礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年1月15日
 
「祝福の継承者」
ペテロの手紙第一 連講(8)
 
竿代 照夫 牧師
 
ペテロの手紙 第一 3章8-12節
 
 
[中心聖句]
 
  7   悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
(ペテロの手紙 第一 3章7節)


 
聖書テキスト
 
 
8 最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。
9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
10 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、11 悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」
 
1.キリスト者の家庭生活(3:1〜7.前回の復習)
 
 
前回は3:1〜7の家庭生活の勧めの記事を学びました。

・妻の服従:「みことばに従わない夫であっても」従う
当時も今も変わりありませんが、妻だけがクリスチャンで夫がそうではないという例が多かったようですが、ペテロは「みことばに従わない夫であっても」従いなさい」と勧めます。それは、「無言のふるまい」を通して、最終的には夫を主に導くことができるからです。

・夫の妻への尊敬(7節):「命の恵みをともに受け継ぐ」者として尊敬する
一方夫の側では、妻を弱い器としてケアしつつ、同時に「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬」すべきことを勧めます。「いのちの恵み」とは、この世において共に生きるという恵み、神の恵みを共に受けて歩むという幸いを共有することを意味します。それだけでなく、夫婦は、来るべき永遠に続く命と富と光栄も共同に相続するものなのです。伴侶者を、また、教会のメンバーを、「命の恵みをともに受け継ぐ」方として見直したいと思います。
 
2.教会のメンバーへの態度
 
 
「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。」
 
「最後に」とペテロは、今まで述べたキリスト者の特別な諸関係から離れて、教会における人間関係の大切な教えを述べます。これらは、「互いに」という言葉でまとめられましょう。

・互いの一致:「心を一つにし」
同じ思いとフィーリングを持つ、との意味で、教会が、主を愛し主に仕える同じ方向を向くようにとの勧めです。

・互いの配慮:「同情し合い」
同じパッションを持つという意味で、互いに喜びを喜びとし、互いの悲しみを悲しみと共有するようにとの勧めです。

・互いの愛:「兄弟愛を示し」
メンバーを同じ兄弟姉妹として愛し合うという意味です。

・互いの共感:「あわれみ深く」
柔らかい腸を持つという意味で、他人の気持ちや情緒を柔らかい心をもって配慮することが勧められます。

・互いの尊敬:「謙遜であれ」
他人を自分よりも優れた者と心から思うその謙遜さです。態度だけの問題ではありません。
 
3.悪を行うものへの態度(9節)
 
 
「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」
 
ペテロの手紙は、今までも繰り返しお話ししましたように、少数派として生きていた「小アジア」クリスチャンに対して、キリスト者でない人が多数である社会でどう生きて行くかというテーマで語られてきました。ペテロはそれを繰り返します。

・悪に対して悪に報いない:
自分に対して悪意をもって行動する人に対して、同じレベルの悪意で仕返しをしないことを意味します。

・侮辱に対して侮辱で返さない:
悪意が、自分を侮辱するような言葉となって表れたとき、同じような言葉を返さないことです。

・祝福をもって臨む:
主イエス様も、あなたがたを迫害する者のために祈れ、と語られました。正直に言って、いじめる人を愛することはとても難しいのですが、しかし、祈ることはできる、とエリック・リデルという人は言いました。リデルとは、1924年のパリ・オリンピックで400メートルで優勝したゴールドメダリストです。その後宣教師となって中国に亘り、宣教活動をしていましたが、太平洋戦争がはじまり、妊娠中の妻と二人の娘を母国に返し、残務処理をするために一人残っていたところを日本軍につかまり、収容所に入れられました。宣教師の子どもたちが学んでいた学校の生徒であったメティカフ少年も同じ収容所に入れられており、共に暮らすようになりました。リデルは、同じ境遇にいる人々を励まそうと、聖書を学ぶ会を開きました。メティカフ少年もその聖書研究会の一員でした。山上の垂訓に差し掛かった時、少年たちから質問が出されました。「『汝の敵を愛せよ』とキリストは言っているが、そんなことは実際にはできっこない。これは単なる理想なのではないか?」というものでした。その時のその時の「敵」とは、自分たちを散々いじめている日本兵ことでした。リデルは微笑みながら言いました、「ぼくもそう思うところだったんだ。だけど、このことばには続きがあることに気が付いたんだンだよ。『迫害する者のために祈りなさい』とね。・・・イエスは愛せない者のために祈れと言われたんだ。だから君たちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、君たちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、君たちは神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りは君たちの姿勢を変えるんだ。」そういうリデル自身、毎朝早く起きて日本と日本人のために祈っていました。リデルは脳腫瘍で間もなく死んでしまいました。しかし、メテイカフは、その墓前で、リデルの残した仕事をするために「宣教師になって日本へ行く」決意をします。実際1952年から38年間、日本で宣教活動を続けて母国英国に帰国した。その後、「闇に輝くともしびを継いで」というの本を刊行し、の刊行感謝会を2005年にこの教会でなさったのです。

・祝福できる理由;
「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とペテロは、私たちが悪を行うものを祝福できる理由を述べます。このことばは二通りに捉えることができます。
@私たちは祝福を継承するものなのだから:
「敵がどう画策しようとも、私たちは祝福を受け継ぐ立場に変わりはない。」というものです。祝福を受けているのだから、その豊かな心をもって悪に対応できるのです。この実例はダビデです。彼は、サウル王様でから狂ったような嫉妬の故に命を付け狙われ危ういところを何度も通り、ついには国外で逃亡生活を送るようになりました。ダビデは、自分がサウル王の命を取ることができるようなチャンスに二度も巡り合いましたが、決して自分から手を下そうとせず、神の裁きに委ねました。なぜそうできたのでしょうか。私は、ダビデが少年の時、サムエルによって将来の王となるべく油注ぎを受け、その恵みが彼の心を支えていたからだと思います。私たちが神に愛されている、神に祝福されているという確信は、心にゆとりを与えます。
A悪人の祝福を祈ることが祝福を倍増させるから:
私たちが悪をなすものに祝福を祈ることによって祝福が跳ね返ってくるということがもう一つの理由です。悪に対する報復は何も生みだしません。生み出すものがあれば、それは悪意の増幅です。しかし、祝福を祈る時、その祝福は悪を行うものに注がれ、それが、私自身への祝福となって跳ね返ってくるのです。これを信じ切りたいと思います。
 
4.詩篇34の引用(10〜12節)
 
 
悪に対して、祝福をもって臨むことを述べた後で、ペテロは、詩篇34篇を引用します。さて、その詩篇34篇を開きましょう。

・詩篇34の背景(題辞):
ダビデが苦境の中で歌った歌=題辞に「ダビデによる。彼がアビメレクの前で気が違ったかのようにふるまい、彼に追われて去ったとき」と記されています。先ほど触れましたように、ダビデはサウル王の嫉妬と悪意を受けて、国外での逃亡生活を余儀なくされました。その最初の時、ペリシテ人の王アビメレクに捕まりそうになります。咄嗟にダビデは気が違った振りをしてその危機を乗り越えました。恥ずかしかったその経験、いのちの危機を乗り越えた感謝、色々なものが交じった賛美と感謝の歌です。

・神の助けの故に神を賛美する(6〜10節):
ダビデは神に感謝を捧げます「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」そして主の助けを確信し、主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」と歌い、また、「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」と神を賛美します。彼が若い時に油注がれ、神の恵みが宿っていることを確信したゆえに、困難と迫害を、ゆとりの心をもって乗り越えることができたのです。

・悪をなす者は、神が処置してくださる(13〜16節)
ダビデは、この経験に基づき、悪をなすものに悪をもって報いず、神の処置に委ねることを学びます。「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。」と。私たちは時に、悪を行うものに対して直接言い返してやりたいという気持ちを持つことがあります。実際、直接に言い返すことが正しく、知恵があり、効果的な場合もあります。しかし、多くの場合、それを行うときに、私たちの怒りやら苦さといった感情が入ってしまって、冷静に言えないものです。そして却って人間関係を悪くするのが落ちです。ですから詩篇の作者ダビデは、「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。」と言葉を慎むことを学び、その反面、「主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。」と言って、神が裁かれる、裁き給う神に委ねなさいと説くのです。ペテロがダビデを引用したその狙いはここにあるように思います。
 
終わりに:あなたに悪をなすものを思い切って祝福しよう
 
 
私たちの人生で、色々な人々にぶつかりますが、私たちをあまりよく思っていない人、思っていなさそうな人がいますね。そんな人が全くなければ、本当に幸いです。しかし、90%以上の人がそんな人を持っているでしょう。この朝、思い切ってその人の名を挙げて、心から祝福を祈って見ようではありませんか。あの人が祝福されるなんて許せない、などとケチな考えを抱かずに、その方の祝福を心から真剣に祈ろうではありませんか。神様がその祈りをどのように答えてくださるか、楽しみに待ちましょう。
 
お祈りを致します。