礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2016年12月25日
 
「私の目は救いを見た」
聖誕節に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
ルカの福音書 2章21-35節
 
 
[中心聖句]
 
  29,30   主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。
(ルカの福音書 2章29-30節)


 
聖書テキスト
 
 
21 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
22 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。23 --それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。--24 また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。
25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。27 彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た
28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。30 私の目があなたの御救いを見たからです。31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」
 
はじめに
 
 
クリスマスおめでとうございます。世の中が暗ければ暗いほど、キリストの光を身に帯びて、世界中を照らすものとなりたいと思います。

今日は主イエス誕生後、幼子イエスに出会ったシメオンという老人の信仰告白についてお話します。
 
A.シメオンの賛歌:その背景
 
1.キリストの誕生:ベツレヘムの馬小屋で(BC4or5年)
 
 
キリストはBC5年ないしは6年、エルサレムから南に8kmほど離れたベツレヘムという小さな町で生まれました。それも、普通の家ではなく、宿屋に付属している駐ロバ場での誕生でした。誰も知らない静かな誕生でしたが、野原で羊の番をしていた羊飼いが、天使の知らせを受けて駆けつけたために、ベツレヘムでは一大ニュースとなりました。
 
2.割礼と命名:8日目、割礼を受け、「イエス」と名づけられる
 
 
イエスは生後8日目に、ユダヤ人の慣習に従って「割礼」(男性の包皮を切り取る儀式)を受け、前から定められていた「イエス」(「救うもの」との意味)と名づけられました。
 
3.祝福式:40日目、清めと祝福の儀式を受ける
 
 
生後40日目、出産の汚れから母親を清める儀式と、幼子を神に捧げ祝福を頂くために、ヨセフとマリヤは幼子を抱いてエルサレムの神殿に詣でました。そのためのいけにえとして二羽の鳩を携えてきました。本来は小羊一頭ですが、ヨセフとマリヤは貧しかったので小羊を買いゆとりはなかったのです。
 
4.「シメオン」という老人:正しく、敬虔で、イスラエルの慰めを待ち望む
 
 
丁度、ヨセフとマリヤに連れられて神殿に入った幼子イエスを目ざとく見つけたのが、ここに出てくるシメオンという老人です。彼は、正しく、敬虔な(神を畏れその戒めを守る)人で、イスラエルの慰め(救い主の到来)を待ち望んでいました。
 
B.出会いの出来事
 
そのシメオンに、運命の日がやってきました。27節「彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。」その日が特別な日、という聖霊の啓示を彼は受けていました。彼は数多く清めの儀式に与る親子の姿を見ながら、神の示しをひたすら求めていた事でしょう。シメオンは、ヨセフとマリヤに抱かれた幼子を腕に抱き、神をほめたたえました。「主よ。私はもう人生の目的を果たしました。私の目は主の救いを見たからです。」と。この話は、本当に不思議です。外見上は何の変哲もない全くの庶民である普通の夫婦が抱いていた普通の幼子を突然抱いて、「私の目は救いを見た」と叫んだのですから。私は、シメオンがこう言えた理由を4つ挙げて、私たちへの挑戦と捉えたいと思います。/td>
 
1.切なる待望:
 
 
先ほど話しましたように、シメオンは救いを切に待ち望んでいました。当時シメオンのようなメシヤ待望の空気が盛り上がっており、エルサレム神殿の周りではメシヤ待望の祈祷会が組織され、毎日々々「メシヤよ来りませ」という祈りが捧げられていました。その大切なメンバーが、2章後半に登場するアンナという84歳のおばあさんでした。彼らは、救い主をボーっと待っていたのではなく、今か今かと切なる思いを持ち、断食を繰り返しながら待ち続けていました。シメオンも同じ気持ちをもって、救い主を待ち望んでいました。神は、待ち望むものに答えを与えなさいます。
 
2.聖霊に従う生活:
 
 
シメオンには聖霊がとどまっておられました。言い換えると、聖霊に従って歩む歩みを地道に行っていたのです。聖霊に頼り、聖霊と物語り、聖霊の声に従う毎日を送っていました。ですから、その聖霊が「メシヤが来るまでは、あなたは死なない」と語られたときそれを信じ、「今日が、そのメシヤが来る日だよ」(26節)と語られたとき、胸躍らせる気持ちで神殿に詣でたのです。「聖霊の導き」という言葉で、奇抜な行動や主張をなさる方が時々いますが、その人の毎日の生活を見ると、聖霊に従っているとは思えないような自分勝手な行動があったりして、疑問符を付けねばならないケースがあります。しかし、シメオンは、毎日の地道な聖霊による歩みがありましたので、このニュースを他の人々が聞いたとき、なるほど、と頷いたのです。
 
3.み言葉の深い学び:
 
 
メシヤと彼の齎す救いについて、詳しく学んでいたシメオンが救いについて細かく熱心にみ言葉を学んでいたことが、彼の賛歌に良く表れています。

@世界大の救い(イスラエルに限らず、異邦人に及ぶ救い):
彼は、「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」と言いました。この言葉は、イザヤ書の引用です。「主は仰せられる。『ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。』」(イザヤ49:6)イザヤ書のこの部分は、救い主として預言されている主の僕が、イスラエル民族の回復だけでは物足らない、もっと世界大の使命を帯びていることを預言しているというのです。イスラエルの政治的回復を目指す人々が抱いていた政治的なメシヤ待望と全く異なる聖書理解を示しています。同族の救いをゴールとする小さな考えに囚われず、世界大の視野をもって救いを考えていたのです。

A贖いを通しての救い:
賛歌に続いてシメオンは幼子イエスについていろいろな説明を加えました。ヨセフとマリヤは、幼子イエスが救いのために生まれたことは聞かされてはいましたが、それがどのような方法で実現するかについては漠然とした知識しかもっていませんでした。34〜35節は、救いの方法についてのシメオンの洞察を示します。分かり易く纏めますと:
・メシヤは人間の本質を焙りだす:
シメオンは両親を祝福する時、「可愛い子ですね、将来が楽しみです」といった月並みなお祝いではなく、この幼子イエスがどのようなリアクションを人々から受けるかを正確に預言します。「この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受ける徴として定められて」いる、しかも「多くの人の心の思いが現われるため」であるとも言っています。救い主は人間の心をレントゲンのように映し出す事を使命としています。人々の頑なさと傲慢がキリストによって明らかにされるというのです。ですから、人々の反発を買うのです。
・メシヤは自分を犠牲とする:
35節の「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」という言葉はキリストの苦しみの大きさとそれを見なければならない母親の苦しみの預言です。誕生祝いの席で、その子供の死のあり方が予告されるのです。ここに、シメオンが持っていた救い主に対する深い洞察が示されます。本心が暴露された人間の反発は、イエスを十字架に追いやります。しかし、実はその十字架こそが、救いの道であるとシメオンは見抜いたのです。クリスマスの時に十字架まで見通した預言者はシメオンただ独りであったと思われます。この救い主に対する理解は、イザヤ書53章などに預言されている「苦難の僕」をよく学んでいた結果と思われます。
 
4.「祈ったことは答えられた」と信じる信仰の目:
 
 
シメオンは、幼子を掻き抱いて、「私の目ははや主の救いを見た」と信仰をもって救いを捉えました。後になって主イエスはこう語られました、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」シメオンは、正に「受けた」と信じる信仰に立ったのです。
 
終わりに:今朝、シメオンと同じ信仰を告白しよう
 
 
私たちは、全世界の人々と共に、2千年前にベツレヘムの馬小屋で生まれ給うた幼子を見つめています。切なる期待、聖霊に従う生活、そして、み言葉の学びに裏付けられた信仰の目をもって、救いを捉えましょう。この朝、私たちは、解決できない課題と重い心をもって、クリスマスを迎えているかも知れません。しかし、馬ぶねの幼子の中に「私の目はあなたの御救いを見た」と信仰をもって告白をさせていただきましょう。
 
お祈りを致します。