礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年1月22日
 
「『キリストのもの』である教会」
教会総会に臨み
 
竿代 照夫 牧師
 
マタイの福音書 16章15-19節
 
 
[中心聖句]
 
  18   あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
(マタイの福音書 16章18節)


 
聖書テキスト
 
 
「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』するとイエスは、彼に答えて言われた。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。』」
 
始めに:教会の大憲章(マグナ・カルタ)=マタイ16:18
 
 
第69次教会総会を迎えました。元旦礼拝では、「主イエスだけに目を注ぐように」と、ヘブル書から学びました。この礼拝においては、ペテロの信仰告白と、それに応答する主イエスのみ言葉を学びます。

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」この言葉は、教会の大憲章(マグナ・カルタ)とも呼ばれる、教会にの基礎を示すみ言葉です。

この主イエスの教会大憲章について「わたしの」、「わたしは」、そして「この岩の上に」という三つのキーワードで考えたいと思います。
 
1.「わたしの」―「キリストのもの」としての教会
 
 
・教会の所有者は人ではなく主イエス:
主イエスは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」と語られました。この宣言の中で「わたしの」という所有代名詞は強調的な言葉です。ペテロたちが、自分たちの名前で教会を立てるのではなく、イエス様のものとしての教会の建設に加わるようにと語られました。私たちは日常会話の中で、「私たちの教会」とか、「私の教会」という所有代名詞を人間につけることがあります。それは「教会」が自分から離れた外側にあるものではなく、教会に対する所属意識と親しみをもって表現するためで、それ自体悪いことではありません。或いは、教会の創立者を記念し、感謝の意を込めて「〇〇先生の教会」とか、現牧師の働きに敬意を表して「〇〇牧師の教会」といった呼び方をすることもあります。でも厳密にいえば、このような言い方は少なくとも聖書的ではありません。

・新約聖書の用例:「コリントにある神の教会」(1コリント1:2)など
それでは、新約聖書はどのような呼び方をしているか調べてみましょう。コリントの教会は、「コリントにある神の教会」(1コリント1:2)と呼ばれています。パウロが迫害したのは「神の教会」(1コリント10:9)でした。その他「神の」教会という呼び方は合計8回出てきます。「キリストの教会」(ローマ16:16)という言い方もなされています。人に付けられた例外としては「テサロニケ人の教会」(1テサロニケ1:1)という言い方がされていますが、これは、人々に強調があるよりも、地名に強調があると見るべきです。私たちが、「インマヌエル中目黒キリスト教会」と呼ぶとき、中目黒に集まっている「私たちの」教会ではなく、そこに集まってきている「キリストの教会」なのだ、という意識をしっかり持ちたく願います。

・教会がキリストのものとすれば:そこに尊敬と愛がうまれる
教会がキリストのものなのだ、という本来の意識を持つときに、どんな気持ちが私たちに生まれるでしょうか。その一つは尊敬です。確かに地上にある、しかも欠点の多い人間の集まりである教会に、沢山の欠点はあるでしょう。しかし、どんな沢山の欠点があったにしても、教会は本質的にはキリストのものなのです。その理解に立つと、安易な教会批判をすべきでないことは自明です。欠点については痛みを感じても良いのですが、その欠点を我がものと感じつつ、しかし、所有者であるキリストの故に尊敬を払うべきです。もう一つの気持ちは愛です。キリストを愛することはキリストのものである教会を愛することです。欠点を多く見出だしたとしても、いやそれだからこそ、その弱さに自分の身を当てはめ、労することによって愛を表したいものです。
 
2.「わたしは」― 建設者なるキリスト
 
 
・私たちは「建てる」のではなく、「建てられる」(エペソ2:21、22):
主イエスは、「わたしが・・・建てる」と語られました。ペテロに対して、「あなたがたが・・・建てなさい」とはおっしゃっておられません。新約聖書の他の場所を見ましても、「教会を建てるのはあなたがたである」というような表現は見当たりません。むしろ、キリスト者たちがキリストのみ体である教会として建て上げられるように(エペソ2:21、22)という受け身的な表現が使われています。

・教会建設における人的要素と神的要素:
教会の建設者がキリストであるという事実は、私たちは傍観者であってよいという勧めにはなりません。パウロは1コリント3章において、「私は植え、アポロは水を注いだ」(3:6)と人間的な労をしっかり認めています。植物の成長のためには、種をまくもの、水を注ぐものの存在が必要です。この場合、種をまくとは福音を伝えること、しっかりした教理の基礎を植え付けることです。水を注ぐとは教育的働きのことです。人間が福音の種をまき、人々を教育することは大切だし、それは教会成長に大きく貢献することは確かだが、それが教会成長の主因なのではなく、神のご干渉が決定的な教会成長のカギを握っているということなのです。パウロは、植える者、水を注ぐものは「何でもなく」、つまり、nothingで、育て給うのは神だ、と神的要素を強調します(3:7)。パウロとアポロの労が教会を建てる主因ではなく、成長なさるのは神である、と教会建設における神の主導権を明確に宣言しています。

・謙遜と信仰:
教会建設における神の主導権という真理が私たちに与えるメッセージは何でしょうか。一つのメッセージは謙遜です。外から見て教会が成長しているように見える時、私たちは自分の功績として誇ってはならないのです。すべて神がなし給うという意識は、私たちを謙らせます。同時に、神が教会の建設者であるという真理は私たちに信仰を与えます。仮に教会の状況が余りうまく行っていないように見える時でも、「たちが力不足だからだ」と思って落ち込む必要もないのです。私たちは果たすべき役割をしっかり果たす、しかし、成長させなさるのは神ご自身なのだという大胆な信仰を持ちつつ、すべてを主に委ねたいと思います。
 
3.「この岩の上に」― キリストが土台
 
 
・ペテロ自身ではなく、その信仰告白:
16:18の「岩」とは何でしょうか。カトリック教会が主張するように、ペテロ自身、そしてその後継者と言われるローマ教皇のことではありません。これは、「あなたはキリスト、神の子です」とペテロが語った信仰告白の続きであります。主イエスは、この告白はペテロの思い付きの発言ではなく、神の啓示によると激賞されました。ですから、この岩とは、ペテロの信仰告白であると理解することができます。

・キリストが教会の基礎:
言葉を換えれば、教会の土台はキリストご自身なのです。パウロは「その土台とは、イエス・キリストです」(1コリント3:11)と語りました。その同じ節に「すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできない」とも記されています。さらにエペソ人への手紙の中で、同じことを少し違ったニュアンスで言っています、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」(エペソ2:20)使徒と預言者とは、霊感された神のみことばである聖書に示された教えのことでしょう。私たちは、時代がどう変わろうとも、人々の考えや哲学がどう変わろうとも、変わることのない聖書の真理を究めつつ、その教えに固く立ち続けたいと思います。
 
おわりに:教会の主なる主イエスに目を注ごう
 
 
教会総会を越えて3月には、主牧の交代が内示されている年会を迎えようとしています。このように、中目黒教会にとっての「過渡期」にあって、教会の主、教会建設者なる主イエスに私たちの目をしっかりと注ぎ続けましょう。
 
お祈りを致します。