礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年2月12日
 
「キリスト者として苦しみを受ける」
ペテロの手紙第一 連講(11)
 
竿代 照夫 牧師
 
ペテロの手紙 第一 4章12-19節
 
 
[中心聖句]
 
  12,13   愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
(ペテロの手紙 第一 4章12-13節)


 
はじめに
 
 
・前回の復習:テーマは「互いに仕え合う」(4:10)
前回は、「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(4:10)とのみことばを中心に「互いに仕え合う」とのテーマで学びました。それぞれが、神の恵みの故に主と教会に仕える力(賜物)を与えられていること、それをフルに活用して、互いに仕えるべきことでした。

・4章後半:(再び)キリスト者の受ける苦難について
時代背景:4:11の頌栄で一区切りをつけた後、ペテロは4章後半で再びキリスト者の苦難という課題を取り上げます。今までも読者であるアジヤのクリスチャンたちが、いわゆる「ピア・プレッシャー」の中で苦しんでいることを背景に、苦難や迫害について語っていましたが、ここでは一層それに力を入れています。彼らが苦難や迫害に遭っているニュースは伝わっていましたが、それに加えて、その時の皇帝であるネロがクリスチャンをターゲットにする迫害を始めていたことも感じていました。そのような苦しみに直面するキリスト者に励ましを与えているのが第一ペテロの手紙です。12〜19節から「キリスト者の受ける苦難」について考えましょう。
 
1.苦しみは喜びをもたらす(12〜13節)
 
 
「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」
 
・試練を「想定外」と考えないように:
「燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」と警告しています。「燃え盛る火の試練」が具体的に何を意味するかは、記されていませんが、恐らく先ほど述べたような、ネロ皇帝によるクリスチャンの迫害のような規模のものを指していたと思われます。しかし、ペテロはそれさえも特別なケースとして考えないように、クリスチャンは苦しみのために召されているから、と気持ちを落ち着かせるのです。

・試練を通して、キリストの苦しみを共感できる:
ペテロは、試練なり苦しみを経験する恵の一つは、それを通してキリストが通られた経験の何分の一かを経験する事になるからと言います。主の思い、主の心は私たち人間、特に後発のクリスチャンにとっては、中々分かりにくいものです。しかし、私たち自身が苦しみを経験することによって、キリストの心を経験的に理解するようになるからです。それ以上に、パウロの言葉によれば、キリストの死と苦しみを味わうことによって、彼の復活の恵みと力にも与るのです。彼は言います、「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」(2コリント4:10〜11)

・だから、苦難を喜びと考えなさい:
このような理由で、私たちは、自分たちが受ける苦しみを貧乏くじを引いたと思わず、逆に「喜びなさい」とペテロは勧めます。やせ我慢ではありません。溢れるような喜びをもって、踊るような喜びをもって苦難を迎えなさい、とペテロは勧めるのです。アンクル・トムの小屋というストウ夫人が書いた小説があります。筆舌に尽くせないような苦しみを通過するトムが、ヨブの苦しみを思い、イエス様の苦しみを思って耐えていることを告白するシーンがあります。感動的な部分です。
 
2.キリストのため苦しむ者は幸いである(14〜16節)
 
 
「もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。」
 
・キリストのために非難を受ける者は幸い:
この部分も前の文節の繰り返しです。ただ、表現が異なります。ここでは「あなたがたは幸いです。」と言っています。これは山上の垂訓の「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10〜12)を思い出しながら書いていたことでしょう。

・神の御霊が格別に宿るようになる:
義のために苦しむ者の幸いについてペテロは、「栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」とその理由を説明しています。元々、信じる者には聖霊が宿っておられます。しかし、義のための苦難を経験する信仰者には、特別に近く、力強く、聖霊が働きなさいます。

・悪を行って非難を受けるのは当たり前:
苦難についてペテロは更に思いめぐらしを進めます。悪を行って非難を受けるのはいわば当たり前なのだから、その苦しみを耐えたからと言ってなんのメリットもない。

・キリスト者としての苦難は光栄ですらある:
しかし、とペテロは言います。「キリスト者として苦難を受けるならば、「恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。」と辱めや苦難を光栄と思いなさいと勧めています。
 
3.さばきは神の家から始まる(17〜19節)
 
 
「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」
 
・神のさばきは教会から始まる:
ここで「神の家のさばき」について言及されます。やや唐突の感を免れません。しかも、「なぜなら」で始まっています。なぜ、「なぜなら」なのでしょうか。このさばきという言葉(クリマ)は、必ずしも断罪だけを意味しているのではなく、厳しい査定、精錬の火を意味する言葉です。つまり、試練という思想は続いており、教会がまず試練の火を通るという風に思想がつながっています。この文脈では、教会に神の査定が入り、試練の火をもってきよめなさるという事実が示されます。

・罪人へのさばきはさらに厳しい:
その厳しい査定が、罪を犯す人々に当てはめられたら、立つ瀬がなくなるだろう、というのがペテロの論理です。

・神に従って苦しむ時、すべての悩みを主に委ねよ:
結論としてペテロは、「神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」と試練の中で、神に委ねる信仰的態度をとるようにと勧めます。私たちがどんなに厳しい試練、苦しみを通過したとしても、すべてを支配し、すべてを善になし給う神の御手に委ねる時、平安が与えられるのです。
 
おわりに:「苦難」を、前向きに捉えよう
 
 
今日のみことばを一言で纏めると、「苦難」を前向きに捉えるということです。これはそんなに易しいことではありません。しかし、苦難を前向きに捉えることが、信仰者として唯一つの脱出の道であり、勝利の道なのです。

昨月封切りとなった”Silence”という映画が話題となっています。遠藤周作が書いた「沈黙」という小説をかなり忠実に、しかも、外国人的な目から見た映画です。私は、忙しいのが一つと、拷問シーンを見る勇気がないのとの理由でまだ見ていません。しかしこれが多くの問題提起を私たちに投げつけていることは確かなようです。一つは、日本という土壌に、キリスト教は本当に根付くのだろうかという問題、もう一つは、苛烈なまでの迫害に信仰者は本当に耐えうるかという課題、更に、神はその信仰者をどう助けなさるのかなさらないのかという深刻な課題です。この課題は、正に一世紀のペテロが直面し、聖霊の感動によって、その答えを示しているように思います。

冒頭の聖句をもう一度読んで祈りましょう。「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」
 
お祈りを致します。