礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年12月11日
 
「エッサイの根株から若枝が」
アドベント第三聖日
 
竿代 照夫 牧師
 
イザヤ書 11章1-10節
 
 
[中心聖句]
 
  10   エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
(イザヤ書 11章10節)


 
はじめに
 
 
アドベント第三の聖日を迎えました。昨週は先駆者ヨハネの父となったザカリヤの賛歌から、降誕の事実を「預言の成就」という角度から学びました。創世記3章から始まるメシヤ預言は、旧約聖書最後のマラキ書までを貫く一筋の金の糸のようなものです。今日はその一部分であるイザヤ書を取り上げます。イザヤ預言の中でも重要なメシヤ預言が7〜11章に記されています.
 
1.預言の背景(7章から11章までの流れ)
 
 
・ユダの危機において画策せずインマヌエル(共なる神)に頼れ(7章):
反アッシリヤ同盟を結んだアラムとイスラエルがユダを仲間にしようとして攻め寄せてきた危機にあって、人間的画策をしないで神に頼るようにと主張したのがイザヤです。その神が私達と一緒に居てくださるという証拠に、処女がみごもってインマヌエルという子供を生むという約束を致します(14節)。

・侵略の只中で神は守り給う(8章):
アッシリヤはアラムとイスラエルを易々と捻り潰し、勢い余ってユダに侵攻します。その危機にあって、神がともにおられ、奇跡的に守られることが約束されます(7−8節)。

・平和の象徴なる「みどりご」王(9章前半):
インマヌエル預言が、より詳しく提示されます。特に、みどりごの建てる新しい王国の性格が示されます(6節)。

・悔改めぬ北イスラエルは裁かれる(9章後半):
危機に遭っても悔い改めない北イスラエルに対する徹底的な裁きが宣告されます(9:13−14)。

・破壊者アッシリヤが破壊される(10章):
アッシリヤは、神に背くイスラエルに対する神の怒りの杖(道具)として用いられました。「ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。・・・わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ・・・ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。」(10:5−6)しかし、アッシリヤは自分の道具性を忘れ、高ぶりと暴虐に走りました。「しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。」(10:7)ですから、神はアッシリヤより強力な國を興して、アッシリヤをも滅ぼしなさいます。「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。・・・それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。」(10:15−16)10:33−34はその纏めとして主の裁きが全土に及ぶ様が語られます。「見よ。万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払う。・・・主は林の茂みを斧で切り落とし、レバノンは・・・倒される。」
 
2.若枝としてのメシヤ(11:1)ル
 
 
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」
 
・廃墟からの生命:
滅びの中から希望の新芽が生える(レムナント):主の全面的な裁きの中にあって、切り株から新芽が生える、という預言がなされます。これは、イスラエルの民が憐れみの故に残されるというレムナント(遺残者)の思想です。そして、その末裔からメシヤが生まれるという信仰が表されます。全ての物が失われ、ユダ王国は徹底的に滅ぼされますが、その廃墟から不死鳥の様に生命が生まれ出ます。若枝という言葉の中に、廃墟からの復活、古株の持っていなかった新鮮な生命力が象徴されます。イスラエルは、アッシリヤやバビロンによって壊滅させられるのですが、その壊滅状態から、神は救い主を起こされます。イザヤ53:2もメシヤのことを「若枝のように芽生え・・・」と描写します。絶望からの希望が示唆されます。私達の人生でも、絶望の行き詰まりに希望が与えられます。なまじ自分には何かの力がある、望みがあると思っている時には、神の力を捉えることができません。パウロが物凄い迫害に遭って、死を覚悟する経験をしたのは、「もはや自分自身を頼まず、死者を甦らせてくださる神により頼む者となるため」(2コリント1:9)でした。

・ダビデ王国の継承:メシヤはエッサイ(ダビデ王)の家系から生まれる
王国の中心人物はメシヤであり、それはエッサイ(ダビデ王)の家系から生まれます。エッサイというのは、ルツの孫、ダビデの父です。メシヤがダビデ王(朝)の家系から生まれることが、ここで初めて預言されます。マタイでは、この成就を下記のように示します。「ボアズ=ルツ→オベデ→エッサイ→ダビデ→ソロモン→レハベアム→・・・(14代の王)ゼデキヤ→・・・ヨセフ→イエス」その流れを示したのが、イザヤ預言です。

・メシヤの象徴としての「枝」:
「枝」とはメシヤの象徴として、他の場所でも言及されています。
▽「その日、主の若枝は麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルの逃れた者の威光と飾りになる。」(イザヤ4:2)
▽「私は、わたしの僕、一つの若枝を来させる」(ゼカリヤ3:8)
▽「見よ、ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいるところから芽が出て芽を出し、主の神殿を立て直す。」(ゼカリヤ6:12)
▽「見よ。その日が来る。その日、私はダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。」(エレミヤ23:5)
▽「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽生えさせる。彼はこの国に公義と正義を行なう。」(エレミヤ33:15)
などです。

・ダビデ王朝の断絶と継承:
さてダビデ王朝について言えば、一旦断絶されるが、継承されるという不思議な預言が、切り株からの若芽、という表現で示されます。元々、ダビデの家は永遠に続くという約束が与えられていました。「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(2サムエル7:16)しかし、実際の歴史を見ると、ダビデの王国と王朝はBC586年のエルサレム滅亡と共に滅びました。では、神の約束は反故になったのでしょうか。いいえ。「ダビデの血を引くメシヤ」によってこの約束は成就したのです。イエス・キリストによって齎された神の国という形で・・・。神の驚くべき歴史支配を見る思いです。
 
3.メシヤの人物像(11:2)
 
 
「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」
 
・御霊が留まる:
メシヤとは、「油注がれたもの」という意味ですが、聖霊の油に満たされたものとしてここでは紹介されます。聖霊は「知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊」と記されていますが、色々な種類の霊がある訳ではなく、一人の霊の多くの働きを示しています。

・御霊は、@知恵、A悟り、Bはかりごと、C能力、D主を知る知識、E敬虔を齎す:
同じ御霊は私たちにもこのような賜物を与えて下さいます。

・主イエスは御霊に満たされていた:
キリストは正にこの御霊に満たされていました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。」(ルカ4:18)
 
4.メシヤの統治原則(11:3b−5)
 
 
「この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。」
 
キリストの治め給う国はこの御言にありますように、
・公平さ:偏った知識や偏見で人を裁かない
・弱者の保護:貧しい人々、弱い立場の人を守る
・悪への厳しさ:悪に対して(妥協せずに)厳しい態度を取る
・真実と正義:正しいことを状況に拘わらずに貫くこと
という原則で導かれます。現実の社会は、残念ながら全く反対ですが、少なくともキリストの治め給う御国の一部である教会の中ではこの原理が行われねばなりません。
 
4.メシヤの王国(11:6−10)
 
 
「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」
 
・信じられないような平和的関係:
メシヤは平和の君です。この部分に記されている平和的な絵は、文字通りには、千年王国において実現します。しかし、精神的な意味では、教会を含む神の国で実現します。つまり、絶対に折り合わないであろう者達が仲良く暮らしている絵です。狼と子羊、豹は子やぎ、子牛と若獅子、雌牛と熊、乳飲み子とコブラ、乳離れした子とまむしの子・・・とは何というコントラストでしょう。具体的に私達の教会に当てはめるとどうなるのでしょうか。馬の合わない人、苦手な人、過去に虐められた記憶があってどうしても赦せない人、この人と一緒に仕事をすると嫌な思いをしそうな人、と平和のうちに共に住み、奉仕を一緒にできるでしょうか。そう簡単ではないと思います。しかし、それを可能とする大切な鍵があります。

・幼子による支配:
一つは、幼子のような純粋な、愛すべき主御自身が私たちを導いておられることです。私たち全てが、この導きに従うと、争うことが愚かとなります。「聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。」逆に言えば、害を加えたり、害いあうのは、私達の指導者である主キリストのスピリットに全く反することであります。

・主を知る知識が充満:
もう一つの要素は、「主を知る知識に満たされる」ことです。単なる知識ではなく、心で主を知ること、主との交わりに生きることです。それが本当の平和の要素です。主の来臨によって確立された教会が、文字通りこのスピリットを実践し、広めていく基地となりたいと祈ります。

・世界に拡大する:
この神の国は、世界に広がって生きます。大事な点は、国々の民がメシヤを求めるということです。彼が帝国主義的な支配を拡げていくのではなく、人々がキリストを慕い、主と仰ぐようになります。これこそ真の世界宣教です。
 
終わりに:私達への挑戦
 
 
・絶望の中で光を見よう:
望みの全く絶えた状態でも、否そのような時にこそ、神の約束は実現し、光を放ちます。クリスマスの事実の中に神の約束への忠実さを見ましょう。

・神の国を経験し、広げよう:
このキリストの王国に従うものが与えられる平和、正義、公平な扱い、知恵に満ちた(配慮に満ちた)扱いを経験しましょう。そして、主を知るお互いの間に、主のご支配を仰ぎましょう。お互いの人間関係に、キリストを主と仰いでこの王国のスピリットを実践しましょう。今の時代の混乱、不正義、不公平、争いは神の国の到来によってのみ平和と正義に変えられます。私達はその為に祈りましょう。
 
お祈りを致します。