礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年1月1日
 
「イエスに目を注ぐ」
2017年の進発に当たって
 
竿代 照夫 牧師
 
ヘブル人への手紙 12章1-3節
 
 
[中心聖句]
 
  2   信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
(ヘブル人への手紙 12章2節)


 
聖書テキスト
 
 
1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
 
はじめに
 
 
・2017年の展望:
新年あけましておめでとうございます。始まった2017年、世界政治、日本政治のどの状況を見ても、平和とは反対の方向に物事が進んでいて、先行きについては名状しがたい不安をもっている人が多いのではないでしょうか。教会としては、宗教改革500年記念の年であり、聖書と聖書に基づく信仰が改めて確認される年となるでしょう。また、秋には「新改訳2017」が発刊されます。色々な意味でエポックメーキングな年となることでしょう。中目黒教会にとっても色々な変動が予想される年です。

・イエスに目を注ぐ姿勢:
そのような意味合いを孕んだ年の初めに、私の心に通っているみ言葉は、「イエスから目を離さないように」というヘブル書の勧めです。世の動き、人の動き等に心を動揺させられることなく、私たちの視点をしっかりと主イエスに据え、そして据え続けて進む一年でありたいと思います。
 
1.ヘブル書の流れ
 
 
・ヘブル書とは:ヘブル(ユダヤ)人クリスチャンへの励ましの書
ヘブル書とは、各地に散っているユダヤ人の中でクリスチャンとなった人々に宛てて書かれた、いわば公同的な手紙です。このころユダヤ人クリスチャンは、保守的なユダヤ人同胞からユダヤ教の教えと信仰に戻るようにプレッシャーを受けていました。彼らは、同胞であるユダヤ人から仲間外れにされ、主イエスへの信仰を捨てて、伝統的なユダヤ教に戻るようにという圧力を受けていたのです。この手紙は、キリストの福音が、旧約の聖徒たちが期待していた救いの成就であることを示して、キリスト教の確かさを確信させ、ヘブル人クリスチャンが迫害に耐えるようにと励ましています。

・11章:信仰によって生き抜いた聖徒の列伝
11章の信仰列伝は、旧約の聖徒たちが、やがて来るべきメシヤへの期待を持ち、その信仰によって生き抜いたという角度から旧約歴史を振り返っています。

・12章:試練と迫害に耐えて進むようにとの励まし
12章は、そのような旧約の聖徒たちの歩みに倣って、信仰によって試練と迫害に耐えて進むようにと励ましています。

・1〜3節:障害物競走者のように走れ
今日読みました1〜3節は、そのような流れの中での勧めで、ヘブル人クリスチャンを、オリンピックの障害物競走を走っているランナーに譬えて、試練と迫害を乗り越えて進むように励ましています。その励ましの要素をいくつか学びます。
 
2.先輩達の励ましを追い風と捉えよう
 
 
・その模範に倣う:
1節aが「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから・・・」といっているのは、信仰によって迫害に耐え抜いた旧約の聖徒達を羅列し、読者達がその信仰に倣うように、また、彼らの励ましを感じるようにという意味です。信仰によって安定した生活を捨て、あえて流浪の人生を送ったアブラハム、エジプトの快楽を捨てて神の民と共に苦しむ道を選んだモーセ、信仰の証の故に殉教の死を遂げた預言者達の模範に倣って、信仰に生きる者となりましょう、と励ましています。

・その応援に励まされて:
この人々が「私達は自分に与えられたレースを全うしましたよ。今度は皆さんの番です。しっかり頼みますよ。」といわんばかりにぎっしりと観客席を埋め、大声援を送っています。旧約の聖徒達はそれなりの使命を達成しましたが、完全な形での達成は次の世代に受け継がれています。この文脈では、完全な達成とはキリストによって完成される救いの事です。従って、厳密に言えば、この競走は個々のレースではなく、駅伝のようなものです。新約時代の聖徒にたすきが引き継がれ、彼らがゴールする事によって、救いの歴史が完成するのです。問題は、その最終ランナーである1世紀のクリスチャン達が、出だしは良かったのですが、色々な障害に躓いて、レースを棄権しそうな雰囲気が生まれていました。ですから、観客席は必死に応援しているのです。彼らが棄権したら、必死にたすきを繋いできたレースが無駄になるのです。
 
3.イエスに目を注ごう
 
 
・「目を注ぐ」とは:一点をしっかり凝視する
2節の、「イエスから目を離さないでいなさい」という勧めの内容から考え始めます。「目を離さない」という動詞は、ギリシャ語のアフォラオー(look away,towards or upon, look steadfastly upon; 少し距離を置いてある一点をしっかり凝視するというニュアンスの言葉)です。
翻訳は色々ですから比較しますと、
◇英語欽定訳: look unto Jesus
◇NIV: fix our eyes upon Jesus
◇口語訳:仰ぎ見る
◇新共同訳:見つめる
◇Clarkの注:「世とすべての世俗的関心から目を離して、イエスとイエスに関わる霊的な、また、天的な物事に目を注ぐ」
 
【消極面から言うと】
 
 
・困難や迫害を過大に煩わされない:
伝統的なユダヤ教徒から迫害を受けていたユダヤ人クリスチャンは、親戚・友達・社会から、昔のユダヤ教に返りなさいというプレッシャーを感じていました。実際の迫害も起きていました。しかし、その迫害を過大に意識するよりも、同じ課題を通り抜けたイエスを見ようと言っているのです。ペテロは波の上を歩いた時、イエス様だけを見つめて歩きました。歩けたのです。しかし彼が、波を見、風を見た時、ずぶずぶと沈みかけました。私達が目を留めるお方はイエスさまお一人です。

・人を必要以上に意識しない:
彼らは、信仰によってその時々の課題を乗り越え、人生のレースを走り終った=旧約時代の人々が雲のように(一体で)取り囲んでいるのを感じていました。地上においては少数派であり、迫害に耐えて勝利を得た信仰の勇者達が、観客席に陣取って声援を送っているのです。ヘブル書の記者は古代ギリシャの円形競技場を頭に描いてこの勧めをしています。しかし、彼らは、飽くまでも応援団です。応援に励まされることは善いことですが、余りそれを意識すると上がってしまいます。

・重荷と罪を捨てる:
「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」と記されています。この重荷とは、人生の課題から来る思い煩い、大切でない活動などのすべてを含んでいます。それ自体罪ではなくても、場合によっては御心のさまたげとなるということはいくらでもあります。オリンピックの選手は、身に全く衣服を纏わずにレースに参加しました。身軽になると言えばこれ以上の身軽さはありません。これらの「重荷」以上に問題なのは、「纏わりつく罪」です。「まといつく」(euperostatos=良く+周りに+立っている)という言葉は、船に牡蠣がらが容易に付いてしまう様子を連想させます。世の価値観は私達の周りに立っていて、私達の内側に容易に入り込み、私達を滅ぼしてしまう、そうした罪の恐ろしさがこの表現から汲み取れます。出エジプト10:21に、「さわれるほどのやみ」という表現がありますが、私は「まとわりつく罪」との連想で思い出します。ヘブル書のこの文脈では、特に迫害を恐れて福音を捨ててしまうその弱さ、恐れ、不信仰を指しているものと思われます。いずれにせよ、思い煩いは祈りによって神に重荷を委ね、まとい着く罪は十字架の血潮によって振払って頂いて、身軽になって進みたいものです。
 
【積極面から言うと】
 
 
・贖いの完成者としての主に信頼する:
キリストは、信仰による救いを始められた方です(ヘブル2:10)。また、信仰による救いを完成なさった方です。キリストの中に完全な救いがあります。キリストは旧約の聖徒達にとっても(彼等の潜在的な信仰の対象となっていたという点で)、信仰の創始者でした。キリストは同時に信仰の完成を保証するお方でもあります。私達の信仰を終りまで導き、完成にいたらしめる方です。パウロは、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)とその確信を語ります。自分がいい加減だったら振り落とされてしまうという恐れの心から信仰生活をするのではなく、主はご自身の力と恵みによって私の救いを完成してくださるというゆったりした信頼をもって、この一年を始めましょう。

・摸範者として、励ましを頂く:
キリストご自身は、何の課題も悩みもなく悠々とレースを終えられたのではなく、その反対に、最大の迫害に遭いながら、忍耐をもって、しかも最高のレースを終えられました。そのキリストは私達の模範です。そのお方から目を離さずに、彼を頼り、彼を愛し、彼の教えに従う、それが、この困難なレースを全うする鍵だとヘブル記者は言うのです。十字架の物語を思い出しながら深く考えることです。辱めや肉体的な苦しみを穏やかな心を持って受けとめ、その苦しみを通して救い主となり給うたことを学びましょう。1ペテロ2:21−23には、キリストが、辱めや肉体的な苦しみを穏やかな心を持って受けとめ、その苦しみを通して救い主となられたと記されています。そのキリストを見つめますと、大きな慰めと励ましを頂きます。更に、私達がぶつかっている困難は、偶然ではなく、神の意地悪でもなく、神の貴い愛の故の鞭であると覚えたいのです。いな鞭で打たれれば打たれる程神の信頼が厚いのだ、と開き直った考えを持ちたいと思います。そのみ苦しみに与ることで私たちはキリストとの命のつながりを経験するのです。
 
終わりに:栄冠を目指して走ろう
 
 
古代オリンピックでは、優勝者に対しては木の葉(しゅろの葉かパセリの葉)であんだ冠が与えられました。その後彼は故郷で英雄的な歓迎を受け、像が建てられ、詩に歌われ、有名人となり、税金まで免除されることもあったそうです。 今日では金のメダルが与えられ、その上報賞金や年金が付くといわれていますが、それに近い待遇を受けました。しかし、それとても、朽ち行く栄光でした。

朽ちるべき冠を目指すランナーが骨身を削って走っているとすれば、朽ちない栄光の冠を約束されているクリスチャンがスポーツマン以下の懸命さで良いとは思えません。優勝する為にはあらゆる点で節制します。ランナー達は10ヵ月も前からレースに備えて自分を鍛練し、食事を制限し、生活を正してレースに臨んだといわれます。クリスチャンがその時間の使い方、食事、睡眠、学び、祈り、健康維持、趣味における節度などの面で節制を怠ったならば失格者となるでしょう。

これからはじまる2017年、私達がみな天国へ向かうオリンピックの選手であると自覚しましょう。優勝する為に、棄てなければならないものを示されたら、勇気を持って捨てましょう。同じ目的のために、欠けている部分を示されましたら、愛なる全能の主に憐れみを求め、満たして頂きましょう。祈りが欠けていますか。祈りの霊を求めましょう。愛に欠けていますか。キリストの持っておられたような愛を求めましょう。知恵に欠けていますか。天からの知恵を求めましょう。そして天の栄光に向って共に走ろうではありませんか。
 
お祈りを致します。