礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年3月12日
 
「悪魔に立ち向かえ」
ペテロの手紙第一 連講(14)
 
竿代 照夫 牧師
 
ペテロの手紙 第一 5章8-11節
 
 
[中心聖句]
 
  9   堅く信仰に立ってこの悪魔に立ち向かいなさい。
(ペテロの手紙 第一 5章9節)


 
はじめに
 
 
・前回のテーマ:「へりくだる者への恵み」(5節)
前回は、「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(5節)を中心に、へりくだりの意味とその祝福を学びました。

・今日と次回:締めくくりの勧告
今日と次回は、この手紙の締めくくり的な勧告です。
 
A.悪魔に立ち向かえ(8〜9節)
 
 
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」
 
1.目を覚ます必要:危機を予感しつつ自制と覚醒を勧める(例:マルコ14:38)
 
 
ペテロは今、ローマ帝国全体に及ぶ迫害の時代を予感しながらこの手紙を書いています。当然、迫害の対象となっているキリスト者が何もしないでボーっと時を過ごしてよいわけはありません。「身を慎み」(落ち着いていなさい、危機の時代を乗り越えていけるように警戒と自制を保ちつつ)、「目を覚まして」(祈りにおいて、時代を見る目において、それに備える面において)いなければならないと、強く勧告します。私たちの時代ももっと「身を慎み、目をさましていなければならない」時代であることをひしひしと感じます。ペテロはこの勧告をするとき、ゲッセマネの園で主イエスに語られた言葉を思い出していたことでしょう。十字架という大きな危機を前にした主イエス、自分の願いと父のみ心の狭間で格闘をなさっていた主イエスは、その心を弟子達にも分けもって頂きたい気持ちから「目を覚まして、祈り続けなさい。」(マルコ14:38)と語られました。正に、ペテロが手紙を書いていたころの状況は、目を覚まして祈るべき時でした。
 
2.悪魔の存在と脅威:サタン(意味は「敵」)、別名「悪魔」(意味は「謗る者」)は信仰者を陥れるために絶えず活動(例:ルカ22:31)
 
 
時代の危機の背景には悪魔の存在と活動があります。クリスチャンも含めて現代人は、悪魔の存在や活動を信じない傾向があります。サタンのことに言及すると、何か極端派のように思われてしまいます。しかし、聖書の中には悪魔の存在と活動はしっかりと言及されていますから、聖書的であろうとするクリスチャンがこれを無視するわけにはいきません。ここでは、「敵である悪魔」と呼ばれています。サタンとは「敵」という意味で、仲間の天使とを引き連れて神に敵対する側に立った天使の長であった過去を示しています。「悪魔」(ディアボロス)とは、「謗る者、悪口を言うもの」との意味で、神の前に人を訴え、陥れようとする存在であることを示しています。「サタン」も「悪魔」も同じキャラクターです。さて、ペテロは悪魔の働きについて「食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っている」ライオンに譬えています。野生のライオンは、一頭のオスの周りに数頭のメスと子どもがおり、互いに合図を送りながら共同行動で狙った獲物を仕留めます。彼らが狙うのは、大型草食獣の子どもとか、怪我をしていて速く走れない大人です。サタン、または悪魔は、同じように、狙いを定め、その弱点を突いて、獲物を仕留めます。特にキリスト者に対しては、その信仰を弱め、神への愛と信頼を自分への愛と信頼に鞍替えさせようと必死に働きます。悪魔の働きというと、何かおどろおどろしたようなものを想像しがちですが、現代の悪魔はとても紳士的で巧妙な形で攻撃してきます。それを見破る弁別力と賢さが必要です。ペテロ自身、十字架の前夜、主イエスによってサタンの攻撃を予言され、それが成就したことを悲しい思い出として持っていました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」(ルカ22:31)ペテロはその警告を聞きながら、サタンの攻撃に屈服してしまったのです。サタンの働きは、今もあらゆる信仰者に対してなされていることを覚えるべきです。
 
3.悪魔に立ち向かう:誘惑に対して毅然とした態度で対決する(例:マタイ16:23)
 
 
その悪魔の攻撃に対してキリスト者は、敢然とそして明確な態度でNO!を言わねばなりません。「立ち向かう」とは、攻撃に対して対決的で、毅然とした態度を取れという意味です。あいまいな態度が一番危険です。この位はいいだろうとか、私は大丈夫だから少し様子を見よう、という態度はいけません。ペテロは、主イエスから自分がサタン呼ばわりをされたことを決して忘れていません。主イエスが十字架の予告をされたときに、「主よ、あなたにそんなことがあってはいけません。」と諫めたとき、今まで優しかった主が表情をこわばらせて「下がれ。サタン。あなたは、神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)とペテロをサタン呼ばわりなさったのです。ここから二つのことが分かります。人間的な愛情が神の道を妨げる時、主イエスはそれをサタンの働きと解釈なさること、もう一つは、その働きや動きについては、敢然とNO!と手を切ることが大切なことです。それが悪魔に立ち向かう態度です。「立ち向かう」という命令形の前に語られたのが「堅く信仰に立って」との言葉です。自分の立ち所をしっかり定めて動かない様子を示します。これは軍隊用語で、ローマ軍団が「亀!」という掛け声を聞くと、体を寄せ合って盾で前後左右を固めて、敵がどんな攻撃もかけられなくしてしまう防御態勢をとることを示唆します。
 
4.先輩たちの勝利:例:ステパノ、ヤコブなど
 
 
ペテロは、このような信仰の戦いに勝利を得た多くの先輩たちがいることを思い出させます。「世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って(勝利を得て)来たのです。」同時代のクリスチャンたちというと、信仰のために命を捨てたステパノ、それに続く迫害で命を落としたエルサレムの信徒たち、ヘロデの迫害で殉教したヨハネの兄弟であるヤコブ等々、多くの先輩たちがいました。彼らは苦しみを通りましたが、そこを勝利で乗り越えました。21世紀の私たちには、もっと多くの苦しみを通り、そこを勝利をもって乗り越えた数多くの先輩がいます。彼らの存在が大きな励ましです。
 
B.神は守ってくださる(10〜11節)
 
 
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」
 
1.神はどんなお方か?
 
 
ペテロは、悪魔の攻撃によって苦しむことがあったとしても、神はそこから私たちを守り、回復させてくださると約束して、その神の祝福を祈ります。さて、ペテロは神様をどんなお方と捉えているでしょうか。

・あらゆる恵み(赦す恵、聖める恵、癒す恵、満たす恵・・・)に満ちている
第一は「あらゆる恵みに満ちた神」です。恵という恵みの全てにおいて満ち満ちたお方です。赦す恵、きよめる恵、癒す恵、満たす恵、私たちが必要とするあらゆる恵みに富んだお方です。

・永遠の栄光の中に招き入れてくださる:
「あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神」と具体的な内容を語ります。「永遠の栄光」がゴールです。私たちは神と共に永遠に生きる命へと召されているのです。何という光栄に満ちた招きでありましょうか。更にこの招きは、「キリストにあって」(キリストとの結びつきにおいて)与えられる恵みへの招きです。
 
2.神は何を成し給うか?
 
 
その神に対してペテロはこのように述べます。「しばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」ここで使われている四つの動詞に目を留めましょう。

・「完全にする」:弱さや欠けを回復してくださる
第一の動詞は、完成することです。何をでしょうか。「完全につなぎ合わせる」というのが原語の意味です。教会の全てのメンバーが一体としてつなぎ合わされるイメージです。また、個々のメンバーが完全に修理されるとのイメージです。そのためには、「しばらくの苦しみ」試練という炉を経ねばなりませんが、それは完成のための一時的なものにすぎません。

・「堅く立たせる」:立ち直らせてくださる(ルカ22:32)
二番目の動詞は「堅く立たせる」です。これは、ペテロが、主を否定することを予告された時、「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と勧められた出来事を思い出させます(ルカ22:32)。神は、私たちが揺れ動くことなく、しっかりと立たせてくださる恵みを与えて下さいます。

・「強くする」:信仰を確立させる
三番目の動詞は「強くし」です。これも、二番目の動詞とほぼ同義語ですが、内なる人が強められること、信仰が確立することが意味されています。

・「不動なものとする」:信仰をより強固なものとする
四番目は「不動なものとする」です。共通して、私たちの信仰が試され、より強固なものとされることを示しています。建物の基礎が動かないように固いものとされることをイメージしています。
 
3.神への祈り:神の支配が今も後も永遠であるように
 
 
ペテロは、この神の支配が「世々限りなくありますように」と祈ります。神の力あるご支配が今の歴史の中に、そして今の世界の動きの中に及びますように、そして、永続しますようにとの祈りです。力強い、栄光に満ちた期待です。この祈りは答えられるでしょうか、今応えられています。主を賛美しましょう。
 
終わりに:より強い神意識をもって生きよう(ヤコブ4:7、8a)
 
 
今日は、「悪魔に立ち向かう」というテーマでお話ししましたが、一つ注意したいことがあります。悪魔の働きは、強力であり、顕著であり、目を覚ましていなければなりませんが、悪魔を必要以上に意識することは余り健全ではありません。それは、悪魔の思う壺となってしまいます。私はトリニティ神学校で“Power Encounter”(霊の戦い、悪魔との戦い)という授業を受けました。その講座で悪魔に関する小論を書きました。その論文を書くために悪魔についての聖書の教えを沢山学びましたが、途中で気持ちが悪くなりました。その小論で私が締めくくったのは、demonologyはこの辺で止めて、私はChristologyにもっと集中したいということばでした。

私たちの意識は、もっともっと、神ご自身に集中すべきです。サタン・コンシャスでなくて、キリスト・コンシャスで行きたいと思います。ペテロと同じ思想をヤコブも語っていますので、そこを読みましょう。「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ4:7、8a)ヨセフが、ミセス・ポティファルから誘惑された時、「私はどうしてそんな大きな悪を働いて、神に罪を犯すことが出来ましょう。」と敢然とサタンの働きを封じたように、主が共にいて下さることを絶えず意識した信仰生活を送りたいものです。
 
お祈りを致します。