礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年2月19日
 
「群れの模範となれ」
ペテロの手紙第一 連講(12)
 
竿代 照夫 牧師
 
ペテロの手紙 第一 5章1-4節
 
 
[中心聖句]
 
  3   あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
(ペテロの手紙 第一 5章3節)


 
はじめに
 
 
・前回のテーマ:「キリスト者の受ける苦難と試練」
前回は、「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」(12〜13節)を中心に、試練や苦しみを前向きに捉える信仰的姿勢を学びました。

・今日のテーマ:試練の教会における指導者の在り方
4章から5章へのつながりは、「そこで」という短い言葉です。これは、試練の思想が続いていることを示しています。試練を通過している教会が緊張感をもって、内側の問題と取り組みなさい、という意味です。まず、1〜4節は、試練を通っている教会の指導者たちへの心構えを語っています。
 
1.牧者から牧者への勧告(1節)
 
 
「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。」
 
・長老:教会指導者一般(監督、牧師と重なる)
ペテロの勧告の対象は第一に、「あなたがたのうちの長老たち」です。教会が誕生したペンテコステから30年前後の初代教会ですから、きちんとした職制(監督、長老、牧師、執事)は確立されていませんでした。特に、監督、長老、牧師という言葉ははっきりした定義がなく、同じ人がある時は監督、或る時は長老、牧師といわば柔軟に使われていました。この場合の「長老」という名前と立場は、イスラエル社会における長老制度から横滑りで来ており、今でいえば牧師、役員のような立場の人です。パウロは、第一次伝道旅行で小アジヤを回り、町々で教会を開拓したあと、帰り道にその町々に立ち寄り、「教会ごとに長老たちを選んだ」(使徒14:23)とありますから、小アジヤの諸教会毎に長老たちが存在していたと思われます。その長老たちに宛てたのが5:1〜4の勧告です。

・著者ペテロ:長老の一人、「キリストの苦難の証人、やがて現われる栄光にあずかる者」
勧告者はこの手紙の著者ペテロなのですが、自己紹介の言葉が意味深長です。彼は自分のことを「同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者」と紹介しています。ひとつも偉ぶったところがありません。「同じく長老のひとり」(正確には、「同労の長老」)と言って、私もあなたがたと同じ立場だと言っているのです。社会でも、教会でも、one of themになり切れない、なるのが嫌いな人がいます。私は特別だ、という意識です。みんなと同じになれない人です。これは鼻について嫌な感じを周りに与えます。イエス様を見てください。特別中の特別な方でしたが、洗礼を受ける時、特別扱いを断りました。バプテスマのヨハネが、「私がイエス様に洗礼を授けるなんておこがましい、私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに」と言った時、イエス様は涼しい顔をして「今はそうさせてもらいたい。みんなが踏む道を私も通るのは当たり前でしょう」と言って、洗礼を受けました。ペテロも、そのイエス様を見ていましたから、「私は、キリストの一番弟子、天国の鍵を預かった教会のリーダーなるぞよ」などとは言わず、「同じく長老のひとり」とさらりと言ってのけたのです。さらに、「キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者」として、十字架の目撃者であるという事実、そして、来るべき世でキリストの報償に与るべきものという期待を淡々と述べます。
 
2.牧者の務め:群れの牧会(2節a)
 
 
「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」
 
・「神の群れ」として教会を見る(教会を私物化しない)
人間は、自分が託された責任、領域を、自分の所有物であるかのように勘違いしやすいものです。教会でも例外ではなく、牧師が教会を「自分の教会」と思い易く、信徒のことを「自分の信者」と、多くの場合無意識的に思い込んで、お山の大将になり易いものです。長老たちが牧するのは「彼らの教会」では決してなくて、「神の群れ」なのです。キリストが、復活後のある日ガリラヤに現れ、「私の羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)と三度も念を押されたことをペテロは決して忘れませんでした。小アジヤの町々の教会の長老となった人々にも、「教会は、あなたの群れ、あなたのお城ではありませんよ。神の群れ、神の国なのですよ。」としっかり念を押したのです。

・牧するとは:養い、守り、ケアすること(ヨハネ21:15〜17)
教会が羊の群れに譬えられていますから、長老たちも羊飼いに譬えられています。つまり、牧師としての働きをしなさい、ということなのです。羊飼いは、群れを良い牧場に連れて行って養います。それと同じように、神の言葉をもって人々の魂を養います。羊をオオカミやライオンから守るように、牧者は異なる思想、異なる教えから守ります。羊が病気になれば介抱するように、病める魂を慰め癒そうとします。その魂のケアが委ねられているのが長老たちなのです。
 
3.牧者の心構え(2節b〜3節)
 
 
「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」
 
ペテロは、羊飼いとしての心構えを三つの表現で示します。

・義務感からでなく、自発的に:
牧者の仕事は決して喜ばしいことばかりではありません。はっきり言って、辛いなあと思うことの連続です。しかし、その仕事を神様から押し付けられた、或いは他人の誰かから押し付けられた、という気持ちからではなく、主の愛に感動して喜んでしなさい、とペテロは語ります。ここでもペテロは、ガリラヤ湖畔の出来事を思い出していたことでしょう。主は「私を愛するか」とお問いになり、「はい」といったペテロに、「それでは、私の羊を飼いなさい」と語られました。つまり、キリストを愛するその心の延長として「私を愛するように、熱い心をもって私の羊を愛しなさい。」と語られたのです。

・利益を求めず、心からvs私利に走る指導者(エゼキエル34:2〜6)
長老たちが、その働きにふさわしい報酬を得るのは当然ですし、そのことをパウロも何度も言及しています。「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』また、『働き手が報酬を受けることは当然である。』と言われているからです。」(1テモテ5:17〜18)。しかし、牧師が報酬を目的として働くとしたら、牧師でなくなってしまいます。まして、不当な方法で利益追求のために羊を飼う羊飼いがいるとしたらとんでもないことです。昔、預言者エゼキエルはそのような指導者を糾弾しています。少し長いですが引用します、「ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。」(エゼキエル34:2〜6)いつの時代にも、このような指導者はいるものです。自戒しなければなりません。

・支配せず、模範となれ:
支配せず、とは早く言えば「お山の大将になるな」ということです。自分の言うことを聞く信者ばかり集めて、言うことを聞かない信者は疎外する、生活の一つ一つまで干渉して、自分の言いなりにさせる、長老がいわゆるボス的存在になったらおしまいです。権力むき出しの支配者は割合少ないと思いますが、気づかないで、支配的になってしまうこともあります。私たちのスモールグループなどでも、一人の人が長々と自分の体験や意見を述べると、結果的にそのグループを支配してしまうことになります。パウロも信徒に対する牧師の分を弁えていました。「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。」(2コリント1:24)支配するのではなく、率先垂範、自分が模範となるようにとペテロは勧めます。それも、「どうだ私を見よ」というような突っ張った模範ではなく、キリストに従う点で、人々に仕える点で、模範となれと語るのです。パウロがテモテに対して「ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」(1テモテ4:12)と言っているように、外側の行動ではなく、内側の心の在り方なのです。それも、模範を意識すると、お侍が裃を着て突っ張っているようなイメージになってしまいます。これではくたびれますし、偽善になりかねません。外側の恰好や頑張りの「模範」ではなく、「私がキリスト見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください」(1コリント11:1)とパウロが言ったように、真実にキリストに見ならう生活をコツコツと続けるだけでよいのです。
 
4.栄光の約束(4節)
 
 
「そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」
 
長老たちが、地道な奉仕を続ける時の報償が約束されます。「そうすれば」という接続詞が鍵です。

・大牧者なる主:私たちは「小牧者」であることを覚えよう
私たちが委ねられている群れは、大きな教会かも知れません。或いは、小さな教会、小さなグループかもしれません。家庭かもしれません。或いは会社の一部門かもしれません。大なり小なり、私たちは何かの群れを委ねられているのですが、(繰り返しますが)その群れのボスになってはいけません。本当のボスは、イエス様お一人です。私たちは大牧者の下にある小牧者に過ぎません。その大牧者を常に意識することが基本です。

・栄光の冠を受ける:
私たちの奉仕の最終目標は、その大牧者から、「よくやった、善かつ忠実な僕よ」と言って栄光の冠を受けることです。これは何という素晴らしいゴールでありましょうか。
 
終わりに:今属しているグループで、牧会的配慮を!
 
 
私たちは、教会の中でも、外でも、何らかのグループに属して生活しています。どのようなグループであれ、また立場であれ、主イエス様の御声は変わりません。私の羊を養え、私の小羊を飼え、とのみことばです。置かれた場所で、主イエスの心をもって、牧会者としての務めを果たさせていただきましょう。
 
お祈りを致します。