礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年1月29日
 
「キリストを主とあがめる」
ペテロの手紙第一 連講(9)
 
竿代 照夫 牧師
 
ペテロの手紙 第一 3章13-22節
 
 
[中心聖句]
 
  15   むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
(ペテロの手紙 第一 3章15節)


 
はじめに(前回の復習):「祝福を受け継ぐ者」=「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(3:9)
 
 
前回は、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(9節)を中心に「祝福を受け継ぐ者」という題でお話ししました。ペテロは、私たちに悪いことをする人々に対して仕返しするのではなく、却って祝福を祈りなさいと勧めています。そんなことできない、悔しい、と思う方もあるでしょう。しかし、ペテロは理由を述べます。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだから」と。私たちが神に大いに神に祝福されているという確信は、心にゆとりを与えます。そのゆとりが悪を行う者への寛大な心となるというのです。もう一つ、彼は、私たちが悪をなすものに祝福を祈ることによって祝福が跳ね返ってくるというのです。

■今日のテーマ:「いじめ」とどう立ち向かうか?
今日のテキスト(13〜22節)は、前回の続きです。つまり、「いじめ」とどう立ち向かうか?というテーマです。この手紙の宛先である小アジヤのクリスチャンたちは、圧倒的多数である多神教の人々、数は少ないけれどもキリスト教に反感を持っている保守的なユダヤ人に取り囲まれて、見える形、見えない形で「いじめ」を受けていました。ペテロはそのクリスチャンたちを励ましているのです。
 
1.「いじめ」を祝福と考えなさい(13〜14節a)
 
 
「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。」
 
・(普通)良いことをする人は誉められる:
良いことに熱心に取り組んでいる人、例えば近所の貧しい人々を一生懸命にケアしている人は社会から称賛されます。たとい、周りの人々が攻撃しようと思ってもその口実さえ与えない、これが普通です。私たちも本当に、このような人となりたいと思います。「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」のモデルとなった斎藤宗次郎という人は、まさにこのような人であったと思います。

・義のために苦しむのは祝福である:
善人を害するものはない、ということは一般原則ではありますが、一般法則だけでは進まないのが世の中です。それほど人間とは意地悪なものだからです。しかしペテロは、「義のために苦しむことがあるにしても、それは幸い」だ、と言いました。この言葉は、彼自身が山の上で聞いた「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5:10)を思い出して書いていたのです。

・斎藤宗次郎:いじめる人々に愛を注いだ人
今お話しした斎藤宗次郎は、岩手県花巻で最初にクリスチャンとなった人です。洗礼を受けた日から色々な嫌がらせを受け、近所で火事が起きたときには、全然関係ないのに家のガラスを割られたこともありました。いわれなき中傷を何度も受け、小学校の先生を辞めさせられました。長女の愛子ちゃんは「耶蘇の子」と虐められ、腹をけられ、それがもとで腹膜炎を患って9歳で死んでしまうという悲劇を体験しました。教師を辞めさせられた宗次郎は、新聞と牛乳を朝早く配達することで生計を立てました。雪の日には道路の雪かきをし、愛子ちゃんが通っていた小学校の前を一番先にきれいにしたと言われています。彼は、子供に会うとアメ玉をやり、病気の人を聞きつけるとお見舞いをし、励ましました。「でくのぼう」と言われながらも最後まで愛を貫き通しました。その宗次郎が、内村鑑三の勧めで上京することとなりました。出発の朝、誰も見送りには来てくれないだろうと思って駅に立つと、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど集まり、駅長は、停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたというのです。その群衆の中に、実は若き日の宮沢賢治もいました。「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の詩は、この時の感動に基づいたものです。この詩の締め括り「そういう者に私はなりたい」とは、賢治のその思いが込められています。
 
2.キリストをあがめなさい(14節b〜16節a)
 
 
「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。」
 
・脅かしを恐れない:
義のための迫害は祝福という理解に立つと、他人からの脅かしによって恐れる心から守られます。

・キリストを主とあがめる:
守られるという防御的な姿勢だけではなく「むしろ」(つまり積極的に)、「心の中でキリストを主とあがめる」ことだ、とペテロは勧めます。「あがめる」の原語は、ハギアゾー(きよめる)で、直訳としては、「キリストを主としてきよめなさい」となります。キリストはもともと聖いお方なのに、なぜきよめる必要があるのでしょうか。それは、「イエス様を聖いお方として尊ぶ」という意味です。イエス様が主であることを信じ、敬うことです。「心の中で」とは、誰にも動かされない深い確信をもって、このお方に信頼することです。誰がどんなに脅かしたり、虐めたりしても、心の中におられるキリストをいじめることはできません。「イエス様、今は私のことをいじめる人も、やがて、あなたが万物の主であることが分かりますように」と祈るのです。

・弁明(説明)の準備をする:
さらにペテロは、クリスチャンに反対する人々も、クリスチャンの穏やかな対応に何かを感じて、クリスチャンの希望の理由を尋ねてくる人も起きるだろう、それを期待し、その人にどう答えるかの準備をしておきなさい、と勧めます。ペテロの言葉がとても注意深いと思います。「誰にもどんな場合にも弁明しなさい」ではなく、「弁明の準備をしなさい」と言っているのです。誰かに悪口を言われる時、すぐに悪口で返しますと、けんかが収まらない場合が多いのです。しかし、相手が心を開いて、「あなたは、そんなにいじめられても、明るいね。あなたは何を希望にして生きているの?」と聞いてきた時に、落ち着いて「それはね。イエス様という方がすばらしい方だからですよ。」と、イエス様のすばらしさを弁明(説明)できるように準備しておきなさい、というのです。では、どんな準備でしょうか。私は、聖書をよく学ぶこと、そして学んだことを自分に当てはめて生きている生活がその準備であると思います。なぜ私は、いまキリストを主として信じているのか、それは神のことばである聖書の真理に基づいているということを順序立てて、きちんと学んでいる必要があります。さらに、その真理が私の心と生涯にも当てはまったという実体験の証が、裏付けとなります。

・優しく、慎み恐れて弁明する:
私たちが弁明する時、相手をやっつけようなどという攻撃的な態度ではなく、優しさと慎み深さをもって行う必要があります。
 
3.いじめる人が変わる(16節b〜17節)
 
 
「そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。」
 
・いじめた人が恥ずかしくなる:
「ののしる人たちが、自分たちの行為を恥じ入る」というのがペテロの確信です。恐らくペテロは、もっと進んで、この人々も神を崇めるようになると信じていたに違いありません。それは2:12でも明らかです。「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」素晴らしい信仰ではありませんか。

・レーナ・マリアさん:いじめっ子がいじめをやめた話
レーナ・マリアさんという福音歌手がおられます。生まれつき、両手がない方です。全部自分の足で運転も料理も食事もなさいます。小さい時学校でいじめられました。でも、レーナさんは、この障害も神様が与えて下さったものだと信じていましたから、明るく過ごすことができました。段々いじめっ子たちも、いじめることに飽きてしまって、いじめるのを止めたそうです。素晴らしいですね。
 
4.いじめる人々に勝ったキリスト(18〜22節)
 
 
「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」
 
・キリストは、悪を行う人々を赦し、身代わりとなった:
ここでペテロは、再度キリストの模範を示します。キリストは、悪い人々を責めたり、仕返ししたりしないで、却ってその人々の罪を背負って十字架でなくなりました。これは、より積極的な悪への応答です。

・よみにおける宣教:
キリストが十字架で死に、葬られた後何をなさったかについて小さな光を与える説明ですが、これにはいろいろ憶測を交えた議論がありますので、本講では飛ばします。

・洪水はバプテスマの雛型:
これもまた議論の多いところで、私の連講のマネージできる範囲を超えますので、省略します。
 
おわりに:キリストを主とあがめよう
 
 
私たちは、毎日の生活の中で、小さな意地悪や、大きないじめを経験することがあるでしょう。そんな時、どうやって言い返そうか、と考える前に、「主イエス様!」と一言叫びましょう。「イエス様、あなたの愛を与えて下さい。あなたの力を与えて下さい。」と祈ろうではありませんか。
 
お祈りを致します。