拾ってみます。

・アダムとエバへの約束(創世記3章):原初福音
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(3:15)人類が罪に陥った直後、敵であるサタンの勢力を打ち砕く女の子孫(メシヤ)の働きが預言されました。これは原初福音とも呼ばれています

・アブラハムへの約束(創世記12章、22章):世界的祝福
「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」(12:2)アブラハムが祝福の源となることが約束されました。さらに「あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取る」(22:17)とメシヤの到来が予告されました。

・ダビデへの約束(2サムエル7章):永遠の王国
神は、「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。」(7:12)と、ダビデの子が王国を確立すること、そしてその王国の王座を「とこしえまでも堅く立てる。」(7:13)と約束されました。これは、ダビデの子孫がメシヤとなることの預言です。

・イザヤへの約束(イザヤ9章):「平和の王」
イザヤは、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(9:2)と、暗黒に訪れる光を予言し、更に、その光を齎す幼子の誕生を予言します、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(9:6〜7)と。

・エゼキエルへの約束(エゼキエル34章):真実な牧者
エゼキエルは、己を養うイスラエルの指導者を糾弾した後に、神の約束を示します。「見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする・・・わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。」(34:11、12、15)神ご自身が牧者となり、民を救い出す約束をなさいます。

・マラキへの約束(マラキ4章):「義の太陽」
マラキはメシヤの来臨の近いことを予言します、「見よ。その日が来る。・・・わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」(4:1、2)と。

このリストには、もっともっと加えることができます。ザカリヤも、物が言えなかった期間、聖書を通してこれらの約束をしっかりと学び直し、そしてそれが成就しつつあることを感じていました。メシヤの先駆者たるべきわが子ヨハネの誕生によって、ザカリヤの感動は一気に爆発しました。旧約時代最後の預言者マラキから4百年経過し、自分たちはもう忘れ去られたのかという思いを打ち破って、神が「訪問してくださった」という感激が、彼を包みました。そうだ、神は約束を守って、「訪問してくださる」神なのだ、と。
 
おわりに:覚え給う真実な神と、真実に向き合おう
 
 
私達も、この当時の人々と同じように、「暗黒と死の陰にすわる者」です。しかし、それだからこそ、私たちは神のあわれみに目を向けるのです。約束を守り給う真実さ、暗きものを訪問してくださるその憐れみ、冷たい心を温かく包んでくださる恵、不信仰のものを赦して回復してくださるそのあわれみ、その恵みに頼り、感謝し、甘えるものでありたいと思います。

同じ時に御子キリストを孕んだマリヤも同じ思想を表現しています、「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。」(54節)と。

主は私たち一人ひとりを忘れないで覚え給う、かえりみ給うお方です。その表れがクリスマスなのです。今日、もしこの聴衆の一人でも、私は忘れられた存在だ、私などは、世の中からも、家族友人からも見捨てられた存在だ、神様だって見放しておられると感じる方がありましょうか。ザカリヤの賛歌を思い出してください。「主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚え」給うお方であることを。
 
お祈りを致します。