礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年3月26日
 
「学んで確信したところに」
聖日合同礼拝
 
竿代 照夫 牧師
 
テモテへの手紙第二 3章12-17節
 
 
[中心聖句]
 
  14   けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。
(テモテへの手紙第二 3章14節)


 
聖書テキスト
 
 
「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」
 
あいさつ:31年のお交わりの感謝
 
 
丸の内・主都中央・中目黒教会を通じて31年間、その内主任牧師としては19年間、お交わりと共労を許されました。皆様の愛と忍耐とお祈りを頂きましたことを心から御礼申し上げます。新しい任地に赴任するに当たり、一言牧師として申し上げます。明後日から赴任される梅田昇先生・登志枝先生を全幅の信頼と祈りをもって助け、従い、共に労していただきたいと思います。私たちは今までと変わらず皆様方のために祈りますし、皆様方も小さき者たちのために祈っていただきたいと思いますが、牧会者としての繋がりには区切りを付けさせていただきますので、ご理解を頂きたいと思います。すべてのご相談は、新しい主任牧師となさっていただきたいと思います。この点、よろしくお願いいたします。

「はらから」3月号にも書きましたが、31年の奉仕に区切りをつけるに当たって私の心にありますみ言葉は、パウロがテモテに宛てて書いた手紙の1節です。「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」
 
1.第二テモテ書:AD67年頃、ローマの牢獄のパウロがテモテに記した遺言状
 
 
第二テモテ書は、AD67年ころ、ローマ皇帝ネロの迫害に遭って、ローマの牢獄に繋がれ、処刑直前という状況の中からパウロによって愛弟子テモテに書かれた遺言的書簡です。大切な勧告に満ちている書簡ですが、その一つである「みことばに固く立ちなさい」という部分に焦点を当ててお話ししたいと思います。
 
2.時代の風潮に流されるな:「けれども」(14節)の意味
 
 
14節は、反転的な接続詞である「けれども」から始まります。何を反転しているのでしょうか。それは、その前の数節に述べられている退廃的な風潮に反してという意味です。「悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです」(3:13)という時代の風潮を、パウロは厳しく警戒しています。「時代の風潮はそうであったとしても、テモテよ、あなたはそれに流されないようにしなさい」というのが「けれども」の意味です。
 
3.聖書(旧約聖書)を学び抜きなさい
 
 
そうした風潮に逆らって、テモテは、どうあるべきと勧められているのでしょうか。それを示すのが次の言葉、「学んで確信したところにとどまっていなさい。」です。

何を学ぶのでしょうか。もちろん聖書です。この時代、新約聖書は纏められていませんでしたから、聖書と言えば「旧約聖書」でした。テモテは幼い時から、祖母ロイス、母ユニケによって聖書を教えられ、また彼女らの純粋な信仰を学びました。しかし、教えられたことに忠実、という以上に、「自分自身で聖書にぶつかり、聖書をしっかり読み、咀嚼して、その結果得た納得を確信として保ちなさい」と、主体的な聖書の学びが勧められています。
 
4.聖書の中心を捉えよ
 
 
・メシヤ(キリスト)預言が聖書の中心(例:53章):
興味深いことに、パウロは、(旧約)聖書の学びの行く先に、キリストを通しての信仰による救いがあると語ります。旧約聖書には主イエスのお名前は一つも出てきませんが、よく読めば、メシヤ(キリスト)の預言は明確です。特にイザヤ書後半部分の「主の僕」預言は、来るべきメシヤを明確に示しています。53章はそのクライマックスと言えましょう。

・律法によらず信仰によって救われる(ハバクク2:4):
更に、律法によらない信仰による救いの思想は満ちています。代表的な聖句は「正しい人はその信仰によって生きる」(ハバクク2:4)です。パウロは、テモテが聖書を読んで読んで読み抜いて、その中心メッセージに達するようにと勧めているのです。
 
5.確信に留まれ
 
 
学んで真理に到達したならば、そこに留まりなさい、とパウロは勧めます。新共同訳では、「離れてはなりません」と訳しています。

・積極的:聖書の真理を受け入れ、信じ、生きる
積極的に言えば、聖書の真理を受け入れ、信じ、その真理に生きることです。易しいように見えますが、決して易しくありません。特に、第二次大戦の最中、日本政府はすべての教会に対して国策に協力することを強制し、様々な圧力をかけました。多くの教会はその圧力に屈して「日本的キリスト教」なるものを編み出し、政府に協力し、迫害を逃れました。しかし、愚直のように聖書の真理に従おうとする少数派もいました。その一人が、インマヌエルの創立者・蔦田二雄先生でありました。

・消極的:聖書の真理から離れない
消極的に言えば、そこから離れないようにしなさい、ということです。聖書の指し示す当たり前の道筋を離れないような説教をし、生き方をしなさいということです。聖書ではなく、世の哲学、思想、風潮に流され易いのが私たちです。しかしパウロは、聖書の真理から離れないようにしなさいと語りました。ある牧師が「馬から落ちて落馬した」ような、いわば、当たり前のことを当たり前のように言う、説教では何の面白みがないとおっしゃいました。もっとユニークな響きがなければ説教ではない、という意味です。しかし、私は思いました、「よし、『私は馬から落ちて落馬した』説教に徹しよう」と。聖書が語る当たり前の真理をそのまま語りたいと思ったのです。どれだけできたかは分かりませんが、努力はさせていただきました。皆さんにも、学んで確信したところに留まるよう期待したいと思います。
 
6.聖書は神の言葉である
 
 
・一言一句、神の霊感を受けている:
どうして、聖書がそんなに大切なのかについて、パウロは重要なステートメントを行っています。「聖書はすべて、神の霊感による(息吹を受けた)もの」という表現で、「聖書は神の言葉」という真理を明確に宣言しています。この「すべて」とは、全体的に霊感を受けたという包括的な意味だけでなく、every passage(各々の文章)という意味で、文章の一つ一つが霊感を受けて記された、と言っているのです。

・神は、著者の個性を生かしつつ、そのみ心を示す(2ペテロ1:21):
勿論、実際に聖書を書いたのは、モーセ、ダビデ、イザヤなど人間です。その人間が、その個性を保ちつつ、しかし、神の特別な感動を受け、神のみ心を示すために聖書を記したのです。「聖書は神の言葉」との信仰は、福音主義の信仰者の揺るぎない基礎です。第二ペテロにも同様なステートメントがあります。「何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(2ペテロ1:21)
 
7.神の人の整えのために
 
 
続いてパウロは、テモテ自身が聖書に教えられ、聖書から戒めを受け、誤った道に立っていたら矯正を受け、義の道に訓練されるようにと勧めています。それは、テモテが神の働き人として整えられるためでした。テモテが、聖書を用いて、他の人々を教え、戒め、矯正し、整えるという方向ではなく、(勿論、「それもあり」ですが)テモテ自身が受け身となって、教えられ、戒められ、矯正を受け、義の道に訓練されることが強調されています。つまり、聖書を読む時大切なのは教えられやすい心です。初代総理は良く「teachableであれ」と語っておられました。正にその通りです。

さて、このテモテへの勧めは、テモテの弟子、その孫弟子である私たちすべてに適用されます。私たちもテモテ同様、「学んで確信したところにとどまっている」ことが期待されているのです。
 
おわりに:丸の内・主都中央・中目黒の良き伝統を主体的に継承しよう
 
 
中目黒教会は、前身である丸の内教会、主都中央教会以来、み言葉に真実に仕える器たちの伝統を受け継いで来ました。及ばずながらではありましたが、み言葉に真実に仕え、み言葉に生き、み言葉を宣べ伝えるという面では、ベストを尽くさせて頂いたと、謙って申し上げることができます。その点、私は愚直でありましたが、その愚直さを誇りとしています。そして、後任の先生も聖書的説教の良き伝統を受け継いでくださることを確信しています。

愛する兄弟姉妹にお願いしたい点は次のことです。一つは、後任の器が真実にみ言葉に仕え、それを宣べ伝えなさるように、祈り支え続けて頂きたいことです。また、皆さんが講壇から語られるみ言葉を真正面から受け止め、それを実践して頂きたいことです。更に大切なことは、一人ひとりが日々のデボーションや、グループでの聖書研究を通して、真剣にみ言葉を学び、学んで確信したところに留まって頂きたいということです。
 
お一人ひとりに、主の格別な祝福をお祈りを致します。