礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年3月5日
 
「へりくだる者の恵み」
ペテロの手紙第一 連講(13)
 
竿代 照夫 牧師
 
ペテロの手紙 第一 5章5-7節
 
 
[中心聖句]
 
  5   同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
(ペテロの手紙 第一 5章5節)


 
はじめに
 
 
・前回のテーマ:「群れの模範となれ」(3節)
前回は、「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(3節)を中心に、教会指導者のあるべき姿を学びました。教会の指導者は、世の指導者と根本的に違っていて、支配するものとならず、仕える者となり、威張るものではなく、黙って模範を示すものとなりなさい、ということでした。

・今日のテーマ:「若い者たち」(信徒一般)への勧め
「若い者たちよ」との勧めは、年齢的に若いという意味もありますが、それよりも、「長老」に対して仕える者という意味での「若さ」のことです。つまり、1〜4節が指導者のあるべき姿であったのに対し、5節以下は、指導される立場のもの、つまり信徒一般への勧めです。
 
1.長老に従え(5節)
 
 
「同じように、若い人達よ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」
 
・「同じように」:長老たちの謙りに倣って
「同じように」というのは、長老たちが指導者然として支配しないで謙るように、そのように、いやそれ以上に、「若い人たち」(先ほど述べたような指導されるべき立場の一般信徒たち)も、へりくだって「長老たちに従いなさい」とペテロは勧めます。

・長老たちに従う:神に立てられた指導者としての尊敬をもって従う
長老たちは、神によって立てられ、そのみ心を行う指導者だから、その導きに従うべきです。たとい(奴隷の上にある主人が横暴である場合でも、奴隷は主人に従うべきであるのと同じく)、長老たちが自分から見て正しくない、適切でないと思われる指導をする場合でも、若者は長老たちに従うべき、とペテロは言います。丁度、ダビデが、サウル王に手を下す絶好の機会が与えられた時も、「神に油注がれたものだから」サウル王を敬い、手を下さなかったようなものです。

・互いに謙遜を身に着ける:「取って付けた」ものでなく「板に付いた」ものに。主イエスが謙られたように(ヨハネ13:4)
ここからペテロは、教会における人間関係一般を対象に「みな」と呼びかけています。「互いに」とは、もちろん長老と若者の関係も含んでいます。ペテロは、長老に対して謙ることを勧めており、若者にも謙ることを勧めています。同時に、若い者同士も互いにへりくだらねばなりません。若いもの同士だから、自分の考えや行き方を遠慮なくぶつけ合って互いに切磋琢磨する、という一面もあるでしょう。しかし、その切磋琢磨の中にも、へりくだりと尊敬がなければなりません。そのときに、うるわしい秩序が生まれるのです。「謙遜を身に着ける」という着物の譬えが使われています。これは、いつもは着ていないけれども、よそ行きの時に「取って着ける」というのではありません。恰好だけへりくだったように振る舞うのでもありません。この表現は、奴隷が仕事をするときに裾などを絡げる動作を意味します。つまり、謙遜の性格が板についたものとなるようにとの勧めです。ペテロはこの勧めをするとき、十字架の前夜、主イエスが自分たちの足を洗ってくださった出来事を思い出していたことでしょう。主は、宴席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました(ヨハネ13:4)。主イエスが纏われたのは、謙遜という衣だったのです。

・謙遜とは:「心を低くすること」、互いに人を自分よりもすぐれた者と(心底から)思うこと」(ピリピ2:3)
互いに身に着けるべき謙遜とは何でしょう。タペイノフォロシュネーという言葉の意味は「心を低くすること」です。逆なりに言うと、「威張った心を持たないこと」です。態度や言葉遣いにおける謙遜も必要ですが、態度や言葉遣いは丁寧で謙遜に見えても、心の中で「俺が一番」などと威張っていることはいくらでもあります。そうではなくて、心において「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と(心底から)思うこと」(ピリピ2:3)が聖書的謙遜です。これは、私は何をやっても、どこから見ても他の人より劣っていると考える「自己評価の低さ」とは違います。聖さに満ち給う神の前に何と汚れたものなのかという真実な内省から生まれる砕かれた心のことです。

・神の恵みはへりくだる者に:高ぶりは恵みを損なう(箴言3:34)。罪の本質は高ぶりであり、サタン的でもある
なぜへりくだる姿勢が必要なのでしょうか。それは「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるから」なのです。この言葉は、箴言3:34の「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。」という言葉の意訳です。高ぶるとは、自分自身を他の誰よりも重要と考えるという意味で、傲慢不遜の人のことです。高ぶる人は自分に信頼しますが、謙遜な人は神に信頼します。高ぶる人は自分が栄光を取りますが、謙遜な人は神に栄光をお返しします。水は高いところには流れず、低いところに流れます。私たちがケニアで長年住んでいたナクルという町はまさにそうでした。水道施設はあるのですが、水圧が十分でないため、高台の高級住宅地はしばしば断水し、湖に近い低収入の人々の密集地帯では断水がありませんでした。皮肉なような、痛快な話です。神の恵みは誰にでも豊かに注がれますが、俺は何かができると思っている傲慢な人間にはわずかしか及びません。これは理にかなっています。神は高ぶる者に対して、軍隊を遣わして滅ぼしてしまうような勢いで、これを嫌いなさいます。アダムから始まる人間の歴史は、大きくまとめると、高ぶりの罪の連続ともいえましょう。いや、もっと言うと、サタンの本質は高ぶりでした。神はそれを喜ばれません。
 
2.神の御手に謙る(6節)
 
 
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」
 
・神に対して謙るとは:弱さ、小ささ、罪深さを正直に認めること
ペテロは、人間同士が互いに謙る必要を述べた後、同じ謙りでも、神に対する謙りを勧めます。被造物が造物主に対して謙るのは、いわば当然です。しかし、ここでの強調は一般的な意味でのへりくだり以上のものです。それを知るヒントは「神の力強い御手の下に」とのことばです。神は力強い御手をもって世の全て動かしておられます。それに比べて私たちの力は何と弱く、小さく、どうにもならないものです。だから、この方の前に謙るとは、自らの弱さ、足らなさ、小ささを徹底的に認めて、偉大な神の御手に私たちの人生の全てをお委ねすることなのです。

・神が高くされる不思議:神は最善の時、最善の形で私たちを高く上げる
私たちが徹底的に謙る時、神は不思議なことをなさいます。私たちを地の低いところから、天の高みに引き上げてくださるのです。それは、この世でも起きうるし、次の世でも同じです。神が最善と思われるときに、神が最善と思われる形で私たちを高くして下さいます。
 
3.思い煩いを委ねる(7節)
 
 
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
 
・思い煩いとは:自己に信頼して、あれこれ心を砕くこと(マタイ6:27)
7節は、6節の続きです。6節の「謙りなさい」という勧めの内容として、「神に委ねつつへり下りなさい」と続くわけです。もっと正確には、「謙りなさい」の命令形に、「神に委ねつつ」という現在分詞が続くのです。神の前での謙遜は、私たちの思い煩いを神に委ねる姿勢に表れるとペテロは言います。思い煩いは、私たちが何かできるという自己信頼とおごりから来ます。「思い煩い」(メリムナ)という言葉は、心を砕く、あれこれと思いを分散することで、精神衛生上大変よくない心の状態です。その上、思い煩ったからとて何を生み出すことが出来ないのが現実です。主イエスも「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」(マタイ6:27)と警告されています。ペテロは、この主イエスの言葉を思い出しながら、小アジヤのクリスチャンに勧めているのです。

・委ねるとは:完全に、一度に、神の御手に投げ切ってしまうこと(マタイ6:31〜33)
ペテロは、主イエスが、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。・・・あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31〜33)と語られたことを思い出しつつ、思い煩いを、そのまま、全能であり最善を成し給う神に委ねなさいと勧めます。「委ねる」という言葉も興味深いものです。石を遠くに投げてしまうように、投げ切って忘れてしまいなさい、ということです。ギリシャ語ではアオリスト時制が使われていて、委ね切って忘れなさいという強い意味です。ああ、私たちは祈って委ねると言いながら、紐をつけてそれを取り戻し、何度も何度も思い煩ってしまうことでしょうか。謙りと委ねることは、関連があります。誇り高い人物は、決して自分の心配事を他人に委ねません。謙って、弱さを認める者が「委ねる」ことができるのです。

・神の心配とは:ケアする、面倒を見ること
ペテロは、その時「神があなたがたのことを心配してくださるからです。」と約束します。「心配する」(メロー)とは、「思い煩う」ということばとは異なり、ケアする、面倒を見るという意味です。神が本当に私たちのことを心配してくださるのでしょうか。信じられない、と思う人もいるかも知れませんが、実際は100%イエスです。エレベーターで重い荷物を3階まで運ばなければならないとき、その荷物をしっかり抱えたまま立っている人は少ないでしょう。荷物は下に下ろしてよいのです。エレベ−ターがどんな重い荷物でも運んでくれるからです。エレベーターより遥かに強力な神の右の手が私たちをいつも支えてくださっています。思い煩いという荷物も一緒に運んでいただきましょう。
 
終わりに:へりくだりは、神の前に出て正直に自分と向き合うところから始まる
 
 
謙りとは、特別な決意や思いを持つ営みではありません。私たちのありのままの姿を神の前に見つめ、その弱さ、足らなさ、いや、罪深い状況を、そのまま主に持ち出してよろしくお願いしますというごく自然の心の営みです。主の前にこの朝、謙った気持ちで自分のありのままの姿を告白し、同時に主の全能と最善を信じ告白しようではありませんか。
 
お祈りを致します。