礼拝メッセージ
(インマヌエル中目黒キリスト教会)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書第三版(著作権・新日本聖書刊行会)によります。
 
2017年4月23日
 
「たとえすべてが変わっても」
聖日礼拝
 
梅田 登志枝 牧師
 
へブル人への手紙 13章6-9節
 
 
[中心聖句]
 
  8   イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。
(へブル人への手紙 13章8節)


 
聖書テキスト
 
 
6 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」7 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。8 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。9 さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。
 
はじめに
 
 
時代は、またこの世のものは、ますますめまぐるしく変化していくことです。「変化」というものをどのようにお感じになるタイプでしょうか。「変化」を好む人がいます。部屋の模様替えや家具の位置を頻繁に変える人がいます。同じところに住みたくないと引越しを繰り返す人もいます。けれども一般的に人は基本、「変化」を好まないもの、と言われます。自分の習慣、行動様式を変えることに対して抵抗します。年齢が進むにつれてさらに抵抗するようです。特に外側からの変化させられることには強い抵抗を示すものです。ところが人生には様々な転機、変化が仕方なく起こる場合があります。引越し、転職、転校、進学、結婚、退職などです。それらは決して悪いことばかりではなく、むしろ良い場合もあるのですが、にもかかわらず、その「変化」にストレスを感じて、体や心を病むことさえありうるのが、私たち人間です。
 
へブル人への手紙の背景
 
 
このへブル人への手紙の記者は、不明です。恐らくパウロに近い人物が、エルサレムに在住するへブル人、つまりユダヤ人クリスチャンに書き送ったものであると言えましょう。当時、キリスト教に対する反対、迫害が増加しつつある時代でした。ネロ皇帝による大迫害も近づいていたと考えられます。また、クリスチャン信仰を捨てて、ユダヤ教の教えに戻っていく人もあったのです。このようにクリスチャンが迫害や試練でその信仰の確信を失いかけていた時代でした。そこで、手紙の書き手はユダヤ教の古い制度よりももっとすばらしいキリストを強調して、信仰者を励まし、勇気を与えたのです。この手紙は「励ましの手紙」です。そして最後の13章ではその信仰が揺るがないために「変わらないキリストを見上げましょう」と締めくくられています。

今朝はここから2つのことを考えることにします。
 
T.変わりゆくものとは何か
 
 
この地上にあるものすべてが、変わりゆくものであると言えます。どんなに「永久に長持ちする」という物を作ったとしても、それも所詮は、物ですから、作られた時があればいつか終わりが来るのです。「変わりゆくもの」はいろいろのことが考えられますが、この箇所では特に2つの「変わりゆくもの」が挙げられています。

@人(6、7節)
6節「そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう』」
7節「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」

ここに「人間、指導者たち」とあります。大きなククリで言えば人です。人は「変わりゆくもの」の代表です。「命」は素晴らしく価値高いと聖書にありますが、必ず、誰にでも最後には死が訪れます。6節に言われていることは、たとえ、それが私たちに敵対する人、私たちを苦しめる人であっても、相手が人間ならば、その苦しみにも終わりがあり、今の状況はいつかは「変わる」のです。だから、「私は恐れません」と書かれています。

7節は。私たちの「指導者」について述べています。皆様がクリスチャンになるために、そのきっかけを作り、導いてくださった先生方、クリスチャンたちがおられることと思います。たくさんの人の祈りがあり、愛と労苦があって、私たちはイエスさまを信じることができました。けれどもその指導者たちも人間ですから、やがて、私たちから去っていきます。私は子供の頃、信仰を持ちましたので、私の指導者と言える方々の何人かは、もう天に帰られました。どんなに尊敬していても頼りにしていても、人は去る日が来るのです。

私たち自身を考えても、お互い年齢とともに、「変化」を感じることでしょう。小さな子ども達は、できることが増えるという変化を経験します。ところがある年齢になりますと、できないことが増えるという変化を経験するようになります。

Aさまざまの異なった教え(9節)
9節「さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした」

ここは少し説明が必要な表現です。9節にある食物と恵みは対比された表現です。食物とは旧約の律法にこだわる「律法主義」のことです。また「恵み」は新訳の恵みのことで、「行いではなく信仰によって救われる恵み」を意味しているのです。当時、律法を守りさえすれば神様に受け入れられるという間違った教えがありました。また、キリストの神の子としての神性を認めない、という教えも広がりました。けれどもへブルの記者はそのような間違った教えに惑わされてはいけないというのです。旧約の時代の律法には、食べ物を清いもの、清くないものに区別していました。例えば、旧約聖書のレビ記11章に詳しく書かれています。動物ではひづめが分かれ、反芻するものは食べられる清いものとあります。しかし、ラクダ、岩だぬき、ウサギはダメですね。ですから、口にするものに大変、気を遣い、また他人の信仰をもその尺度で測るなど、信仰が外側の決まりごとや形式に重きが置かれてしまっていたのでした。さらにここに様々な教えが加わり変化していきました。

例えば、「安息日を覚えてこれを聖なる日としなさい」という十戒の一つがありますが、これも解釈が変化していきました。イエス様の時代になると、これが「安息日に仕事をしてはいけない」と解釈が変わります。「〜〜してはならない」を強調するのが「律法主義」です。やがて歩くことも体力を使う仕事だから「安息日には500メートル以上歩いてはならない」と変化しました。それが本当に神様のみこころであるなら、今日、中目黒教会で礼拝を守れる人はほとんどいなくなってしまうのではないでしょうか。

現代では、自分を再臨のキリストだ、と言う人が現れてその教えを広めたりします。また再臨が近いし、救われる人の数は決まっているからと主張して大変熱心に布教する方々もおられます。そういうことは聖書には書いてはいないのですが、いつの時代にも、神様の言葉の偏った解釈に基づく、偏った教えが存在します。そしてこれからも有り続けるでしょう。「それらに惑わされてはならない、それは変わりゆくものだから」と、へブル人への手紙の記者は語っているのです。
 
U.変わらないものとは何か
 
 
人も、人が作った教えも、すべてが変わっていきます。では「変わらないもの」は何だと言っているでしょうか。この箇所から3つを挙げることにいたします。

@神のみ言葉(7節)
7節「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」

先ほど、私たちの信仰を導いてくださった牧師やクリスチャンたちも、いつか地上ではお別れするという変化があると申しました。けれども7節にはその指導者たちが語り伝えた、神様のおことばは永遠に変わらない、と記されています。

第一ペテロ1章24、25節「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです」。これはイザヤ書40章からの引用です。人、草、花・・・これらはすべてうつろい、変わり、散ってゆきます。けれども神様の言葉は変わらないで時代から時代へ、永遠に伝えられていくのです。

A指導者の信仰の証し(7節)
7節「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」

私たちを導く牧師やクリスチャンの先輩の、あるいは仲間の信仰の姿は、必ずやどなたかの信仰に変わることなく受け継がれていくことでしょう。私も今日まで多くの先生方、兄弟姉妹にご指導をいただきました。お名前を挙げれば切りがないほどです。残念ながら、私の両親は地上的な財産はあまり残してはくれませんでしたが、あったとしても、それはいつかは変わりゆく、消えていくものです。けれども信仰の財産は私への朽ちない、生きる土台、糧となる財産となっていることを感謝しています。

Bイエス・キリスト(8節)
8節「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」

人は変わり、イエス様や神様に関するまちがった教えは時代の流れに乗せられるように変わりゆきます。けれども、イエス様は変わらないお方です。ヨハネの福音書1章には、イエス様は神様とこの世のはじめから共にあったと神の子、とあります。神でありながら、人として生まれ、人生を歩んでくださいました。一つも罪をお持ちにならないのに私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださいました。けれどもこれは2000年前の過去のできごとで終わっていません。今日も、悔い改めて十字架を信じる全ての人は救われ、新しい命を受けることができるのです。しかもその死から甦って下さり、現代に生きる私たちと共に歩んでくださるというこの事実は決して変わらないのです。

私たちが変わりゆくものばかりに目を奪われ揺れ動いていたら、私たちの信仰生活は、車酔い状態になることでしょう。ですから、変わりゆくものを見て、揺れ動くのでなく、変わらないイエスさまに焦点を合わせて信仰生活を歩むことが大切なのです。
 
終わりに(結論)
 
 
今日はへブル人への手紙13章から「変わりゆくもの」と「変わらないもの」について考えました。人間も、間違った教えも変わりゆきます。けれども神様のお言葉と指導者たちの信仰の証は変わらずに、私たちを導いてくださいます。そして、イエス様は神様とともに、はじめから、今日もそして、これからも永遠に変わらないお方であることを感謝しましょう。変わるものに揺れやすい私たちかもしれませんが、どうかこの週も変わらぬイエス様をしっかりと、見続けることができるように、神様の助けをいただこうではありませんか。
 
お祈りを致します。