礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年1月8日
 
「命の恵みをともに受け継ぐ」
ペテロの手紙第一 連講(7)
 
竿代 照夫 牧師
 
ペテロの手紙 第一 3章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
  7   夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。
(ペテロの手紙 第一 3章7節)


 
聖書テキスト
 
 
1 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。2 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。3 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。5 むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。6 たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。
7 同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。
 
1.異邦人の中で美しく!(前回の復習)
 
 
・異邦人社会において良い証しを立てよう(2:12):
前回および前々回は2:12の「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」とのみ言葉を鍵として学びました。少数派として生きていた初代教会のクリスチャン達に対して、その良き行いによって証しを立てるように、とペテロは勧めています。クリスチャンのことを変わった人と思って虐めるような人々も、彼らの行状をじっと見つめるならば、その中に神の恵みと力を感じることになる、とペテロは励ますのです。これまで良き証につい、二つの側面から学びました。

・市民として(2:13):王や権力者に従うことによって
「美しい行状」として勧められている第一の分野は、一市民として、王様や権力者たちに従うことで表わされるとペテロは勧めます。

・しもべとして(2:18):横暴な主人に対しても従うことによって
「美しい行状」の第二の分野は、家で仕える奴隷の、主人に対する態度です。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」自分は真面目に仕えているのに、それを理解しないで、不当な扱いをする「横暴な主人に対しても」従いなさい、とペテロは述べます。そして不当な苦しみに耐えて救いを全うした主イエスの模範を示すのです(2:21)。

さて、異邦人社会における「美しい行状」というテーマは、3章にも続いていきます。今度は、家庭生活における「美しい行状」が取り上げられます。
 
2.妻たるものの態度(1〜6節)
 
 
・「同じように」:しもべと同じように
1節は、「同じように」という言葉から始まります。「何と同じように」なのでしょうか。今迄の経緯を振り返るとそれが分かります。僕が不当な扱いを受けても従うように、国民が不当な支配者の元でも従うように、男尊女卑の傾向が今よりも数十倍も強かった紀元一世紀の社会にあって、クリスチャンの妻たちも夫達に従うようにとの勧めだからです。

・「みことばに従わない夫であっても」従いなさい:
当時も今も変わりありませんが、妻だけがクリスチャンで夫がそうではないという例は、その反対の例に比べて圧倒的に多かったようです。一般的に女性の方が信心深く、男性は世俗的というのは、どの時代、どの社会でも共通のようです。男性は目が外側に向いていますから、内側の信仰よりも、外側の社交に目が向いて、信仰を持たずに過ごす人が多いのかもしれません。さて、そのような家庭の妻に対してペテロは、単純に「従いなさい」と勧めます。

・「無言のふるまいの証」:それは、夫を神の子として獲得する道
「たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」言葉ではなく振舞いと1節では言い、2節では「神を恐れかしこむ清い生き方」と言います。とてもずしんと来るみ言葉です。私たちは伴侶者も含めて他の人を主に導こうとするとき、ことばをたくさん使います。それは悪いことではありませんが、人は説得によっては動かないものです。特に男性は誇りが高いですから、言い負かされるといよいよ意固地になります。ペテロは賢いですね。無言の振舞い、神を恐れかしこむ生き方の方が効果的だというのです。彼らが、妻たちの無言の証を「じっと見ると」そこに福音の力と恵みを感じるのです。この、「じっと見る」という動詞は、2:12で使われている動詞と同じです。さて、ここで一言加えます。このみ言葉を、自分に対する励ましと捉えることは幸いですが、自分は、無言の振舞い、神を恐れかしこむ生き方が「なっていないから」、だから、未信者の夫が信仰を持つに至らないのだという自己卑下や落ち込みの材料に使わないでいただきたいのです。無言の振舞い、神を恐れかしこむ生き方が素晴らしくても、頑なな伴侶者は存在します。この言葉を自己反省の材料としてではなく、希望の材料として捉えたいと思います。私たちの教会でも、他の諸教会でも、何年、何十年かかってとうとう主人が信仰に導かれました、という実例は枚挙にいとまがありません。

・外面の飾りではなく内面の魅力を:「柔和で穏やかな霊」
「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。」ペテロは外面的な化粧や飾りに重点を置かないで、「無言の証」の内容として内面の飾りを重視するようにと勧めます。この言葉を極端に解釈して、クリスチャンは一切の化粧や飾りをしてはならない、というストイックな方向に行ってはなりません。いつの時代にも、その時代、その状況にふさわしい化粧や服装はあるでしょう。問題は、それに必要以上の時間とお金とエネルギーを注ぐのではなく、それ以上のエネルギーを内面の開発のために用いなさいということなのです。ペテロはそれを「柔和で穏やかな霊」という言葉で表しています。「柔和」についてティンダル聖書注解は、「自分の権利に基づいて主張しない」、「押しの強くない、利己的に主張しない。」「自分のやり方を要求しない」と説明しています。「穏やか」とは、「神に対して静かな、継続的な信頼の態度」のことです。パウロは、ガラテヤ5:22〜23で、この徳を御霊の実という表現で示しています。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」この年、沢山求めねばならない目標があるでしょうが、この9つの実が私たちのうちに実ることを求め、祈ろうではありませんか。

・サラのアブラハムへの態度:「主」と呼んで従った
この実例として、アブラハムの奥さんであるサラが挙げられます。サラが夫の発言を笑ったり、信仰的でない行動を取ったりという例を知っていますから、私としてはペテロは少し誉め過ぎという印象を持ちますが、今日はそこには触れますまい。ともかく、サラは夫であるアブラハムを「主」と呼んで従ったのです。夫を「主人」と呼ぶのは封建主義の名残でとんでもないと思っておられる方もあると思いますが、これについても今日は議論いたしません。ともかく、相手に対する尊敬の心が相手を動かすのです。
 
3.夫たるものの態度(7節)
 
 
・言及は僅か1か節、しかし重要:
妻への勧めが6か節あるのに、夫への勧めは1か節とは短すぎて不公平ではないかと文句をつけたい女性もあられると思いますが、とても大事なことを言っているので、これは1か節で済むのです。

・女性の弱さを弁える:体力的、精神的に
「7 同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」確かに、体力的に、精神的に男性よりもはるかに強い女性もおられることは事実ですが、ごく一般的に言って、女性の方が脆く弱い器であることは疑えません。性による差が全く無いならば、オリンピックで、男性競技と女性競技を分ける必要がなくなります。私自身、女性が弱い器であると思う点が色々ありますので、ペテロの言っていることは本当と思います。陶器を送ってくる小包などの包み紙に「取扱注意」と記されているのを見ますが、それと同じです。弱い、壊れやすい器は、取り扱いにデリカシーが必要なのです。つまり、夫は、妻を弱い器として配慮すべきなのです。

・天国の共同相続者として尊敬する:神からの賜物としての伴侶者への尊敬を!
「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」との言葉は重みのある言葉です。「いのちの恵み」とは、この世において共に生きるという恵み、神の恵みを共に受けて歩むという幸いを共有することを意味します。それだけでなく、夫婦は、来るべき永遠に続く命と富と光栄も共同に相続するものなのです。「熟年離婚」という言葉が流行っていますが、今は社会的に離婚すると問題を起こすので我慢しているが、定年になったら「はい、さようなら」と虎視眈々とその時を待っているというような話をよく聞きます。私たち主にあって結ばれた夫婦は、仮に性格が中々合わなかったり、いやな点を見つけてがっかりしたりということはあったとしても、主が、「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」として合わせてくださったカップルなのです。箴言に「家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの。」(箴言19:14)と記されています。伴侶者を尊敬するということは、伴侶者を与えて下さった神を畏れることに繋がります。もう少し敷衍すれば、同じ教会に連なる兄弟姉妹は、皆、「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」同士なのです。馬の合わない人、そりの合わない人、自分と全く別世界にいるように遠い存在である人も含めみんな、「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」なのです。そこに尊敬が生まれ、相互理解が生まれ、協力関係が自然にできてまいります。それが教会なのです。

・祈りの心を保つために:伴侶者への苦い思いは、祈りの心に相応しくない
締めくくりにペテロは、「それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」と言って。妻への尊敬が、祈りの妨げを除くと言いました。伴侶者への尊敬が祈りの世界とどうつながるのでしょうか。私はペテロの意図が分かりませんでしたが、最近漸く少し分かるようになりました。つまり、伴侶者への怒りや苦々しい思いは、私たちの祈りを妨げるからです。伴侶者との穏やかな関係は、私たちの祈りの生活を楽しいものとし、イエス様への献身を深いものとします。
 
終わりに:伴侶者を、また、教会のメンバーを、「命の恵みをともに受け継ぐ」方として見直そう
 
私たちの伴侶者の顔を思い浮かべましょう。この人と一緒に永遠を過ごすとすれば、どんな関係を今築くべきでしょうか。苦々しさ、疑い、嫉妬それらを抱いて永遠に生きるなんて、辛いことですね。主を信頼し、主に頼り、互いに赦し合い、顧み合い、尊敬しつつ、この世の旅路を歩みたいものです。同じことが、すべての教会のメンバーに当て嵌まります。
 
お祈りを致します。