礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年2月5日
 
「互いに仕え合う」
ペテロの手紙第一 連講(10)
 
竿代 照夫 牧師
 
ペテロの手紙 第一 4章1-11節
 
 
[中心聖句]
 
  10   それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
(ペテロの手紙 第一 4章10節)


 
はじめに
 
 
前回の復習:「心の中でキリストを主とあがめる」(3:15)
前回のテーマは「『いじめ』とどう立ち向かうか?」というものでした。義のために受ける苦しみを幸いと考える逆転発想(14節)、心の中でキリストを主とあがめる積極思考と反対をする人に弁明する準備の必要(15節)を学びました。

4章前半:二つの「終わり」を意識して
今日から4章に入ります。4章で目立ってくるのは、「終わり」という言葉です。2節では人生の終わりを意識して生活するようにと勧め、7節では万物の終わりを意識した教会生活を送るようにとペテロは勧めます。
 
A.ピア・プレッシャーに打ち勝つ(1〜6節)
 
 
当時のクリスチャンの状況(ピア・プレッシャーを強く感じていた)
1〜6節は、「地上の残された時」つまり、人生の終わりを意識しながら生活するようにとペテロは勧告します。前回もお話ししましたように、小アジヤのクリスチャンたちは、少数派として、いわば、肩身狭く生きていたのです。彼らが意識していたのは、今日のことばでいえば「ピア・プレッシャー」です。ピアとは、仲間のこと、プレッシャーとは圧力です。つまり「仲間からの圧力」のことです。日本の現状に当てはめると、会社の中に見られる人間関係です。「仲間との和」を重んじる家族主義的な環境では「仲間に迷惑はかけられない」といった心理が働きます。そのことが仲間との協力関係を醸成し、大きな成果に結びつきます。他方、この傾向が行き過ぎて、互いが監視し合う居心地の悪い環境、仲間と同じ行動をとらないと仲間はずれになる、という息苦しい人間関係となります。正に、ペテロの手紙の宛先の人々は、クリスチャンとなる直前まで、多数派の異教徒たちと同じような行動、振舞いをしていたのですから、クリスチャンになって聖い生活を送ろうとしたときに、ものすごいプレッシャーを感じるようになりました。しかし、ペテロは、こうしたプレッシャーはいつまでも続くものではない、人生の終わりには終わるものだと達観して、これに対処するように勧めます。
 
1.罪のしがらみから卒業(1〜3節)
 
 
「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」
 
・試練を乗り越えよう:
パウロも、ローマ兵たちの武装の様子を、色々な場所で心の武装に譬えていますが、ペテロも同様です。それほど、ローマ兵の重装備は当時際立っていたのでしょう。ペテロは、心(正確には思い)を神の装備をもってしっかりと守りなさいと勧めます。キリストが肉体において(肉体を持った人として、肉体的な)苦しみを受けたが、心が装備されていたので、それに耐えなさったように、あなたがたも、肉体の試練を受けるけれども、心をしっかり守ることで、その試練を乗り越えなさいと励まします。

・罪とのかかわりを捨てよう:
「肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」とは、ちょっと理解するのに骨を折る部分です。多分ペテロが言いたいのは、肉体的な苦しみを経験し、それを信仰によって乗り越えた人は、肉体的な欲望をも乗り越えた人だと言いたいのでしょう。「善を行って苦しみを受け、しかもその善に伴う苦しみにも拘わらず、なお神に従い続けたひとは、罪とはっきり手を切ってしまったのである。」肉との関りを断つという意志的な心の営みを示します。さらにペテロは、より積極的に、その分だけ、神のみこころを思い、それを実行しようとする心を強調しているのです。

・過去のでたらめを卒業しよう:
ペテロは、アジヤ・クリスチャン達が行っていた過去の恥ずかしい行為として「好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝」を挙げていますが、これらはその当時だけではなく、今でも続いている大きな問題です。しかしペテロは言います。「もうそんな生活は十分でしょう。はっきりと卒業しましたね。」と念を押しています。
 
2.ピア・プレッシャーを超越する(4〜6節)
 
 
「彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」
 
・「ピア」は、外れる人間を攻撃する:
こうした「ワル仲間」は、「他の人だってやっている」という仲間意識・安心感を持ちたがるものです。しかし、そこから足を洗う人がいるとその安心感が失われて、いじめる行動に出るのです。これは「ヤ」の印の人には顕著にみられる特徴ですし、普通の社会生活でもしばしば見られるものです。「お前は付き合いが悪くなったなあ」というあの定型的なセリフがそうです。

・「ピア」の将来を考えよ:
仲間から足を洗ったクリスチャン達が、びくびくしながら生活する必要はありません。逆に、その人々の行く末を思って救いを祈るべきです。というのは、「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。」とあるからです。
 
B.互いに仕え合う(7〜11節)
 
1.祈りに集中しよう(7節)
 
 
「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」
 
ペテロは、主イエスが再び来られる再臨を見据えていました。贖いの歴史における主要な出来事が終わり、最後の一幕が主の再臨であったからです。そしてそれは、いつ来るか分からない切迫したことだったのです。ですから、「祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」と勧めます。
 
2.兄弟愛を実践しよう(8〜9節)
 
 
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」
 
・熱心に愛し合おう:
主イエスは、十字架の前の夜、こう語られました、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と。ペテロは、この言葉を非常に印象深く覚えていたことでしょう。それを小アジヤのクリスチャン達にも勧めます。同時にペテロは、愛し合うという言葉に「熱心に」という副詞を加えています。「熱心でない愛」があり得ると考えての勧めなのかは分かりませんが、愛は、熱心が良いですね。熱心な相互愛は、互いの欠点をつつき合う詰まらない営みを超越してしまいます。

・喜んでもてなそう:
これは、愛の具体的実践として、クリスチャンの兄弟姉妹を家で泊めることです。旅館やホテルが余り無かった当時の社会で、友人同士が家を宿泊所として提供することは、いわば当然でした。それをペテロは,つぶやかないで、つまり、こんな人を泊めてひどい目に遭ったとか、あの人は礼儀知らずだとか、自分の大切な時間や労力を使ってしまったとかの文句を言わずに、喜んで行いなさいと言っています。
 
3.賜物を生かして仕え合おう(10〜11節)
 
 
「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」
 
・賜物(カリスマ)とは:恵みによって与えられた能力
この文節では、「賜物」がテーマです。賜物とは何でしょう。この言葉は、恵み(カリス)の派生語のカリスマです。神の恵みによって与えられたもの、恵みによって与えられた神の祝福、内に居給う聖霊によって各個人に与えられた能力のことです。

・賜物の管理者としての私たち:神への報告義務
賜物は、神様からの委託・信頼・期待によって与えられるものですから、私たちはそれをどう使ったかについて、神様に報告する義務があります。タラントの譬えにありますように、賜物をどう使ったか、或いは、使わなかったかについて、報告義務があります。つまり、私たちは賜物の管理者なのです。どうだ、私はこんな賜物があるんだ、と言って誇る材料にしてはなりません。当然、誰かと競争することも起きません。起こしてはなりません。賜物は、神の教会に仕えるためにありますし、他の方々のために使うべきものです。

・賜物には様々なものがある:
ペテロは「それぞれが賜物を受けている」と言って、みんなが賜物を受けていること、そして、その内容はそれぞれ特色を持ったもので互いに異なること、多様性を持ったものであることを示唆しています。ここで具体的に記されているのは、@「語る賜物」です。教え、説教だけでなく、講演、証などが含まれた広い意味です。A「奉仕の賜物」もあります。これも広い意味で、教会内の兄弟姉妹(そして、教会外の人々)の利益のために助けること、励ますことを含みます。

・賜物活用の目的:
賜物を使うのは、自分を高めたり、目立たせたりするためではなく、互いに仕え合うことが目的です。「互いに仕え合う」とeach othernessが強調されているのが、ペテロの特色です。「互いに仕える」よりさらに強く「互いに仕え合う」という言葉が使われています。互いが互いを意識し、他の人々が出来にくい分野を補うのです。

・神が崇められること究極の目的:
そして、賜物活用の最終目的は、「神が崇められること」です。誰がどんな賜物をもってどんな素晴らしい奉仕をしたか、とか、その奉仕の結果がその人間と共に覚えられることが目的ではありません。神様が、土の器であるつまらない、何の価値もない、卑しい存在を通して、どんなに素晴らしい技を成し遂げてくださったか、その神の栄光がほめたたえられることが究極的な目的です。この手紙を書いたペテロは、彼の人生の終わりを意識していたと思われます。彼は、主イエス様に「どのような死に方をして神の栄光を現すか」を予言されていました。それを覚えつつ、一介の漁師に過ぎなかったペテロ、一生懸命さはあっても出しゃばりでおっちょこちょいで失敗ばかりしていたペテロが、神の恵みによって与えられた能力(賜物)をフルに活用して、最後的には神の栄光を現すものになったことを謙りをもって賛美したかったのでしょう。バッハが、そのすべての作曲楽譜の終わりに、「神の栄光のために」と記したのは、単なる表現ではありません。心底からそう思い、そう活動していたのです。
 
おわりに:自分の賜物が何かをよく考え、主のためにそれをフル活用しよう
 
 
あなたの賜物は何でしょうか。簡単に自己診断はできないと思います。しかし、良く祈り、良く自己吟味し、或る時は、信仰の友の意見を聞き、それを確かめることができるはずです。そうしたならば、ためらわず、遠慮せず、しかし謙遜な心をもってそれをフルに活用しましょう。その時、崇められるのはあなたではなく、賜物の与え主である神様だけです。
 
お祈りを致します。